イル・ハン国 – 世界史用語集

イル・ハン国は、13世紀半ばにモンゴル帝国の西征を率いたフラグ(フレグ)を祖とし、主にイラン・イラク・アゼルバイジャン・アルメニアなどを支配した遊牧征服王朝です。1258年のバグダード攻略でアッバース朝が滅び、イスラーム世界の政治地図が塗り替えられるなか、イル・ハン国はペルシア語圏の行政・文芸とモンゴルの軍事・遊牧文化を結びつけた独自の国家として約1世紀続きました。都はマラーゲ、のちにタブリーズ、さらにオルジェイトゥの時代にスルターニーイェへと移り、税制や法、貨幣や都市建設、学術保護といった面で大きな痕跡を残しました。

当初は仏教や景教(東方キリスト教)など多宗教が並立する宮廷でしたが、1295年にガザンがイスラームへ改宗して以降、国制はイスラーム王朝として整えられます。一方で、マムルーク朝とのシリアをめぐる抗争、北方の金帳汗国(ジョチ・ウルス)や東方のチャガタイ・ウルスとの対立、さらにヨーロッパ諸国との外交交渉など、周辺との関係は常に緊張をはらんでいました。14世紀半ば、アブー・サイードの死(1335年)後に王家が断絶すると、有力アミール(将軍)やジャライル朝などが台頭し、国家は分裂へ向かいます。それでも、ラシードゥッディーンの『集史』に代表される歴史編纂、マラーゲ天文台に象徴される学術振興、スルターニーイェ廟に見られる建築技術など、文化的遺産は後代のイラン・イスラーム世界に深く息づきました。

以下では、成立の背景と王統、統治の仕組みと社会、対外関係と戦争、そして衰退と遺産の四つの側面から、イル・ハン国の全体像を丁寧にたどります。

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成立の背景と王統――フラグの遠征からイスラーム改宗まで

イル・ハン国の出発点は、モンゴル帝国の分封と西方遠征にあります。チンギス・カンの孫にあたるフラグは、兄クビライの命を受けて西アジアの制圧を担い、1256年にニザール派イスマーイール(しばしば「暗殺教団」と通称)の要塞網を打ち破ってアラムート城塞を陥落させました。続いて1258年、チグリス川沿いの大都バグダードを攻略し、アッバース朝カリフ政権に終止符を打ちます。これにより、メソポタミアからイラン高原にかけての政治中枢は、モンゴルの軍事力を背景に再編されました。

フラグは自らを「イル・ハン(下位のハン、すなわち大ハーンに従属する諸ハンの意)」と称し、形式上は大ハーン(クビライ)への臣従を前提に西アジアの統治に当たりました。都はまずアゼルバイジャンのマラーゲ近辺に置かれ、支配の安定化とともにタブリーズが主要拠点となります。フラグの死後、王位はアバカ、アルグン、ガイハトゥ、バイドゥへと受け継がれ、1295年に即位したガザンが大転換をもたらします。

ガザンはイスラームへ改宗し(スンナ派を基調としました)、王権の正統性をイスラーム的政治理念と結びつけました。彼はディワーン(財務・行政)を再編し、税制の整備、貨幣の安定、土地台帳の作成などを推進しました。宰相として仕えたラシードゥッディーンは、財政改革の実務と並行して大著『集史』の編纂を統括し、モンゴルとイスラーム、さらに中国やヨーロッパまでを視野に入れた世界史的叙述を残します。ガザンの後継オルジェイトゥ(ムハンマド・フダーバンダ)はタブリーズ東方に新都スルターニーイェを築き、巨大なドーム廟に象徴される王権の威信を示しました。

改宗以前の宮廷は、モンゴル伝統のテングリ信仰に加え、仏教、ネストリウス派キリスト教などが共存していました。フラグの一族や后妃の中には景教徒も多く、アルメニアやグルジア(ジョージア)との同盟関係が育まれます。ガザン以後はイスラームが国政の枠組みを規定しますが、イル・ハン国の宗教風景は多層的で、学者・法学者・スーフィーの活動と、遊牧貴族や都市住民の信仰実践が交錯する社会でした。

