シク王国 – 世界史用語集

シク王国(Sikh Empire、パンジャーブ王国とも呼ばれます)は、18〜19世紀に北インドのパンジャーブ平原からアフガニスタン東縁にかけて成立した地域国家で、創建者ランジート・シング(1780–1839)の下で最盛期を迎えました。彼は諸派(ミスル)に分裂していたシク共同体を統合し、ラホールを都として強力な政軍体制を築き、英東インド会社とアフガン勢力のあいだで巧みな均衡外交を展開しました。王国は近代的な常備軍と財政・行政の整備、宗教的寛容に支えられて繁栄しましたが、創建者の死後に後継争いと宮廷抗争が激化し、第一次・第二次英シク戦争(1845–46、1848–49)を経て英領インドに併合されました。要するに、シク王国は祭政一致の武装共同体から国民的王国へと飛躍した稀有な例であり、近代南アジアの国際秩序と地域社会の変容を理解する鍵となる政体です。

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成立の背景と統一――ミスル時代からランジート・シングの「ハルサ・ラージ」へ

18世紀のパンジャーブは、ムガル帝国の権威が衰退し、アフガンのドゥッラーニー朝(アフシャール朝後継)や地方有力者が割拠する混乱期にありました。シク共同体は「ダル・ハルサ(カールサ、ハルサ)」と呼ばれる信徒武装組織を基盤に、いくつもの武装同盟(ミスル)へ分散して自衛と統治を行っていました。ミスル間の競合と協調は、農村社会の自立と都市の通商利権を背景に展開し、移動性の高い騎兵戦術(ゲリラ的奇襲や迅速な徴税)によってムガルやアフガン勢力と抗争しました。

ランジート・シングはスコーラ・ミスルの首長の子として生まれ、若くして頭角を現します。1799年、戦略的要衝ラホールを無血に近い形で掌握すると、宗派や氏族を超えて有力者を取り込み、1801年には「マハラジャ(大王)」として即位しました。彼は諸ミスルを軍事・婚姻・恩賞で結び、シク共同体の「合議」と君主制の「集中」を併置する独特の政治形態を作ります。最高宗教権威アカル・タクト(アムリトサル)と王権を結びつけつつ、日常政治は宰相やディーワーン(財務・行政官)に委ね、宗教共同体の統制と領域国家の運営を両立させました。

対外的には、アフガン勢力の影響をパンジャーブから押し返すことが急務でした。マハラジャはラヴィ川・ジャンムー・カシミール方面、デラ・ガージー・ハーンからムルターン、ペシャーワルにいたる西方へ兵を進め、重要都市と交易路を制圧します。象徴的なのは、アフガン王シャー・シュジャーから有名な宝石「コ・イ・ヌール」を得た出来事(1813年)で、これは軍事的優位と外交的手腕の誇示でもありました。

軍事・行政・経済――近代化する「ハルサ軍」と多宗教・多言語の統治

シク王国の強さを支えたのは、常備軍の整備と財政基盤の強化でした。ランジート・シングはフランス革命・ナポレオン戦争で鍛えられた欧州人将校(ジャン=フランソワ・アラール、ジャン=バティスト・ヴァントゥーラ、パオロ・アヴィタビレなど)を雇い、歩兵の訓練、砲兵の編制、軍服・号令・陣形の統一を進めました。精鋭の「フォージ=イ=カース(Fauj-i-Khas、近衛常備軍)」は、西欧式操典で訓練され、騎兵中心だった伝統的戦法に歩砲協同の火力を付け加えました。アフガン国境の要衝ジャムルード(1837年)では、名将ハリ・シング・ナルワが防衛に活躍し、ペシャーワル以西の圧力を抑えました(ナルワはその戦役で戦死し、以後の西北政策に慎重さが加わります)。

砲兵は王国軍の要で、野砲・重砲・駱駝砲(ザンブーラク)を組み合わせ、攻城戦と野戦の双方に適応しました。軍需はラホールとアムリトサル、ゴビンドガル要塞などの工廠でまかなわれ、火薬・鋳造・織物などの技術が集約されました。軍制の近代化は、徴税と軍事費の安定供給を求め、地租制度の再編、貨幣の鋳造(「ナーナクシャーヒー」と呼ばれる貨幣)によって裏打ちされました。

行政は、多宗教・多言語社会を統合する柔軟さを持ちました。宮廷の官僚にはヒンドゥー、イスラームの有力者も登用され、外交・財務を担ったファキール家のアジーズッディーン兄弟(ムスリム知識人)、宰相ディヤン・シング・ドグラ(ヒンドゥー)らが重きをなします。宗教政策は比較的寛容で、モスク・寺院・グルドワーラー(シク寺院)が保護され、アムリトサルの黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)は王国の精神的中心として整備されました。牛殺の禁忌などヒンドゥー社会への配慮も行われ、宗派横断の秩序維持が志向されました。

経済面では、パンジャーブの灌漑農業と通商路の支配が繁栄をもたらしました。インダス流域の穀倉化、塩輸送路の管理、中央アジア・カーブル経由の交易に課税し、都市では職人ギルドや市場秩序を保護しました。ラホールは工芸・宝飾・写本制作の中心となり、宮廷は細密画、象嵌、織物にパトロネージを与え、独自の「ラホール様式」が開花します。王の宝物庫(トシャカーナ)には武具・宝玉・布帛・欧州製時計が収蔵され、文化の交差点として宮廷文化が成熟しました。

