ジャワ・スマトラ占領(日本) – 世界史用語集

「ジャワ・スマトラ占領(日本)」は、1942年の蘭印作戦で日本軍がオランダ領東インドの中核であるジャワ島とスマトラ島を制圧し、1945年の敗戦まで軍政下に置いた過程と、その統治・資源動員・社会変容の総体を指す用語です。海空戦で連合軍(オランダ・英米・英印部隊)を撃破して短期に島嶼を掌握したのち、石油・ゴム・錫など戦略資源の確保、米の強制供出、労働力動員(いわゆるロームシャ)、治安維持と情報統制、現地指導者の動員(スカルノ・ハッタら)と民族運動の育成(プトラ、のちジャワ奉公会)、郷土防衛義勇軍(PETA)の創設などが並行して進みました。後期には連合軍の制海権・制空権回復で輸送が破綻し、飢餓と医療崩壊、都市・油田への空襲が深刻化しました。1945年8月の敗戦直後、日本軍は武装解除を受けつつも秩序維持を命じられ、他方でインドネシア独立宣言(8月17日)と「ベルシアプ」期の混乱に直面します。占領は苛烈な動員と抑圧の記憶を刻む一方、行政・軍事・大衆動員の経験を通じて独立革命期の人材と組織を生み出したという二重の相貌を持ちます。

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侵攻・制圧(1942)――パレンバン空挺とジャワ攻略

1941年12月の開戦後、日本軍は南方作戦としてマレー半島からシンガポール、ボルネオ・セレベスを経てオランダ領東インドへ進攻しました。スマトラ島では、石油の要衝パレンバンの油田・製油所(プラジュ、スンゲイゲロン)を目標に、1942年2月に空挺降下と揚陸を組み合わせた攻撃を実施し、施設の破壊を最小限に抑えつつ占拠しました。海峡側の港湾・飛行場も短期間で掌握され、蘭印防衛の中枢は動脈を断たれます。

ジャワ島攻略は、海空優勢を確保したのち、1942年2月末から3月上旬にかけて各方面から上陸・進撃して主要都市(バタヴィア=のちのジャカルタ、スラバヤ、バンドン)を連鎖的に落とす電撃戦でした。ジャワ沖海戦・スラバヤ沖海戦で連合艦隊(ABDA艦隊)を撃破したことが、輸送船団の安全を支えました。3月上旬にはオランダ軍総司令官テル・ポールテンが降伏し、蘭印政府は瓦解します。以後、ジャワは陸軍第16軍の軍政下、スマトラは主に陸軍の管轄(当初はマレー方面軍系の部隊)に置かれ、各島に軍政監部が設けられました。

制圧直後の焦点は、司政と治安の即時回復でした。既存のオランダ系官僚・華人・アラブ商人・プリヤイ(地方行政エリート)・警察など複合的な都市社会のネットワークが崩れたため、日本軍は通貨・価格・配給・交通の再起動を急ぎ、行政の骨格に現地人官吏を組み込みました。欧米人住民・軍人は抑留収容の対象となり、少数のオランダ系協力者を除き、植民地支配の支柱は取り除かれました。

統治・動員と社会――軍政、民族指導者、PETA、ロームシャ

軍政は、経済統制・治安維持・宣伝啓蒙・教育再編を柱として進められました。オランダ語教育は縮小され、インドネシア語(マレー語)・日本語・道徳訓育が強調されます。紙面・ラジオは検閲の下に置かれ、映画・演劇は戦意昂揚と皇国史観を織り交ぜた内容に統制されました。他方で、オランダ統治下で抑圧されてきた民族派指導者スカルノ、ハッタ、スヤルフディンらを前面に出し、ジャワでは1942年に「中央指導者会(プトラ)」、1944年には「ジャワ奉公会」を通じて大衆動員を制度化しました。これらは、労務・貯蓄・出征壮行・勤労奉仕の動員機関であると同時に、民族主義の語彙と組織の蓄積の場ともなりました。

軍事面では、敵上陸・空襲への備えとして、1943年に郷土防衛義勇軍(PETA=Tentara Sukarela Pembela Tanah Air)が創設され、ジャワ・スマトラなどで現地人の下士官・兵の養成が始まります。PETAの規模はジャワで十数万に上り、訓練・階級・命令系統の経験は、終戦後のインドネシア国民軍(TNI)の母体の一つになりました。幹部候補は日本式の軍人教育を受け、規律・行進・射撃のほか、地図・通信・衛生の初歩も学びました。もっとも、重火器や航空・海上の運用は日本軍の統制下に留められ、独立戦争期に直ちに近代軍の能力を発揮できたわけではありません。

労働動員は、占領のもっとも暗い側面の一つです。道路・飛行場・鉄道・防空壕建設、農地拡張、補給・積み下ろし等に大量の労働が必要となり、徴発と斡旋を通じた労務供出が常態化しました。とくに域外(ビルマ泰緬鉄道、ニューギニア、マラヤ等)や遠隔地への送出も含む「ロームシャ」動員は過酷で、栄養失調・疾病・虐待による高い死亡率を招きました。島内でも、配給の破綻と輸送難が重なり、米価の高騰と飢餓が各地で発生しました。華人社会は資産徴発・移動規制・暴力の標的となることが多く、植民地期の人種・経済構造の歪みが占領下で増幅されました。

