シュレジエン – 世界史用語集

「シュレジエン(Silesia/シレジアとも表記)」とは、中欧に位置する歴史的な地方名で、現在のおおよそポーランド南西部を中心に、チェコ東部・ドイツ東部の一部にまたがる地域を指します。オーデル川上流域からスデーテン山地周辺にかけての一帯で、古くから鉱山資源と工業、交通の要衝として重要視されてきました。世界史では、とくに18世紀の「シュレジエン戦争」や七年戦争で、オーストリア継承問題をめぐってプロイセンとハプスブルク家が争奪した地域として登場します。

シュレジエンの歴史的特徴は、「ある一つの民族国家の領土」として固定されることが少なく、ポーランド、ボヘミア(チェコ)、ハプスブルク帝国、プロイセン王国、ドイツ帝国など、さまざまな王朝と国家の支配下を転々としてきた点にあります。そのため、住民もドイツ語話者・ポーランド語話者・チェコ語話者などが混在し、宗教もカトリックとプロテスタントが入り交じる多層的な社会が展開しました。18世紀にはフリードリヒ2世のプロイセンがこの地域を奪取し、のちのドイツ統一や独墺関係にも深く関わることになります。

この解説では、まずシュレジエンの地理と中欧における位置づけを確認し、つぎに中世から近世にかけて、ポーランドやボヘミア、ハプスブルク家など諸勢力の支配がどのように移り変わったのかを整理します。そのうえで、マリア=テレジアとフリードリヒ2世が争ったシュレジエン戦争の経過と意義を取り上げ、最後に、19〜20世紀のドイツ・ポーランド・チェコの国境変動と多民族社会の変容という観点から、シュレジエンの近現代史を概観します。概要だけでも「シュレジエンとは、どのへんにあって、なぜ争いの的になった地域なのか」がつかめるようにし、詳しい部分は各見出しで掘り下げていく構成にします。

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地理と歴史的な位置づけ

シュレジエンは、中欧のほぼ中心部に位置し、北はオーデル川流域の平野、南はスデーテン山地の丘陵地帯に囲まれた地域です。主要都市として、現在のポーランド領内にあるヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)やグリヴィツェ、カトヴィツェなどが挙げられます。この地域は、バルト海沿岸とドナウ流域、ポーランド平原とボヘミア盆地を結ぶ交通の結節点にあたり、古くから交易路と軍事ルートの要衝でした。

自然条件としては、オーデル川やその支流に沿って肥沃な農地が広がると同時に、山地部には石炭・鉄・亜鉛・鉛などの鉱物資源が豊富に存在しました。とくに近代に入ると、上シュレジエンと呼ばれる南部地域は重工業地帯として発展し、炭鉱と製鉄業を基盤に工場や鉄道が集中するようになります。こうした経済的価値の高さが、シュレジエンをめぐる政治的争奪戦をいっそう激しいものにしました。

民族的・文化的には、シュレジエンは典型的な「境界地域」でした。中世以来、西方からはドイツ人の入植が進み、東方にはスラヴ系のポーランド人やシレジア人、南方にはチェコ人が居住していました。都市部ではドイツ語が優勢になりやすい一方、農村部にはポーランド語やシレジア方言を話す人びとが多く、宗教もカトリック信者とルター派プロテスタント、少数のユダヤ人共同体が入り交じる複雑な構成をとっていました。

このような地理的・民族的条件のもとで、シュレジエンはしばしば「どの王国・帝国に属するのか」が変動してきました。そのため、後世の民族国家の枠組みから見ると、「ポーランドの土地なのか、ドイツの土地なのか」という議論が絶えない地域にもなります。しかし、歴史的には単一民族の領土として固定されていた時期は少なく、多民族・多言語が重なり合う「中欧的空間」として理解する方が実態に近いと言えます。

中世〜近世:ポーランド・ボヘミア・ハプスブルクの支配

中世初期、シュレジエンはおもに西スラヴ系民族が住む地域であり、10世紀ごろにはポーランド王国の支配下に入ったとされます。しかし、王権の分裂や地方諸侯の自立が進むなかで、シュレジエンはポーランド本体から次第に切り離されていきました。12〜13世紀には、ドイツ人入植(東方植民)とともに、都市法や商業制度が導入され、ヴロツワフなどの都市が発展していきます。