統治と社会――都市・財政・法、知の保護と多元文化

イル・ハン国の統治は、遊牧帝国の軍事力と、ペルシア語官僚制の実務が組み合わさった体制でした。地方にはモンゴル系の王族やアミールが配され、都市行政や税務は経験豊かなイラン系・トルコ系の書記官が担いました。言語としてはペルシア語が行政と文学の通用語で、モンゴル語が宮廷と軍で重んじられ、宗教・学術の分野ではアラビア語も広く用いられました。

財政面では、ガザンの改革がよく知られます。彼は租税の重複や臨時徴発を抑え、徴税人の濫用を取り締まり、年次台帳にもとづく課税の規律化を進めました。貨幣は銀ディルハムの量目と純度が整えられ、各地での鋳造が統一的に管理されます。もっとも、短期政権であったガイハトゥは、中国(元)の制度に倣って紙幣(チャウ)を導入しようとしましたが、市場の信用を得られず短期間で失敗に終わりました。貨幣経済と自然徴収、遊牧の移動と定住農業という、異質な制度の接合の難しさが露呈した例です。

都市政策も重要です。タブリーズはコーカサスとアナトリア、イラン高原を結ぶ交易の結節点として栄え、職人ギルドやバザール、キャラバンサライが活発に機能しました。スルターニーイェでは、幾何学的な都市設計と巨大建築が推進され、オルジェイトゥ廟の壮大な二重殻ドームは当時の建築技術の粋を示します。これらの都市には、各地からアルメニア人・グルジア人・シリア人・ペルシア人・トルコ系住民などが集まり、商業ネットワークと言語・宗教の多様性が折り重なる社会が形成されました。

学術保護の象徴が、マラーゲ天文台です。フラグの庇護のもと、ナスィールッディーン・トゥースィーが中心となって天文学・数学の研究が進められ、大型観測器と図書館が整備されました。この学術拠点は、イスラーム世界の観測伝統を継承しつつ、モンゴル帝国の広域ネットワークを通じて東西の知識を集約する役割を果たしました。文芸面では、宮廷と都市のメセナが詩人・書家・細密画家を支え、工芸や書誌学が発展します。ラシードゥッディーンの史館は、全国から資料と証言を集め、図像付き写本の制作を組織的に行いました。

法と秩序の面では、モンゴルの慣習法(ヤサ)とイスラーム法(シャリーア)の調整が課題でした。軍律や遊牧の規範は馬や牧地、軍役・駅伝(ヤム)などに関わり、都市の法廷では商取引や相続、犯罪などにイスラーム法が適用されます。ガザンの改宗以後、イスラーム法学者(ウラマー)の役割が拡大し、ワクフ(宗教寄進)や学校(マドラサ)の整備が進みました。ただし、ウラマーと宮廷、都市住民と遊牧貴族の利害は常に一致するわけではなく、税負担や治安、土地水利をめぐる摩擦が各地で生じました。

対外関係と戦争――マムルーク、金帳汗国、チャガタイ、そしてヨーロッパ

イル・ハン国の対外関係は常に多正面でした。西南のシリア方面では、エジプトのマムルーク朝と対峙します。1260年、フラグの主力軍が東方に戻っている隙を突き、シリアに進出していたモンゴル軍先遣隊はアイン・ジャールートの戦いでマムルーク軍に敗北しました。以後、イル・ハン国はたびたびシリア遠征を試み、1281年のヒムス、1303年のシャフハーブ(マルジュ・アッ=スッファル)などで大規模な会戦が起こりますが、決定的勝利を得られず、ユーフラテス以西の恒久支配は実現しませんでした。

北方では、コーカサスをめぐって金帳汗国(ジョチ家)との緊張が続きました。ベルケ・ハンとフラグの対立は、カスピ海北方とカフカスの交易路・徴税権をめぐる利害の衝突でもあり、ジョチ・ウルスはイスラームに傾斜、イル・ハン側は改宗以前は多宗教的な宮廷という対照もありました。東方では、チャガタイ・ウルスとの国境地帯(ホラズムやホラーサーン周辺)で軍事的・商業的な摩擦が断続的に生じ、隊商路の安全と関所収入は国家財政に直結する死活問題でした。

