国民保険法 – 世界史用語集

国民保険法とは、1911年にイギリスで制定された社会保険法で、労働者の病気や失業への備えを「保険」のしくみで支えることを初めて全国規模で制度化した法律です。ロイド=ジョージを中心とする自由党内閣が、貧困を「個人の怠慢」ではなく「産業社会の構造的なリスク」と捉え、労働者・雇用主・国家の三者が保険料を拠出して給付を行う仕掛けを導入しました。健康保険(診療・傷病手当)と、特定産業に限った失業保険(一定期間の失業手当)を柱とし、のちの福祉国家へ向かう転換点として世界史で重視されます。ただし、対象や給付は当初限定的で、女性や不安定就労者の多くは網からこぼれました。さらに、医師会や友愛組合との調整、財源をめぐる政治対立など、実施には多くの摩擦も生じました。それでもこの法律は、国家が「国民の生活上のリスクに制度的に関与する」ことを当たり前にしていく最初の大きな一歩でした。

スポンサーリンク

成立の背景と狙い:新自由主義改革と貧困の「社会化」

19世紀末から20世紀初頭のイギリスでは、長引く不況や都市労働の不安定化、スラムの拡大、児童の栄養不良などが可視化し、従来の慈善や救貧法(ワークハウス)だけでは対応できないことが明らかになりました。チャールズ・ブースやラウントリーの社会調査は、都市の「働く貧困」が偶然ではなく、賃金・失業・病気・老齢といった構造的要因から生じていることを示しました。ここから、「国家が最低限の安全網を持つべきだ」という新しい自由主義(ニュー・リベラリズム)の発想が台頭します。

自由党内閣(首相アスキス、蔵相ロイド=ジョージ、商務相チャーチルら)は、学校給食法、労働交換所(公共職業安定所)の整備、最低賃金制度の試行とともに、社会保険を柱とする包括的な改革に踏み出します。ドイツのビスマルク体制が既に疾病・災害・老齢の保険を導入していたことも強い刺激でした。とはいえ、イギリスは「任意加入の友愛組合(フレンドリー・ソサエティ)」の蓄積や、自由放任の経済思想が根強く、全員一律の国家保険には抵抗がありました。そこで、対象を「賃金労働者の中核」に絞り、保険料方式で自助と公助を組み合わせる折衷が採られたのです。

政治的には、1909年の「人民の予算」をめぐる貴族院との対立と、1911年の議会法(上院の拒否権制限)を経て、財政措置と制度設計を押し通す環境が整いました。課税強化への反発は強かったものの、帝国の競争力維持や軍備のためにも「健康で熟練した労働者」の再生産が必要だという経済合理も、改革を後押ししました。

制度の中身:健康保険と失業保険、三者拠出と承認組合

1911年国民保険法は大きく二本柱から成ります。第一は健康保険(Part I)で、被保険労働者に対し、(1)保険医による一次診療の無料提供(当時は主にかかりつけ医=一般医)、(2)一定期間の傷病手当金(病気で働けない間の現金給付)、(3)出産に対する一時金(母性給付)、(4)結核対策や療養支援などを行いました。入院や専門医療、家族の医療までは広くカバーされず、範囲は今日の医療保険より限定的でした。

運営方式の特徴が承認組合(Approved Societies)です。友愛組合や労働組合、保険会社などが条件を満たせば「承認組合」として登録され、加入者の保険料を集めて給付を管理しました。これに加入しない者は、政府直轄の「準備基金」による管理となります。保険医については、地域ごとに「保険パネル(Panel)」が編成され、加入者は名簿から医師を選ぶ仕組みで、のちに〈パネル・ドクター〉という語が一般化します。

第二の柱は失業保険(Part II)です。当初は造船・建設・機械・金属加工など景気変動の影響を受けやすい限られた業種に限定し、保険料拠出に応じて一定日数の失業手当を給付しました。職を探す窓口として、1909年に整備された労働交換所(公共職業安定所)が活用されます。対象は段階的に拡大され、1920年代の改正で適用範囲は大きく広がることになります。

資金の基本は三者拠出(労働者・雇用主・政府)です。週ごとの印紙(スタンプ)を保険手帳に貼る方式で拠出を記録し、未納があると給付が制限される仕組みでした。保険料水準や給付日数は、財政均衡を重視して慎重に設計され、保険数理に基づく「掛け金と給付の見合い」が強調されます。ここには、救貧と異なる「権利としての給付」という新しい発想が芽生えていました。

