『資治通鑑(しじつがん)』は、北宋の学者司馬光(しばこう)を中心に編まれた中国の大規模な編年体通史で、戦国の周威烈王23年(前403年)から五代の後周世宗顕徳6年(959年)まで、約1362年の歴史を年ごとに記述した全294巻の巨編です。題名の「資治」は「治(政治)を資(たす)ける」、すなわち為政者の判断に資すること、「通鑑」は過去を一望して照らし合わせる「鏡」の意です。単なる年表の羅列ではなく、朝廷の決定、軍事の機微、人事と制度、社会の風潮までを綴り、君主や官僚が歴史に学ぶための実用的教科書として設計されています。編纂は宋神宗の勅命に基づき、20年余の校訂と議論を経て1084年に完成し、以後、東アジアの政治文化・学問・教育に広く影響を与えました。要するに『資治通鑑』は、国家運営の知恵を歴史の物語として編み直した「実学の歴史書」であり、歴史叙述の手法と政治思想の双方で古典的地位を占める作品です。
成立と編纂の背景――司馬光の構想、宋代政治との関係
『資治通鑑』の編纂は、北宋の政治状況を背景に始まりました。11世紀後半、宋は遼や西夏、のちの金と国境を接し、財政・軍事・人事制度の改革をめぐって大論争が起きていました。王安石の新法派が積極的な国家介入を志向したのに対し、司馬光は保守的な立場から歴史に基づく慎重な統治を主張します。彼は「過去の成否を鏡として今の施策を正すべきだ」という信念のもと、広大な時代を貫く編年通史を構想しました。神宗の勅命は「君相の鑑」としての書物を期待し、宮廷図書と各地の史料を開放します。司馬光は洛陽に学者チーム(劉攽・劉恵・范祖禹・呂陶など)を組織し、正史や実録、碑銘・文集・地理志などを渉猟して本文を編み、注釈・校勘も重ねました。
編年体の採用は、読者である為政者にとって状況判断の筋道を示すのに適していました。各年の事件が前後関係の連鎖として現れ、政策の因果や人事の影響が可視化されます。他方で、国家や人物の評価は、司馬光の政治観に照らして選択・配列・描写がなされ、登場人物の善悪・功罪が叙述の陰影となって現れます。彼は名将・名臣の忠直と節度、君主の自抑と聴納、官僚機構の均衡を重んじ、急進や越権、軽率な戦争を戒めました。こうした価値観は、宋代官僚国家の倫理と共鳴し、後世の読者にも「政治の教科書」としての読みを促すことになります。
完成は元豊7年(1084年)。全294巻(本紀に相当する「紀」的構造は持たず、全てが編年)に、年表の役割を果たす『資治通鑑目録』や索引・類纂が付されます。司馬光は、本文に作者の論評を直接差し挟まず、必要な評価は引用と選択で示すという抑制的手法をとりました。もっとも、彼の意図や解釈は「通鑑考異」などの校勘・考証の部に表れ、出典の取捨や異同の判断が記されています。これにより、叙述の透明性と文献批判の実践という、二つの学問的規範が確立されました。
内容と構成の特色――編年体の運動神経、王朝横断の視野
『資治通鑑』は、戦国末から秦・漢・三国・西晋・東晋・南北朝・隋・唐・五代と、断絶と再統合を繰り返す中国史の大波を年次で追います。そのため、同一の年に異なる政権で起きた出来事が並置され、地域間の動きが同時進行で見通せます。たとえば三国期なら、曹魏・蜀漢・孫呉の戦略が同年の枠で交差し、外交・軍事・内政が相互に波及する様が立体的に示されます。北朝と南朝の文化・制度の差、節度使の台頭、宦官・外戚・藩鎮の力学、農民反乱や宗教運動のうねりなど、政治史の背後にある社会の振動も、事件の配置と引用文の選択を通じて浮かび上がります。
引用の巧みさは、本書の白眉です。司馬光は、正史(『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『旧唐書』など)や実録から、当該年に関わる詔・上奏・議論・書簡の断片を適切に抜き出し、短い接続文でつないで流れるような叙述を作ります。臨場感のある人物の言葉が随所に現れ、政策決定の現場の空気が伝わります。選択の背後に評価軸があるとはいえ、生の史料に近い声が編集を通じて再生されることで、読者は自ら判断する余地も与えられます。また、地理・制度・官名などは必要最小限の注で補い、読みやすさと専門性の均衡が図られています。
本書の時間設計は「持続と変化」を見分ける装置でもあります。例えば、漢代の郡県制と封建の緊張、三国期の軍事植民と兵農分離、唐代の均田制・租庸調から両税法への転換、節度使の自立と宦官の軍権掌握、法制と科挙の成熟など、制度の長い呼吸が、事件の上に薄く広くかかっています。編年体は一見断片的ですが、年の連なりを追うことで、連続体としての「国家の体質」が見えてきます。この視座が、為政者の「判断の蓄積」を意識させ、題名の「資治」に応えるわけです。
同時に、『資治通鑑』には限界もあります。編年体ゆえに、文化史・経済史・地域社会の厚みを一括で論じることは難しく、短い記事の積層に委ねられがちです。また、司馬光の政治思想(慎戦・廉恥・節度・名分重視)が引用の選択に影響し、戦略的な冒険や制度の急進が過度に警戒的に描かれる傾向も否めません。にもかかわらず、その抑制と整合性は、長期の比較に耐える「政治のバロメーター」としての価値を支えています。
方法と史学的意義――文献批判、編年体技法、政治思想