一方で、南コーカサスやアナトリア東部では、アルメニア王国やグルジア王国、ルーム・セルジューク朝の残存勢力などがイル・ハンの宗主権を受け入れ、補助軍を供出する関係が築かれました。これらキリスト教勢力との同盟は、シリア戦線での兵站と情報の補完に役立ち、宮廷内の景教徒の存在とも呼応します。海の向こうのヨーロッパ諸国とも、対マムルーク共闘を模索する書簡と使節の往復が行われました。アルグンの時代には、中国出身の景教徒ラバン・サウマが欧州諸宮廷を歴訪するなど、フランコ=モンゴル同盟の試みが続きますが、実戦レベルの連携は成立しませんでした。

イル・ハン国の軍事力は、機動力に優れた騎馬弓兵を中核としつつ、イラン系・トルコ系の歩兵、アルメニアやグルジアの重装騎兵、工兵隊、投石・攻城器を組み合わせる複合軍でした。補給と駅伝制度(ヤム)によって広域作戦が可能となる一方、山岳と砂漠が交錯する西アジアの地勢は、草原の会戦だけでは解決できない消耗戦を強いました。シリア方面の遠征では夏季の補給難と疫病が繰り返し軍を蝕み、戦術的勝利が戦略的成果へ結びつかないこともしばしばでした。

衰退と遺産――王家断絶、分裂、そして文化の長い影

イル・ハン国の衰退は、アブー・サイード(位1316–1335)の死で王家が直系男子を欠いたことに端を発します。彼の後見人であった有力アミールのチョバン家は先に失脚しており、後継争いは複数の傀儡ハンと軍閥の抗争に発展しました。ジャライル朝がタブリーズを拠点に勢力を張り、さらにチョバン家残党やムザッファル朝など地方勢力が割拠します。税収基盤の弱体化、隊商路の安全悪化、地方アミールの自立化は、中央のディワーンの統合力を急速に蝕みました。

その後、14世紀後半にはティムールの遠征がイラン世界を再編し、イル・ハン期に整った都市と官僚の蓄積は新たな征服者のもとで再利用されます。政治的統一は失われても、都市の工匠、官僚の文書術、ワクフと学校の制度、法廷実務、貨幣流通、道路と駅伝の慣行は、地域社会の基層として生き続けました。タブリーズやスルターニーイェの建築は、イラン・アナトリア・コーカサスにまたがる装飾語彙と技術の交流を生み、後代のドーム建築の参照点となります。

文化的遺産の面では、第一に歴史叙述の革新が挙げられます。ラシードゥッディーンの『集史』は、宮廷の後援のもとで多言語資料と証言を集成した画期的な世界史で、モンゴル帝国史とイスラーム史、さらには中国や欧州の情報を一体の枠組みで叙述しました。第二に、科学の制度的保護です。マラーゲ天文台に始まる観測と数理の研究は、後代のサマルカンド天文台などにも影響を与え、写本制作と図像学は書物文化の成熟を促しました。第三に、法と行政の職能が整備され、ペルシア語官僚の技芸が地域横断的に共有された点です。

宗教文化の長期的影響も見逃せません。ガザン以降のイスラーム化は、イラン世界におけるスンナ派とシーア派の力学に新たな層を加え、オルジェイトゥの庇護下でシーア派神学が一定の後押しを得たことは、後世のイラン宗教史を理解するうえで示唆的です。他方で、宮廷と都市、遊牧と定住、イスラームとそれ以前の信仰慣習の接合は常に未完で、社会の摩擦は国家の脆弱性として残りました。この緊張と創造の同居こそが、イル・ハン国という国家の特徴だったと言えます。

総じて、イル・ハン国は、征服王朝が西アジアの豊かな都市文明と出会い、軍事・財政・知の制度を相互変換しながら統治を模索した実験の場でした。短命に終わった王朝でありながら、行政技術と文化保護、国際関係のダイナミクスにおいて、ペルシア語イスラーム世界の「その後」を規定する深い足跡を残したのです。イル・ハン期を丁寧にたどることは、モンゴル帝国の分岐と再編、そしてイラン世界の中世から近世への橋渡しを理解する近道になります。