自由都市(じゆうとし)とは、中世から近世にかけての神聖ローマ帝国のなかで、皇帝に直属し、大きな自治権をもっていた都市のことです。とくに「帝国都市(ていこくとし)」とも呼ばれ、ドイツ語ではライヒスシュタット(Reichsstadt)、なかでも皇帝直属の「自由帝国都市(freie Reichsstadt)」という呼び方がよく使われます。封建領主や諸侯の支配下ではなく、「皇帝だけを名目上の主人としてあおぎ、都市の住民が自分たちで政治・裁判・経済を運営する」という特別な地位を認められていたことが特徴です。
これらの自由都市は、多くの場合、商業や手工業が発達した町であり、ハンザ同盟に参加する北ドイツの都市や、ライン川・ドナウ川沿いの交易都市などが含まれました。城塞に守られた町の中では、市参事会(都市参事会)や市長が選ばれ、都市の法律や税、職人ギルドの規則などが定められました。自由都市は、神聖ローマ帝国議会(帝国議会)に自前の代表を送り込むことができる、いわば「一つの小さな独立国」のような存在であり、ドイツ・ヨーロッパの都市文化と自治の伝統を語るうえで欠かせない存在です。
自由都市・帝国都市とは何か:法的地位と基本的性格
神聖ローマ帝国において、「自由都市」や「帝国都市」と呼ばれた都市は、一般の都市とは異なる特別な法的地位を持っていました。通常、中世のヨーロッパでは、都市は周囲の領主(司教、公爵、伯爵など)の支配下にあり、領主が都市の保護者であると同時に、税や裁判権を握っていました。これに対して、自由都市・帝国都市は、こうした中間的な領主の支配から解放され、「皇帝に直接従う(帝国直属)」という地位を得ていたのです。
この「皇帝直属」をドイツ語でライヒスウンミッテルバルカイト(Reichsunmittelbarkeit)と言います。自由都市や一部の司教領、帝国騎士領などが持っていたこの地位は、「帝国の構成員として直接帝国・皇帝と結びつき、その代わりに帝国議会への参加や軍役・税負担などの義務を負う」ということを意味しました。自由都市は、形式上は皇帝の「臣下」でしたが、実際には領主の干渉を受けず、自分たちで都市の政治・裁判・経済を運営する大きな自治権を持っていました。
自由都市の内部では、市民(ブルクァー)と呼ばれる身分が重視されました。市民とは、都市内に家屋や財産を持ち、一定の税を納めることで、市の防衛や政治参加に責任を負う成員を指します。すべての住人が市民だったわけではなく、移住者や貧民、日雇い労働者、女性などは政治的権利を持たないことが多く、「市民」と「非市民」の間にははっきりした境界がありました。それでも、農村の農奴に比べれば、都市の市民は「都市の空気は自由にする(Stadtluft macht frei)」という言葉に象徴されるように、比較的自由な身分と権利を享受していたと見なされます。
自由都市は、帝国議会において独自の議席を持ち、諸侯・聖職諸侯と並んで一つの「身分」として扱われました。帝国議会では、領邦君主や教会領主と同じく、都市代表が皇帝に意見を述べたり、帝国法の制定に参加したりしました。この点で、自由都市は単なる自治都市を超え、「帝国内の一つの政治主体」として位置づけられていたと言えます。
自由都市の成立背景と発展
自由都市が生まれた背景には、中世ヨーロッパにおける商業・都市の発展と、皇帝と諸侯・都市との力関係の変化があります。11~13世紀ごろ、西ヨーロッパでは農業生産の向上と人口増加を背景に、交易が活発になり、多くの都市が発展しました。ライン川やドナウ川、北海沿岸・バルト海沿岸など、重要な交通路の結節点には市場が開かれ、商人や職人が集まって町が形成されました。
こうした都市は、始めは領主の城下町として生まれましたが、商業の発展とともに、住民たちは「自分たちの経済活動に対する領主の干渉を制限してほしい」と願うようになります。そこで、市民たちは集団で領主に交渉し、特許状(都市特権)を獲得することで、一定の自治権や市参事会を持つ権利、独自の裁判権、城壁の建設・防衛の権利などを認めさせました。こうした都市特権を積み重ねることで、都市は次第に「ひとつの自治共同体」としての性格を強めていきます。
神聖ローマ帝国の皇帝にとっても、都市との関係は重要でした。皇帝は財政や軍事力を確保するために、商業都市からの税収や軍役を必要とし、また、諸侯たちの勢力を抑えるために、都市と同盟を結ぶこともありました。そのため、皇帝はときに、ある都市に対して「帝国直属」の地位を与え、領主から切り離して自らの直轄の都市とすることで、都市の忠誠を確保しようとしました。これが自由都市・帝国都市の成立につながります。
たとえば、ニュルンベルクやフランクフルト、レーゲンスブルク、アウクスブルク、ケルン、リューベック、ハンブルクなど、多くの都市が時期を異にして自由都市・帝国都市の地位を得ました。北ドイツのハンザ同盟の中核都市であるリューベックやハンブルクは、バルト海貿易・北海貿易の要衝として繁栄し、その経済力によって帝国の中でも大きな発言力を持つようになります。南ドイツやライン沿いの都市も、商業・金融・手工業の中心として発展し、ルネサンス文化の一部を担いました。
自由都市の数は時代とともに変化しましたが、16世紀ごろには80前後の都市が「帝国都市」として帝国議会の構成員となっていたとされます。しかし、その経済力や政治的地位には大きな差があり、大商業都市と小規模な地方都市では、その実力に大きな開きがありました。それでも、法律上はみな「皇帝直属の自治都市」という共通の枠組みによって結ばれていました。