『資治通鑑』の学問的価値は、三つの層で理解できます。第一に、文献批判の実践です。司馬光は出典の異同を精査し、互いに矛盾する記事を「考異」に記録しながら本文を確定しました。これは、後世の考証学や近代歴史学に通じる手続きで、史料の重さを段階づける態度を制度化しました。皇帝や重臣の言葉も、出典の質によって扱いが変わるという冷静さは、政治的配慮と学問の距離感の取り方を示しています。
第二に、編年体の叙述技法です。多政権並走の時代を年次で統御するには、情報の取捨と接続の技術が不可欠です。『資治通鑑』は、短い接続文(綱)と引用本文(目)を組み合わせる「綱目」のリズムを確立し、事件の軽重を段落と語彙で調整しました。のちに朱子学の朱熹が『資治通鑑綱目』を編んで綱目を理論化し、儒教倫理に基づく「是非の枠」を強化しますが、原型は司馬光の編集センスにあります。綱目は、教室で歴史を読み上げるにも適し、教育現場での活用が広がりました。
第三に、政治思想の反映です。司馬光は、君主の自制・広言を聞く度量・法度の遵守・人事の公正を繰り返し称え、派閥・専権・苛政・侈費・軽戦を戒めました。彼が描く「良い政治」は、戦争の抑制、財政の節約、官僚機構の均衡、地方の自立抑制、礼と法の調和にあります。これは宋代の官僚国家が直面した課題への応答であり、後世の読者が時代に応じて取り出せる倫理的指針を提供しました。『資治通鑑』を読むことは、古典の物語を追うと同時に、政治の規範を検討する作業でもあったのです。
こうした方法と思想の結晶は、東アジアの学統に深く浸透しました。科挙受験者は『通鑑』と『綱目』の素読・会読を通じて判断の語彙を身につけ、為政者や書記官は前例を引いて政策を正当化・批判しました。日本・朝鮮でも、『通鑑』は漢文教育・武家教育の中核テキストとして流通し、軍記物・編年記の叙述に影響を与えます。記録主義、前例主義、引用のスタイルは、アーカイブ文化と行政文書の整備にも波及しました。
受容と影響――東アジア世界、近世・近代の読まれ方、現代的意義
中国では、南宋以降『資治通鑑』の抄本・注本が多数作られ、元・明・清を通じて読書界の定番となりました。朱熹の『通鑑綱目』は倫理的評価を強めたダイジェストとして広く用いられ、明清の官僚教育において「正統/僭越」「忠/奸」の二分法的な理解を植え付ける役割を果たしました。他方、明末清初の学者は、通鑑の引用と原史料の差を検討し、考証学の方法で本文批判を進めます。清代の大型叢書や校刻事業は、『通鑑』の異文・版本を整理し、テキストの安定化に寄与しました。
朝鮮では、儒教国家としての科挙・経学教育の中核に『通鑑』が据えられ、『通鑑節要』などの節本・訓点本が流布しました。王朝の政治論争では、通鑑の事例がしばしば引用され、王道政治・名分論の根拠が古典から導かれました。日本でも、中世から近世にかけて『通鑑』『綱目』の素読・講釈が武家・公家の学習体系に組み込まれ、徳川期には儒者による講義録や和訓本が多く出版されます。大名の藩校での歴史教育、幕政批判や藩政改革の論理形成にも、通鑑の語彙が潜在的に働きました。
近代以降、西洋歴史学の方法が流入すると、『資治通鑑』は批判的に読み替えられます。政治の教訓書としての性格は、社会経済史・統計・地理の重視へとバランスを求められ、通鑑の叙述が補助資料として再配置されました。しかし同時に、編年体の「同時代比較」機能、引用の透明性、長期比較の可能性は、近代歴史学にとっても有効なリソースであり続けました。データベース化・テキストマイニングの時代に入ると、通鑑は語彙頻度、官職ネットワーク、叛乱・災害・税制の記事の共起分析など、新たな方法で再活用されています。
現代における『資治通鑑』の意義は、単なる古典の保存にとどまりません。第一に、長期視点の提供です。政権交替や制度改革、財政危機、戦争と平和の循環を、千年規模で俯瞰することは、短期的な議論に偏りがちな現代に逆照射を与えます。第二に、比較のフレームです。三国や南北朝の多政権並走を同年で対照させる通鑑の器は、今日の複合危機(外交・経済・感染症・環境)の同時進行を理解する手がかりになります。第三に、言葉の訓練です。簡潔で節度ある漢文、要を得た引用・接続の技法は、意思決定のための文書作成・議事記録の作法に応用可能です。
もちろん、通鑑の規範意識は現代の価値観とそのまま重ねられません。女性・庶民・周縁の視点は希薄であり、儒教倫理による善悪の枠組みは多元的価値を包摂しにくい側面があります。ゆえに、通鑑は「唯一の正史」ではなく、他の史料・方法と併読されるべきです。しかし、歴史を政策判断の資源とするという発想、資料を比較して整序するという編集の技術は、時代を越えて有効です。『資治通鑑』は、過去を鏡として現在の選択を照らす、古くて新しい装置なのです。
総じて、『資治通鑑』は、北宋の知性が編み上げた実学の通史であり、文献批判・編年体技法・政治思想を凝縮した東アジアの歴史叙述の金字塔です。為政者の手引きとして構想されながら、教育・学問・文化の広範を潤し、近代以降も新しい読みを誘発し続けています。長く重い巻物の連なりの先にあるのは、単なる過去の記録ではなく、「どう治め、どう生きるか」をめぐる思考の訓練なのです。

