国民会議派(こくみんかいぎは/Indian National Congress, INC)は、19世紀末のインドで誕生し、20世紀半ばにかけてイギリス植民地支配からの独立運動を主導した政治組織です。1885年の創設以来、請願や議会内活動を重視する「穏健派」から、ボイコット・デモ・非協力など大衆動員を進める「急進派」やガンディーの非暴力・不服従運動へと手法を段階的に切り替え、最終的に1947年のインド独立に至る政治的枠組みを作りました。ヒンドゥー、ムスリム、シク、パールシー、キリスト者など多様な共同体の有力者や都市中間層、農民・労働者、女性の参加を取り込みながら、言語・宗教・地域の違いを超える「インド民族」のアイデアを育てたことが大きな特徴です。一方で、ムスリム連盟やシーク勢力、不可触民(ダリット)運動などとの緊張と調整、経済・社会改革の優先順位をめぐる対立、指導者間の路線対立など、内外の困難に直面し続けた組織でもありました。本項では、創設から独立までの展開、主要人物と理念、運動の手法と社会基盤、分裂と再編、そして独立直前の局面までを、できるだけ分かりやすく整理します。
成立と初期展開:穏健派の請願政治から急進派の登場へ
国民会議派は1885年、イギリス人行政官A・O・ヒュームの呼びかけと、インド人有志の参加によってボンベイ(ムンバイ)で創設されました。初期の中心はダーダーバーイー・ナオロージー、プヘルマス・ボンベイカー、ゴーカレら英語教育を受けた都市エリートで、行政改革、インド人登用拡大、財政の是正などを英議会に請願する穏健な方法を採りました。彼らは演説と出版、年次総会での決議を通じて公論の形成を図り、イギリス統治の経済的収奪(「排出理論」—インドからの富の流出)を統計で批判しました。
しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、地方課税の負担、飢饉、英印軍費の増加、そして日本の台頭やロシア革命の衝撃などが政治意識を刺激し、より直接的な行動を求める声が強まります。バル・ガンガーダル・ティラク、ラール・ラージパト・ラーイー、ビピン・チャンドラ・パール(いわゆる「ラール・バール・パール」)ら急進派は、スワラージ(自治)とスワデーシ(国産品愛用)、ボイコット(外国布の不買)や焚布、民族教育の推進、国家的祝祭の動員(ガネーシャ祭の政治化)などを用いて大衆運動へ踏み出しました。
1905年、イギリス当局がベンガル分割を断行すると、ベンガルを中心にスワデーシ運動が燃え広がり、ストライキやデモ、学生運動、女性の参加が拡大しました。会議派は1907年スーラト大会で穏健派と急進派が衝突し分裂します。急進派は弾圧を受け、ティラクは投獄されましたが、民族運動は街頭の経験を蓄え、次の段階につながっていきます。
再結集とガンディーの登場:非協力から不服従へ
第一次世界大戦期、インドからは兵士・物資が大量に動員され、戦後の改革期待が高まりました。1916年のラクナウ大会では、会議派と全インド・ムスリム連盟が〈ラクナウ協定〉を結び、選挙制度での共同要求をまとめてヒンドゥー・ムスリム協調の機運が生まれます。同年、アニー・ベサントとバル・ティラクはホーム・ルール運動を推進し、自治の早期実現を訴えました。
ここに現れたのがモーハンダース・K・ガンディーです。南アフリカでの経験を基に、非暴力(アヒンサー)とサティヤーグラハ(真理把持)を掲げ、政治を倫理の実践として組み直しました。1919年、ローラット法(治安維持法)反対運動の最中にアムリトサルでジェリアンワーラ庭園虐殺事件が起き、世論は硬化します。ガンディーは1920年から非協力運動を提起し、外国布のボイコット、チャルカ(糸車)による家庭手紡ぎ、政府機関・学校・法廷のボイコット、酒類の不買などを通じて、日常生活から植民地秩序を離脱しようと呼びかけました。
非協力運動は大衆を巻き込み成功しましたが、1922年チャウリ・チャウラで群衆が警察署を襲撃・焼打ちした事件を受け、ガンディーは運動を自ら中止し逮捕されます。のち、カーンやプラサード、モティラール・ネールー、若きジャワーハルラール・ネールーらが党を支え、選挙を通じた自治州政治と、街頭運動の二本立てで影響力を広げました。
1930年、ガンディーは食塩専売制に挑む「塩の行進」を開始し、ダンディー海岸で象徴的に塩を採取して不服従運動を加速させました。全国で逮捕者が相次ぎ、国際社会の注目を集めると、英印円卓会議が開かれますが、自治の範囲や共同体代表制をめぐって溝は埋まりませんでした。それでも1935年インド統治法が成立し、州レベルでの自治が拡大、1937年選挙で会議派は各州で多数党として政権を担う経験を積みます。
社会基盤と組織の広がり:女性・農民・労働者・少数派と会議派