自由都市の自治と都市社会
自由都市の内部では、市民たちが自らの都市を統治するための政治機構が発達しました。中心となったのが、市参事会(ラート)と呼ばれる評議会です。市参事会は、有力な商人やギルド(同職組合)の代表から構成され、市長(ブルクマイスター)やその他の役職を選びました。この市参事会が、都市法の制定、税の決定、外交交渉、軍事防衛、裁判など、都市の重要な行政を担いました。
とはいえ、実際にはすべての市民が平等に政治に参加できたわけではありません。多くの自由都市では、大商人や旧来のパトリキ(都市の旧家・有力家系)が政治を独占し、ギルドや一般市民が排除されることがありました。その結果、14~15世紀の多くの都市では、「パトリキ対ギルド」の対立や、市民による反乱・政変が起こっています。ギルド側が権利を獲得して、市政に参加できるようになった都市もあれば、旧来の支配層が権力を維持した都市もあり、都市社会の内部にも大きな緊張が存在していました。
経済面では、自由都市は手工業と商業の中心でした。職人たちはギルドに所属し、製品の品質や価格、修業期間などを規制することで、自らの利益と技術水準を守ろうとしました。商人たちは都市の市場や見本市、遠隔地交易を通じて利益を上げ、時には銀行業や信用取引にも関わりました。とくに、アウクスブルクのフッガー家やニュルンベルクの商人たちは、ヨーロッパ金融の一端を担う存在として知られています。
自由都市はまた、文化・宗教の中心でもありました。多くの自由都市には大聖堂や教会、学校があり、大学が置かれた都市もあります。印刷術の普及にともない、印刷業者や出版業者が集まり、宗教改革期にはルター派やカルヴァン派など新教の拠点となった自由都市も少なくありませんでした。帝国内の諸侯が宗派選択をめぐって揺れるなかで、都市もまた、カトリックかプロテスタントかという選択を迫られ、一つの政治問題ともなりました。
都市の生活面では、市壁に囲まれた空間のなかで、多種多様な人びとが密集して暮らしていました。市場やギルドホール、広場は、商売だけでなく、政治集会や祝祭、処刑などが行われる公共の舞台でもありました。自由都市の自治とは、こうした都市空間とコミュニティを、自分たちのルールで維持・運営することでもあり、市民たちの誇りの源でもあったのです。
帝国政治・国際経済における自由都市の役割と衰退
自由都市は、神聖ローマ帝国の政治と経済の中で重要な役割を果たしました。帝国議会では、諸侯・聖職諸侯・自由都市という三つの身分が並び立ち、自由都市は帝国法の制定や戦争・和平の決定に参加しました。もっとも、都市の票決はしばしば共同票として扱われ、個々の都市の発言力には限界がありましたが、それでも、自前の代表を持つ「都市」という政治主体が存在していたこと自体が、神聖ローマ帝国の多元的な政治構造を象徴しています。
国際経済の面では、自由都市はヨーロッパ各地を結ぶ交易ネットワークの要所でした。ハンザ同盟に参加する都市群は、北海・バルト海の海上交易を事実上支配し、穀物・木材・毛皮・塩・魚など、多様な商品を流通させました。南ドイツやライン川沿いの自由都市は、イタリア都市やオランダ・イングランドなどとの交易の中継地として栄え、時には遠隔地商業と金融業を通じて王侯の財政をも支えるほどの力を持ちました。
しかし、近世に入ると、自由都市の地位は徐々に揺らいでいきます。一つには、大航海時代以降、ヨーロッパの経済重心が地中海・北海から大西洋へと移り、スペインやポルトガル、オランダ、イングランドといった海洋国家の港湾都市が新たな中心となったことがあります。ドイツ内陸部やバルト海の一部の自由都市は、この変化のなかで相対的な地位低下を余儀なくされました。
また、神聖ローマ帝国の内部でも、領邦国家化の進展とともに、諸侯たちが自らの領土支配を強化し、都市の自治を制限しようとする動きが強まりました。三十年戦争(1618~1648年)は、多くの都市を戦禍と経済的打撃にさらし、その後の再建期には、強力な領邦国家が台頭する一方で、自由都市の独立性は相対的に弱まっていきます。ウェストファリア条約後も、形式上は自由都市の地位が維持されたものの、帝国全体の政治的求心力が低下するなかで、彼らの役割は限定的になっていきました。
決定的な転機となったのは、ナポレオン戦争期と神聖ローマ帝国の消滅です。1803年の帝国代表者会議主要決議(いわゆる帝国教会領の世俗化と領土再編)や、その後のナポレオンによるライン同盟の結成を通じて、多くの自由都市は周辺の領邦国家に併合され、その特別な地位を失いました。神聖ローマ帝国が1806年に正式に解体されると、「帝国都市」としての枠組みそのものも消滅します。
とはいえ、一部の都市はその後も「自由ハンザ都市」などの名称で、ドイツ連邦やドイツ帝国の中で特別な地位を保ちました。現代のドイツ連邦共和国でも、ハンブルクやブレーメンは「自由ハンザ都市」を名乗り、州(ラント)としての地位を持っています。これは、中世以来の自由都市の伝統が、形を変えながらも受け継がれている一例と見ることができます。
世界史の中で「自由都市(帝国都市)」という言葉に出会ったときには、単に「自由な都市」という意味にとどまらず、「皇帝直属の自治都市として、商業と市民社会の力を背景に帝国内部に独自の政治空間を築いた存在」としてイメージするとよいです。自由都市の歴史をたどることで、中世・近世ヨーロッパにおける都市の自立と自治、そして近代国家の形成の過程でそうした都市がどのように位置づけられ、変化していったのかが、より立体的に見えてきます。

