国民革命(こくみんかくめい)とは、主に1920年代半ばの中国で、中国国民党(孫文の路線を継承)と中国共産党が第一次国共合作の下で提携し、軍閥割拠と帝国主義的な不平等体制を打破して全国統一を目指した政治・社会運動と、その武装行動(北伐)を指す呼称です。1925年の孫文死去後、広州の国民政府は労働者・学生・農民の大衆運動と軍事力を結びつけ、1926~28年に北伐を展開しました。途中、国民党右派(蒋介石)と左派・共産勢力の対立が激化し、1927年の上海クーデタ(四・一二事件)などで流血の分裂に至りましたが、最終的に南京に拠点を置く国民政府が全国的政権として承認され、北京の政権が崩れることで名目的な統一が実現しました。本項では、国民革命の理念と背景、運動の高揚と北伐、左右分裂と南京体制の成立、そして社会・国際関係への影響を、できるだけ分かりやすく整理して解説します。
理念と背景:孫文の三民主義、帝国主義体制と軍閥割拠
国民革命の思想的な核は、孫文の掲げた「三民主義(民族・民権・民生)」にありました。民族の独立(反帝国主義)、民権の確立(共和政治)、民生の安定(生計の保障)を柱とし、列強の不平等条約体制と、辛亥革命後に進行した軍閥の割拠を打破しようとする方向性です。辛亥革命(1911)で清朝は倒れましたが、中央集権は崩れ、袁世凱・段祺瑞の流れをくむ北方の各軍閥が地域ごとに権力を握り、列強は租界・租借地・関税の優位を保ち続けました。物価高騰・失業・農村負債などの社会問題、労働争議や学生運動の広がりが、政治的再編への期待を高めました。
1923年、孫文はソ連の助言を受け、中国共産党との「連ソ・容共・扶助工農」を掲げる第一次国共合作に踏み切りました。広州には黄埔軍官学校(校長・蒋介石)が設置され、党(政治)と軍(軍事)を密接に結ぶ「党軍」建設が進みます。これにより、党の指導の下で現代的な軍事教育と政治工作を受けた将校・兵士が育成され、軍事行動と大衆運動の結節が可能になりました。孫文の死(1925年)で象徴的指導者を失いながらも、彼の遺志は「連ソ・容共・扶助工農」のスローガンとして受け継がれました。
同年の五・三〇運動(上海での労働者・学生への発砲事件に端を発した反帝国主義運動)は、上海・広州・香港を中心に全国へ波及し、英資企業のストやボイコット、香港・広州大ストなどが長期化しました。これらは、都市の労働者と学生、商人、政治結社が連携して列強資本と軍閥政権に圧力をかける実践であり、国民革命の社会的土台を育てました。
運動の高揚と北伐:広州から長江へ、軍事と大衆の連動
1926年、広州の国民政府は「北伐宣言」を発し、蔣介石を総司令として湖南・湖北・江西方面へ進撃しました。これが北伐です。戦略の要は、軍閥同士の矛盾を突いて離反を誘い、農民運動・労働運動と連動して背後の統治基盤を崩すことにありました。黄埔出身の将校は各軍に浸透し、政治工作と宣伝を行いつつ、鉄道・河川・要衝都市を押さえる作戦を展開しました。
初期の敵は、長江中流域を拠点とする呉佩孚や、浙江・江蘇一帯の孫伝芳などです。湖南・湖北では農民運動が急速に拡大し、租税や地代の軽減、封建的慣行の是正を求める声が強まりました。工場・ドック・電信などインフラの拠点ではストと占拠が相次ぎ、軍の前進と都市の蜂起が呼応しました。1926年末までに武昌・漢口が陥落し、武漢(漢口・漢陽・武昌)に左派寄りの国民政府(武漢政府)が成立、広州の本部と二重権力状態を生みます。
1927年初頭、北伐軍は南京・上海へ迫り、長江下流の中心都市をめぐる攻防が焦点化しました。上海では労働者の第三次武装蜂起が発生し、都市の権力空白が生じます。ここで蔣介石は、上海の資本家・外国勢力との関係も踏まえ、共産勢力・労働組織を排除する急転回に出ます。これが4月の上海クーデタ(四・一二事件)で、青幇など都市の武装勢力や軍警を動員して共産党員・労働者を弾圧し、左派の影響力を一掃しました。これにより、第一次国共合作は実質的に崩壊し、国民革命陣営は右派(南京)と左派(武漢)に分裂します。