会議派の強みは、都市エリートのクラブから出発しながら、次第に社会の裾野へ浸透したことです。サロージニー・ナーイドゥー、アニー・ベサント、キャストゥールバー・ガンディー、アルナ・アサフ・アリーら多くの女性が前線で演説し、行進し、投獄されました。女性の参加は、公的空間における性役割を揺さぶり、独立後の参政権・教育拡大の礎になります。
農民には、地税や小作料の軽減、債務帳消し、村自治の強化が訴えられ、プラタップガルやキサン・サバー(農民組合)など地域運動が会議派と連携しました。労働者には、賃上げ・労働時間短縮・結社の自由が掲げられ、ボンベイやカルカッタのストライキと独立運動が重なります。カーン・アブドゥル・ガッファール・カーンの「国境の軍隊(フダイ・ヒドマットガル)」は、パシュトゥーン地域で非暴力運動を展開し、民族と地域の壁を横断する象徴的存在でした。
同時に、会議派は宗教・カーストの多様性に直面します。不可触民(ダリット)の代表B. R. アンベードカルは、差別撤廃と政治的代表の保障を強く求め、1932年の「プーナ協定」では、ダリットの分離選挙区に代えて一般選挙区の割当拡大・留保(リザベーション)が合意されました。これは独立後の平等政策の原型となりますが、差別の根を断つには長い時間を要しました。
ムスリム連盟との関係も揺れ続けました。ラクナウ協定の協調は、1930年代にジンナーの指導力下で距離が広がり、政治代表をめぐって「二民族論」が台頭します。会議派は世俗的国民国家(全住民の政治共同体)を掲げましたが、宗教・地域政党の台頭は分割独立の方向へと流れを変えていきました。
第二次大戦と最終局面:クィット・インディア、分割独立、政権移行
第二次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドの意向を十分に問わず参戦を宣言しました。これに抗議して、会議派の州政府は辞任し、ガンディーは1942年「クィット・インディア(インドから手を引け)」運動を宣言します。全国でストや集会・破壊行為が発生し、指導部は一斉検挙され、運動は地下化しました。大戦末期には飢饉や物価高騰が社会を苦しめ、英本国の疲弊と相まって、インド統治の継続は困難さを増します。
一方、スバス・チャンドラ・ボースは会議派内の路線対立から離脱し、前進ブロックを経て日本の支援でインド国民軍(INA)を率い、武装闘争路線を採りました。彼の路線は会議派主流とは異なりましたが、戦後のINA将兵の裁判は世論の反英感情を高め、独立機運を後押しします。
戦後、英労働党政権はインドの政権移行方針を明らかにし、内閣使節団の交渉やマウントバッテン卿の調停で、独立に向けた具体的作業が進みます。しかし会議派とムスリム連盟の協調は実らず、最終的に英領インド帝国はインド連邦とパキスタン自治領の二国に分割されることが決まりました。1947年8月、独立は実現しましたが、分割に伴う宗教暴動と大量移住は甚大な犠牲を生み、ガンディーは和解のため各地を巡りました(1948年暗殺)。
独立直前から独立後にかけて、会議派の指導者ジャワーハルラール・ネールーは初代首相として世俗民主主義と計画経済の枠組みを整え、サルダール・パテルは土侯国の統合を指揮しました。アンベードカルは憲法制定議会の草案委員長として基本権・平等・社会正義の規定を設計します。こうして、会議派の運動は、国家建設(ネーション・ビルディング)へと続いていきます。
理念・方法・遺産:多様性の中の統一をどう作ったか
国民会議派の理念は、宗教・言語・地域を超える「市民的国民」の構想にありました。〈スワラージ(自治)〉は、単なる政権交代ではなく、村の自治と教育・衛生・女性の地位向上、産業の自立(スワデーシ)、非暴力の規範など、社会改革を包摂した目標として語られました。運動の方法は、請願・選挙・司法闘争から、ボイコット・スト・行進・座り込み・不服従へと拡張し、非暴力の規律で大衆行動を統制する点に独自性がありました。チャルカやカーシー布の象徴性、国旗・歌・記念日の演出は、心理的共同体を可視化する装置として機能しました。
遺産としては、(1)多民族・多宗教社会での大衆政党運営のノウハウ、(2)国民教育と女性・被差別層の政治参加の拡大、(3)議会主義と非暴力直接行動の両立、(4)植民地国家から主権国家への法的・行政的移行の管理、が挙げられます。他方で、(A)共同体間の不信の克服が不十分なまま分割独立に至ったこと、(B)農村貧困やカースト差別の解消が長期課題として残ったこと、(C)指導者中心のカリスマ依存が組織民主主義の弱点になりがちなこと、などの限界も指摘されます。
要するに、国民会議派は、植民地期インドの多様な社会を結び合わせる「容れ物」をつくり、非暴力の規範と選挙政治・行政経験を結びつけることで、独立という政治的到達点に橋を架けた組織でした。数多の対立と試行錯誤を経て、会議派が編み上げた言語—スワラージ、スワデーシ、非暴力—は、今日もインド政治と市民運動の重要な語彙として残り続けています。

