ジャワ戦争 – 世界史用語集

ジャワ戦争(1825–1830年、いわゆるディポネゴロ戦争)は、オランダ領東インド支配の再編期に中部ジャワを中心として起こった大規模武力衝突です。名目上はジャワの宮廷秩序と農民社会の不満が爆発した内戦の体裁を取りながら、実態はオランダ植民地国家(KNIL=オランダ領東インド軍・官僚機構)と、王族ディポネゴロを首領とする在地の宗教・村落ネットワークの全面抗争でした。道路建設や地租・通行税、土地処分への反発、宮廷継承と権威の動揺、宗教的改革運動の高まりが火種となり、ゲリラ戦と小要塞線(ベントン・ステルセル)が島の経済と人口に深い傷跡を残しました。最終的にオランダ側が勝利し、ディポネゴロは捕縛・流刑となりますが、戦時の財政危機を埋めるために1830年以降の栽培制度(コーヒー・砂糖などの強制作付け)へ傾斜する転機ともなりました。戦争は、宮廷・ウラマー・農民・傭兵・女性たちが交錯した社会史の舞台でもあり、近代インドネシアが自らの起源神話として語り継ぐ記憶の核でもあります。

スポンサーリンク

背景と発端――宮廷秩序の動揺、植民地再編、宗教と土木が交差した火種

19世紀初頭、ヨーロッパの戦争(ナポレオン戦争)とオランダの政変は、ジャワの統治にも連鎖しました。英領期(1811–1816)の短い中断ののち、オランダはジャワ再統治に戻り、総督ファン・デル・カッペレン(在任1816–1826)は歳入確保と近代的土地制度を目指して地租・土地貸与の見直し、道路・橋梁の建設を進めました。これらの改革は、宮廷(ジョグジャカルタ、スラカルタ)の内政と利権、村落の慣行や墓地・聖域に触れるもので、在地社会に摩擦を生みます。

宮廷では、王位継承や摂政の実権をめぐる確執が続き、宗主オランダの介入に対する怨嗟が高まりました。とくにジョグジャカルタ宮廷では、王族ディポネゴロ(ラデン・マス・セコホ、後に「親王=プランス」として知られる)が、宮廷の腐敗とオランダの干渉に反発し、規律と信仰の回復を掲げて山間の拠点(タクス村周辺)で支持を広げます。彼はスーフィー的敬虔とシャリーアの規範を重ねる宗教的感性を持ち、ウラマー・キアイ(イスラーム指導者)やプサントレン(寄宿制神学校)と連携しながら、農民・職人・小地主・巡礼者などを動員しました。

直接の導火線になったのは、道路新設と土地処分をめぐる争いでした。道筋の拡幅や新線計画が先祖墓地・聖林を横切る案件が発し、村落側にとっては「聖域への侵犯」と映ります。加えて、通行税や物資輸送への統制強化、地代の実質的引き上げが生活を圧迫しました。宗教の敬虔と生活の防衛、宮廷の威信の修復という複数の動機が重なり、1825年、ついにディポネゴロは蜂起します。

参戦勢力と動員――王族・ウラマー・村落の連帯、KNIL・在地貴顕・傭兵の同盟

ディポネゴロ陣営は、王族近親・地方豪族(プラヤイ)・宗教指導者・村落頭・青年(サナトラ)から成る多層的連合でした。彼らはジャワ語・アラビア語の標語や預言的言説を用い、道徳の更新と「正しい秩序」の回復を訴えます。徴発・寄進・布施のネットワークが、兵糧・武器・馬・医薬の供給路として機能し、女性は情報伝達・糧秣・看護の不可欠の担い手でした。軍事指揮では、センノト・アリバスヤ・プラウィロディルジョ(センノト)、宗教家キアイ・モジョなどが著名で、それぞれが地域部隊を率い、山地と水田地帯の機動戦を展開しました。

オランダ側は、総督デュ・ビュス・ド・ジジニー(在任1826–1830)の下、軍司令ヘンドリック・メルクス・デ・コック将軍が実戦を統括します。KNIL(植民地軍)はオランダ本国兵、在地志願兵、傭兵(ドイツ系など)に加え、マドゥラやバリ、アンボン出身の戦闘員を含む混成でした。宮廷内の対立を利用し、スルタン宮からの離反派やライバル王族を引き込み、情報提供・補給・先導に用いました。近代式の滑腔銃・砲、工兵・測量の優位、そして現金給与による傭兵維持が、長期戦を支える柱です。