実施の現実と限界:医師会の反発、網からこぼれる人びと、戦争の影

法律の実施は順風満帆ではありません。まず、医師団体の反発が強く、保険診療の報酬体系や患者選択の自由をめぐって交渉が難航しました。政府はパネル医に対する定額支払いの引上げや、検査費・薬剤費の扱いの調整で妥結を図りますが、医療の質や地域偏在はすぐには解決しませんでした。また、病院医療や専門医へのアクセスは限られ、外来中心の一次医療にとどまった点も制約でした。

次に、適用範囲の狭さです。被用者の中核層(工場労働者・職工・事務員など)はカバーされましたが、家内労働者、季節労働者、農業労働者の一部、被扶養家族、主婦など多くが対象外でした。女性は母性一時金など一部の給付があったものの、継続的な医療保障や失業手当の恩恵は限定的でした。失業保険も対象業種が狭く、総合的な雇用保障には程遠いものでした。

さらに、友愛組合や民間保険との関係も課題です。承認組合方式は既存の組合を活かす巧みな折衷でしたが、組合間で財政力や運営能力に格差があり、給付の厚みに地域差・職域差が生まれました。組合に加入できない者は政府基金に回されるものの、きめ細かなサービスには限界がありました。

1914年からの第一次世界大戦は、制度に重い影を落とします。戦時動員で労働市場が激変し、物価高騰と財政逼迫が進む中、保険料と給付の見直しが繰り返されました。負傷兵や戦争未亡人・孤児への支援、復員後の失業対策が新たな課題となり、1920年代には失業保険の大拡張(1920年・1921年改正)と、老齢・遺族年金(1925年拠出年金制度)の整備へと政策の幅が広がっていきます。

影響とその後:ベヴァリッジ報告、NHSへの道、国際比較

1911年の国民保険法の最大の意義は、国家が社会保険という形で人びとの生活リスクを共同で引き受ける原理を定着させたことにあります。救貧法の恥辱や慈善の偶然性を避け、拠出に基づく権利として給付を受けるという発想は、労働者の尊厳と政治参加を後押ししました。これにより、労働者階級の保守化/制度化が進んだ面もありますが、長期的には普遍的な社会権の基盤となりました。

第二次世界大戦中の1942年、ウィリアム・ベヴァリッジ報告は、貧困・疾病・無知・不潔・怠惰という「五つの巨人」を打ち倒すため、単一で包括的な社会保険とサービス(普遍主義)を提言します。これを受けて、戦後の労働党政権は1946年国民保険法(老齢・遺族・失業・疾病の包括保険)と1948年国民保健サービス(NHS)を創設し、医療の無料提供を実現します。1911年制度の部分的・職域的・拠出=給付対応という枠組みは、戦後に普遍的・全国民的・税と保険の複合へと進化し、現代的福祉国家の姿が形づくられました。

国際比較の視点では、ドイツのビスマルク型(職域ベースの保険者多元制・賃金比例の拠出と給付)と、戦後イギリスのベヴァリッジ型(全国民を対象とした税・保険の混合、定額給付・無料医療)という二つの理型の間で、各国は制度設計を選び分けてきました。1911年法は、イギリスがビスマルク型の影響を受けつつも、友愛組合やパネル医を活かす独自の折衷モデルを構築した点で重要です。

また、1911年法は労使関係や政治文化にも影響しました。労働組合は承認組合の運営に参加し、労働党は福祉国家の拡充を掲げて台頭します。保守党もまた、戦後には社会保険の枠組み自体は受け入れ、競争は「どの程度・どの方法で維持するか」という実務的争点へと移っていきます。医療については、NHS創設時に医師会との激しい交渉が再燃しますが、最終的に開業医の独立性を一定程度認めつつ公的財源でカバーする形に落ち着きました。

総じて、1911年の国民保険法は、限定的で不完全ながらも、国家責任の輪郭を描いた起点でした。今日の視点からは、家族・女性・不安定就労をどう包摂するか、地域・所得による健康格差をどう縮めるか、保険と税の最適な組み合わせは何か、といった問いが続いています。歴史を学ぶことは、制度の出発点に刻まれた設計思想と、そこからの改良の道筋を見極める手がかりになります。1911年法を入り口に、福祉国家の百年を見渡すと、社会が「リスクをどう分かち合うか」という問いが、時代ごとに更新されてきたことがよくわかります。