その後、シュレジエンの諸公国は次第にボヘミア王国(現在のチェコの前身国家)の影響下に入っていきます。14世紀には、ボヘミア王が神聖ローマ皇帝も兼ねるようになり、シュレジエンは「ボヘミア王冠領」の一部として帝国の枠内に組み込まれました。これにより、シュレジエンは形式上は神聖ローマ帝国の一領邦でありつつ、実質的にはボヘミア王家の支配を受ける立場となります。

16世紀になると、ハプスブルク家がボヘミア王位と神聖ローマ皇帝位を継承し、シュレジエンもハプスブルク帝国支配のもとに置かれました。この時期、ルター派の宗教改革はシュレジエンにも広がり、多くの領主や都市がプロテスタント信仰を受け入れます。一方、ハプスブルク家はカトリックを支柱とする政策を進めたため、三十年戦争前後には宗教的対立も強まりました。

三十年戦争後、ハプスブルク帝国はボヘミアとともにシュレジエンをほぼ完全に掌握しますが、その統治は必ずしも一枚岩ではありませんでした。地元の貴族や都市は一定の自治と特権を保ち、言語的にもドイツ語とスラヴ系諸語が併存していました。ハプスブルク側から見てシュレジエンは、「帝国北方の重要な防衛線」であると同時に、「経済的に豊かな鉱山・工業地域」でもあり、その戦略的重要性は高まっていきます。

しかし、18世紀に入ると、北ドイツのプロイセン王国が台頭し、ハプスブルクとの間でドイツ世界の覇権をめぐる緊張が高まります。シュレジエンは、まさにこの対立の焦点となる地域でした。プロイセンから見れば、シュレジエンを獲得することは、経済的な利益だけでなく、地理的連続性や軍事的優位を確保するうえでも大きな意味を持っていたのです。

シュレジエン戦争とプロイセンの台頭

シュレジエンが世界史の教科書に強く登場するのは、18世紀半ばの「シュレジエン戦争」と、その延長にある七年戦争の文脈です。1740年、オーストリアの皇帝カール6世が後継の男子を残さずに死去し、ハプスブルク家の相続問題(オーストリア継承問題)が生じました。カール6世はあらかじめ「プラグマティック=サンクツィオン」という文書によって、娘マリア=テレジアへの継承をヨーロッパ諸国に認めさせていましたが、その死後、いくつかの国はこの合意を無視し、領土獲得の好機と見なします。

その中で最も素早く行動したのが、プロイセン王フリードリヒ2世でした。彼は即位直後の若い君主でしたが、シュレジエンの経済的価値と戦略的重要性に注目し、「ハプスブルク家が継承問題で混乱している隙に、この地域を既成事実として奪取すべきだ」と判断します。こうして、1740年末にプロイセン軍がシュレジエンへ侵攻し、オーストリアとのあいだで第一次シュレジエン戦争が勃発しました。

第一次シュレジエン戦争(1740〜42年)と第二次シュレジエン戦争(1744〜45年)の結果、プロイセンはシュレジエンのほぼ全域を占領し、ついにオーストリアにその割譲を認めさせます。これにより、ハプスブルク帝国は重要な工業地域と人口を失い、プロイセンは一挙に列強の仲間入りを果たしました。フリードリヒ2世は「大王」と称されるようになり、プロイセンはドイツ世界におけるハプスブルクのライバルとしての地位を固めます。

その後も、オーストリアはシュレジエン奪回をあきらめたわけではなく、フランスやロシアなどと同盟を組み、七年戦争(1756〜63年)で再びプロイセンと激突します。しかし、フリードリヒ2世の巧妙な戦略と幸運もあって、プロイセンは最終的にシュレジエンの保有を維持することに成功しました。この一連の戦争によって、シュレジエンは名実ともにプロイセン領として組み込まれ、ドイツ統一へ至るプロイセン主導の勢力均衡に決定的な影響を与えたのです。