一方、広東では広州起義など共産側の反撃も起きましたが、軍事的には不利で鎮圧されます。1927年夏には南京の国民政府が、列強との関係修復を進めつつ内政と軍事の主導権を掌握し、武漢政府もやがて蒋側との協調に傾きました。北伐はなお継続し、山東・河北方面へと戦線が伸びていきます。
分裂の収束と南京国民政府:統一の成立と「後始末」
1928年、蒋介石は日本の影響力が強い山東に進出し、済南事件で日中両軍が衝突します。緊張の中で、北方の要衝である北京(当時の名称・北平)に向けた政治・軍事の駆け引きが本格化し、最終的に張作霖の奉天軍閥が退勢に傾きます。張作霖は同年6月に皇姑屯で爆殺され(関東軍の関与が指摘されます)、その後継の張学良は易幟(国旗変更)を行い、国民政府に帰順しました。こうして、同年末までに国民政府の名の下で全国統一が宣言され、清朝以来の首都・北京から、長江流域の南京が政治中枢として確立します。
しかし、統一といっても軍閥勢力が完全に消滅したわけではありません。各地の実力者は南京の名目下に組み込まれ、編制統一や軍縮が進められましたが、財政・税制・軍権の分配をめぐる摩擦は残りました。列強との関係では、関税自主権の回復や治外法権の撤廃交渉が進み、1920年代末から1930年代前半にかけて段階的な成果が得られます。一方で、満洲・華北では日本の軍事・経済的浸透が強まり、1931年の満州事変は、国民革命で目指した「反帝国主義」の課題が未完であることを突き付けました。
国内政策では、南京政府は法制(六法全書)や通貨制度の整備、鉄道・電力などインフラ建設、教育・衛生の拡充を掲げました。都市では警察・行政の近代化が進み、上海・南京・広州・武漢などで近代産業と文化が発展します。他方、農村の土地問題や租税の重さ、地域格差は大きく、農民運動の抑圧と治安維持が並走しました。国共分裂後、中国共産党は農村に根を下ろして根拠地を形成し、のちの長征・抗日民族統一戦線へと路線を切り替えていきます。
社会・国際関係への影響:大衆動員の経験、近代国家構想、未完の課題
国民革命は、いくつかの重要な経験を社会に残しました。第一に、大衆動員の本格化です。労働組合、学生連合、農民協会、商工団体が、ボイコット・スト・デモ・宣伝・選挙・政治教育を通じて公共空間の主役となり、都市と農村の双方で「政治に参加する」感覚が広がりました。これにより、政治は軍閥の専有物ではなく、社会の多数派が関与する領域だという意識が定着します。
第二に、近代国家の枠組み作りです。党と軍、行政と法、財政と産業を結びつける作業が始まり、通貨・関税・通信・交通・教育といった国家機能の統合が具体化しました。南京政府は国際社会における「正統政権」として承認され、外交交渉の主体として列強と向き合う制度的基盤を整えました。
第三に、路線対立の深刻化です。都市労働者中心の路線と農村重視の路線、急進的社会改革と秩序重視の統治、対外強硬と妥協—これらの選択をめぐる衝突が、国民党内部、国共間、さらには各地域社会に亀裂を残しました。上海クーデタや各地の弾圧は、革命の名の下に生じた暴力の記憶として、後世の和解を難しくする要因にもなりました。
国際的には、国民革命はアジアの反帝国主義運動に強い刺激を与えました。条約改正運動、民族資本の育成、関税自主権の回復などの課題は、インドや東南アジアの運動とも共鳴します。ソ連のコミンテルンが果たした役割、列強の通商・治外法権体制の再編は、20世紀の国際秩序の転換の一コマとして位置づけられます。
総じて言えば、国民革命は、旧体制(軍閥割拠・不平等条約・官僚腐敗)を揺さぶり、新しい国家枠組みと大衆政治の地平を切り開いた出来事でした。同時に、分裂と暴力の傷跡、農村問題と地域格差、対外関係の難題を残し、1930年代以降の内戦と抗日戦争へと課題を持ち越しました。歴史をたどる際には、理念・運動・軍事・外交の四つを重ね合わせ、広州—武漢—南京という空間の移動と、都市と農村のリズムの違いを意識すると、国民革命の全体像が立体的に見えてきます。