財政と徴発は双方の弱点であり強みでもありました。ディポネゴロ側は宗教寄進と課徴で持久し、KNIL側は関税・地租・臨時借入と本国補助で戦費を賄います。戦場となった中部ジャワの農村は田植え・収穫のサイクルを断ち切られ、徴発と焼き払いにさらされ、飢餓・疫病が広がりました。交易は関門と関所で細切れにされ、市場は軍需と闇市の二重に歪みます。

戦争の展開――ゲリラ、聖地・山地の拠点、小要塞線と「包囲の包囲」

開戦初期、ディポネゴロ軍は宮廷都市周辺の前哨を次々に襲撃し、街道・橋・税関を破壊してKNILの機動を妨げました。夜襲と伏撃、地形の熟知、宗教行事に合わせた動員などが奏功し、1826年頃まで反乱は拡大します。オランダ側は当初、正規戦の縦深進撃で決着を図ろうとしましたが、湿地・棚田・密林での追撃は難しく、損耗が嵩みました。

転機は、デ・コックが採用した「小要塞線(ベントン・ステルセル)」でした。街道・河川・峠・村落の要点に小規模の柵・土塁・駐屯地を連鎖配置し、駐屯地間を視通・伝令で結んで包囲網を織り上げるこの戦術は、ゲリラの自由な移動を圧迫し、補給線を寸断します。要塞間の掃討線(コルドン)を縮め、圧力を段階的に強める「包囲の包囲」が形成され、ディポネゴロ側は山地拠点を転々とする消耗戦に追い込まれました。

宗教的支柱キアイ・モジョの捕縛(のちに流刑)や、一部有力武将の離反も、反乱側に痛手を与えます。センノトは一時降伏後に再起を試みるなど揺らぎを見せ、地域ごとの差が顕著になりました。KNILは地図作成と測量、橋梁設営、補給線の防護を進め、乾季・雨季の運用を切り替えながら圧縮を続行します。1829年には主要拠点の多くが陥落し、1830年3月、ディポネゴロはマゲラン近郊での交渉の場に現れ、デ・コックの下で拘束されました。これにて反乱は事実上終結します。

終結後の処遇と余波――流刑、人口・財政の傷、統治と経済の再設計

ディポネゴロはまず北スラウェシのマナドに送られ、のちに南スラウェシのマカッサル(ロッテルダム要塞)に移され、1855年まで幽居のまま生涯を終えました。多くの近親・腹心も各地に流刑となり、宗教指導者や武将の一部は処刑・投獄されました。宮廷はオランダとの保護関係を更新し、王位・摂政の任命権は宗主の影響下に置かれます。宮廷儀礼と象徴は維持されつつ、その政治的実質は大幅に縮減されました。

人的被害は甚大でした。戦死・飢餓・疫病による人口減少と移住、耕地の荒廃、家屋・灌漑施設の破壊が広範に及び、復旧には長い時間を要します。オランダ側も戦費と損耗に苦しみ、本国財政と現地歳入の両面で赤字が累積しました。こうした危機を前に、1830年から本格展開する栽培制度は、現地王侯・村落首長を媒介にコーヒー・砂糖・藍・茶などの作付けと買い上げを制度化し、現金収入を着実に本国へ送金する仕組みを整えます。ジャワ戦争の出費穴埋めは、制度化された農民負担として後景に続きました。

行政は軍政色を強め、県・郡レベルの官吏に現地出身者を広く登用しつつ、裁判・警察・税務はオランダ語官僚の監督の下に置かれました。道路・港湾の再整備は「平時化」の象徴であり、同時に市場への編入を加速しました。宗教領域では、プサントレンや巡礼の監視が強化され、説教や寄付の流れは登録・許可制で管理されます。これは、戦時に宗教ネットワークが動員に果たした役割への応答でもありました。

記憶の面では、ジャワ戦争は複数の顔を持ちます。オランダ側では「秩序回復の戦争」として軍記・地図・報告に整理され、近代的コロニアル国家の自己像の一部となりました。他方、在地社会では、ディポネゴロの敬虔と節義、女性や農民の耐苦、キアイの殉教が語り継がれます。近代インドネシアの民族運動期には、画家ラデン・サレの歴史画(『ディポネゴロの拘束』)など視覚文化が記憶の骨格を形づくり、国家成立後は国民的英雄としての顕彰が制度化しました。戦争は、宮廷と大衆、宗教と政治の境界を動かし、植民地秩序の強化と、後の抵抗の語彙の蓄積を同時に生み出した出来事として、今日もなお読み直され続けています。