プロイセン支配下のシュレジエンでは、行政や教育、法律などがプロイセン流に再編され、ドイツ語化も進みました。一方、農村部には依然としてポーランド語やシレジア方言を話す住民が多く、宗教的にもカトリック信徒が多数を占めていました。そのため、プロイセン当局は、信教の自由をある程度認めつつ、官僚制や軍事制度を通じて忠誠心を確保しようとする、現実的な統治を行いました。

こうしてシュレジエンは、19世紀にかけてのプロイセン、さらにはドイツ帝国の重要な工業基地として成長していきます。同時に、ポーランドやチェコの民族運動にとっては、「歴史的な自民族の領土が他国に支配されている」という象徴的な問題となり、後の国境交渉や民族紛争の火種となっていきました。

近現代のシュレジエン:国境変更と多民族社会の変容

19世紀後半、ドイツ帝国が成立すると、シュレジエンはその東部辺境ながらも重要な工業地域として位置づけられました。石炭・鉄鋼・機械工業などが発達し、多くの労働者が都市部に集まることで、社会主義運動や労働運動も芽生えます。一方で、ポーランド人やシレジア人の住民は、ドイツ語やプロテスタント文化が優勢な環境の中で、自らの言語とカトリック信仰を保持しようとしました。ここでも、民族的・宗教的なアイデンティティと国家の枠組みとのずれが生じていました。

第一次世界大戦後、ドイツ帝国が敗北し、ヴェルサイユ体制のもとでヨーロッパの国境が再編されると、シュレジエンの帰属問題が再び表面化します。とくに上シュレジエンでは、ポーランドへの編入を求める運動が高まり、1920年代初頭には住民投票(国民投票)や暴動(シレジア蜂起)が起こりました。その結果、国際連盟の調停によって、上シュレジエンはドイツ領とポーランド領に分割され、鉱工業地帯の一部が新生ポーランドに編入されることになりました。

この分割は、経済的にも民族的にも複雑な影響をもたらしました。ドイツ側に残った地域では、ポーランド系住民が少数派として生活することになり、ポーランド側ではドイツ系住民が少数派となりました。両側で少数民族への同化圧力や差別が存在し、ときに政治的緊張を生む要因ともなりました。シュレジエンは、国境線が引かれることによって、かえって民族問題が鋭く意識されるようになった地域でもあります。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、シュレジエンを含む東部領土を再びドイツ支配下に置きます。しかし、戦争の終結とともに、今度はドイツ側が敗北国となり、ポツダム会談の決定により、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領(シュレジエンの大部分を含む)はポーランドとソ連への移管が決まりました。この過程で、多くのドイツ系住民が西側へ追放・移住させられ、シュレジエンは人口構成が大きく変化します。

戦後のポーランド政府は、シュレジエンを自国領として再編し、ドイツ語地名をポーランド語名に改め、工業地帯としての再建を進めました。チェコ側に残った一部のシュレジエン地域(チェコ・シレジア)でも、類似の再編が行われました。こうして、20世紀後半には「ドイツ系住民が多数を占める多民族地域」という旧来のシュレジエン像は後退し、主としてポーランド人・チェコ人の住む地域として定着していきます。

冷戦終結後、ドイツとポーランド・チェコのあいだで国境問題は最終的に確認され、シュレジエンは国際的にも現在の国境のもとで安定した地域と見なされるようになりました。一方で、各地にはドイツ系住民の歴史やシレジア独自の文化を記憶しようとする動きもあり、博物館や記念碑、自治運動などを通じて「シュレジエン」という歴史的アイデンティティが再発見されつつあります。

世界史で「シュレジエン(シュレージエン/シレジア)」という用語に出会ったときには、中欧のポーランド南西部を中心とする歴史的地域であり、鉱工業と多民族社会、そしてプロイセンとオーストリアが争ったシュレジエン戦争の舞台として重要だ、とイメージしておくとよいでしょう。そのうえで、国民国家の枠組みが固定される以前のヨーロッパには、こうした「境界的な混住地域」が数多く存在したことを意識すると、国境や民族をめぐる近現代史のダイナミクスがより立体的に見えてきます。