国際関係と拡張の頂点――アフガン・英勢力との均衡、ヒマラヤの縁辺へ

シク王国は、北西のアフガニスタン、南東の英東インド会社という二大勢力のはざまで、自主性を保持する必要がありました。1809年のアムリトサル条約で王国はサトレジ川以東における英勢力との境界と相互不可侵を取り決め、以西ではアフガン勢力に対して攻勢を維持します。ムルターンの攻略、デーラー・イスマーイール・カーン、デーラー・ガージー・ハーンの支配、さらにペシャーワルの確保によって、王国はカイバル峠の東口に至る広域を押さえました。

ヒマラヤ方面では、ジャンムーのドグラ家(グラーブ・シング、ズォーラワル・シングら)が王国の配下としてラダック・バルチスタンへ進出し、さらに1841年には西チベット(ンガリ)へも遠征しました(ズォーラワルは逆襲で戦死)。これらの戦役は王国の「高地帝国」化を志向しましたが、補給と地形の制約の大きさを露呈し、持続的支配の難しさも明らかにしました。それでも、カシミール・ラダックの編入は王国の象徴的領有の頂点であり、草原・山岳・オアシスが連なる多様な辺境統治の経験が蓄積されました。

外交は現実主義に徹しました。英露の「グレート・ゲーム」が中亚で進むなか、ラホール宮廷は英勢力との通商と情報交換を維持し、欧州式軍制の導入で抑止力を確保します。宗教的アイデンティティを核にしつつも、王国はあくまで多元的な政治共同体として、周辺勢力と実利的に向き合ったのです。

崩れゆく均衡――ランジート・シングの死、英シク戦争、併合

1839年のランジート・シングの死は、王国に致命的な空白を生みました。直系後継者カラク・シングとその子ノウ・ニハール・シングは相次いで急死し、1841年にはシェール・シングが擁立されますが、1843年に暗殺されます。宮廷ではドグラ家やサンドハーンワリア家など大貴族の権力闘争が激化し、宰相職の争奪と軍内派閥の分裂が続きました。一方、ハルサ軍は巨大化し、兵站と俸給の確保が政治を拘束するようになります。王太后ジーンド・カウルが幼王ダリープ・シングの摂政となると、英東インド会社はラホール政庁の不安定化に介入の機会をうかがいました。

1845年、第一次英シク戦争が勃発します。ムドキー、フェローゼシャー、アリーワル、そして決戦ソブラオンで激戦が展開され、シク軍は勇戦するも、指揮系統の混乱と一部上層部の不信(裏切りが疑われる行動)により敗北します。1846年のラホール条約は、領土割譲と賠償、ラホール駐在英人の受け入れを定め、さらに同年のアムリトサル条約により、カシミールはドグラ家のグラーブ・シングがイギリスから買い受ける形で分離され、ジャンムー=カシミール侯国が成立しました。これは王国解体の一里塚でした。

1848年、ムルターンでの反乱を契機に第二次英シク戦争が始まります。チリアンワラの血戦(1849年)では大損害を出しつつも持久しましたが、グジャラートの決戦で砲兵火力と機動で圧倒され、降伏。1849年、パンジャーブは英領に併合され、ダリープ・シングはロンドンへ送られ、コ・イ・ヌールも英王室の宝庫に移されました。王国の制度は解体され、ハルサ軍は解散、宗教と共同体の重心はディアスポラの形成と社会・宗教改革(シン・サバー運動、後にシク改革運動)へと移っていきます。

遺産と評価――軍事国家を超える文化的多元性

シク王国は、しばしば「軍事国家」と要約されますが、その遺産は軍事にとどまりません。第一に、宗派的アイデンティティと多宗教統治の両立を図った統治思想は特筆に値します。グルドワーラーの整備、アムリトサルの宗教空間の保護、ムスリム・ヒンドゥー官僚の登用は、信仰共同体の核を守りつつ現実政治を運用する実践でした。第二に、軍制の近代化はインド亜大陸における「ハイブリッド近代」の先例で、西欧式訓練と在来戦術の接合は、のちのインド軍事文化にも陰影を残します。第三に、ラホールを中心とする工芸・美術は、ムガル後期と欧州趣味の折衷の上に独自の様式を作り、細密画・金工・織物に新機軸を生みました。

また、パンジャーブの社会史において、王国期は農村秩序の再編が進んだ時期でもあります。徴税体系と用水路の維持は、収量の安定に寄与し、都市と農村の再結合を促しました。他方で、軍費負担と官僚・軍人エリートの特権は格差を生み、宮廷抗争が深刻化すると社会の脆弱性が露呈しました。王国の崩壊は、制度の「人格依存」と派閥均衡の破綻が国家の持続性を損なう典型例としても読めます。

シク・ディアスポラにとって、ランジート・シングの王国は今も象徴的記憶です。黄金寺院の回廊に掲げられた歴史画、軍装・宝物の展示、パンジャーブの民謡に歌われるマハラジャ像は、共同体の誇りと喪失の記憶を併せ持ちます。現代インド・パキスタンに跨るパンジャーブ地域の歴史理解でも、シク王国は国家・宗教・言語の交錯を体現する基点であり、国境を越える遺産の共有と歴史対話の素材を提供します。

総じて、シク王国は、ムガル帝国の影が退いた後の北インドで最も強靭に領域支配を実現した政治体であり、欧州帝国主義の圧力の下で地域国家が選び得た「可能性」と「限界」を併せて示しました。パンジャーブの赤土に刻まれた砲車の轍と、ラホールの輝く工芸品、その両方が、短いが濃密な半世紀の国家の肖像を今に伝えているのです。