治安維持は憲兵・警察・補助警察の三層で行われ、反抗・蜂起・サボタージュには厳罰をもって臨みました。地下のインドネシア共産党系・イスラム系・青年グループの動きは監視され、時に弾圧を受けます。拷問・抑留・公開処刑の記録は、戦後賠償・和解の議論で繰り返し取り上げられます。他方で、日本軍内部には穏健策を唱え、行政の現地化や民族語教育を推す官僚・将校も存在し、現場ごとの温度差が住民経験の多様性を生みました。

資源と戦争経済――石油・ゴム・錫、輸送崩壊、空襲と破壊

占領の主目的に位置づけられたのが資源の確保でした。スマトラのパレンバン油田・製油所は、日本の海軍・航空燃料供給の生命線とされ、補修・操業再開・施設防護が最優先で進められました。ゴムは自動車・航空機・軍需の不可欠資材としてプランテーションの再編、加工輸出が図られ、錫・ボーキサイト・ニッケルなど金属資源の採掘も拡大が指示されます。ところが、戦局の逆転とともに海上輸送路が連合軍潜水艦・航空機の攻撃に晒され、「南方資源」は積み出し港から外洋に出る段階で喪失が増えました。タンカー・輸送船の損耗、護衛の不足、燃料自体の枯渇が負のスパイラルを招き、島内経済は自給化・代用品化・闇市化へと傾きます。

1944年以降、連合軍は東インド洋と南シナ海で優勢となり、油田・製油所・港湾・飛行場への空襲を強化しました。パレンバンのプラジュ・スンゲイゲロンは1945年1月の英東洋艦隊の空母機動部隊による大規模攻撃(オペレーション・メリディアン)などで重度の被害を受け、生産は壊滅的な打撃を受けます。ジャワでもジャカルタ・スラバヤの港湾・施設、鉄道結節点が繰り返し攻撃され、配給はさらに逼迫しました。バタヴィアは「ジャカルタ」と改称され、街路の表示や行政用語が日本式に置換されましたが、住民の暮らしを最終的に規定したのは物資の欠乏と空襲の恐怖でした。

農政では、米の強制供出制度が導入され、地方の準官僚や村落指導者(頭)を通じて集荷が進められました。協同組合の設立や品種改良・灌漑の指導も行われましたが、輸送の崩壊と高率の供出割当が農民の生活を圧迫し、逃散・隠匿・闇取引が横行しました。疫病(マラリア、赤痢、結核など)と栄養失調は、労働動員の現場で致命的な影響を及ぼし、医薬品・医療人員の不足が被害を拡大しました。

終戦・独立と占領の遺産――1945年の空白と革命のはじまり

1945年8月、日本の降伏は電撃的に占領秩序を終わらせました。英インド軍を主力とする南東アジア連合軍(SEAC)は、シンガポール・ジャワ・スマトラの順に上陸・受降を進めますが、その到着までの間、日本軍は連合軍の命令で「治安維持」を継続する立場に置かれました。同時に、8月17日にスカルノとハッタがジャカルタでインドネシアの独立を宣言し、青年層(ペムダ)・旧PETA将兵・警察・村落勢力が各地で武器・施設の接収に動きます。都市部では「ベルシアプ」と呼ばれる暴力の多発期が訪れ、オランダ系住民・華人・対立勢力が攻撃対象になる事件も相次ぎました。

日本軍と官僚は、独立勢力への武器引き渡し・中立的立場・連合軍への協力など、地域により対応が分かれました。結果として、PETA解散にもかかわらず、多くの旧隊員が共和国の治安部隊・国軍(のちTNI)に合流し、占領期の軍事教育・指揮系統の経験が独立戦争で活用されます。軍政で養成された事務官・通訳・技術者・教師も、共和国政府の人材プールを支えました。一方で、強制労働・飢餓・暴力の記憶は根深く、戦後補償・歴史認識の問題として今日まで尾を引いています。

評価は二極化をはらみます。占領は資源収奪と抑圧であり、数十万の犠牲を伴ったという厳しい認識がまず前提です。他方で、植民地行政の解体、民族語・国家象徴の普及、軍・官僚・大衆組織の形成が、独立革命の実行力・動員力を高めた面も否定できません。日本側の史料・回想とインドネシア側の口述・地域史料を突き合わせる作業が、両義的相貌を具体的に描く鍵になります。

総じて、ジャワ・スマトラ占領は、短期の電撃戦で獲得された巨大な領域を、欠乏と統制のなかで維持しようとした試みでした。海空の優勢を失ったのち、占領は住民の生活を支えられず、統治の正統性を回復する術も持ちませんでした。しかし、その過程で動員された人・制度・言語・軍事技能は、皮肉にも帝国の敗北直後に「共和国」の立ち上げを支える資本になりました。占領の光と影を読み解くことは、帝国・植民地・独立という20世紀アジアの大きな循環を、ジャワとスマトラという具体の場から理解することに繋がります。