カール・マルテル – 世界史用語集

カール・マルテル(Charles Martel, 688/690頃–741)は、メロヴィング朝フランク王国で「宮宰(マヨル・ドムス)」として実権を握り、実質的な国家統合と軍制改革を進めた指導者です。彼は王位こそ名乗りませんでしたが、「フランク人の公(プリンスプス)」を称して内乱を鎮め、アキテーヌ・バイエルン・アレマンニア・フリースラントに対して軍事的優位を確立しました。732年のトゥール・ポワティエの戦い(しばしば「トゥールの戦い」「ポワティエの戦い」とも呼ばれます)でウマイヤ朝系の遠征軍を撃退したことで、後世に「西欧を救った英雄」と讃えられますが、その評価は誇張を避けつつ、内政・財政・軍事の制度づくりという地味だが決定的な仕事とセットで理解する必要があります。カールは教会財産の一部を軍役付与地(ベネフィキウム)として再分配し、騎兵・歩兵を組み合わせた戦力の動員を安定化させ、ボニファティウスら宣教者を後援して東方境域の教会組織化を推進しました。息子の小ピピン(ピピン3世)が王冠を獲得し、孫のカール大帝が帝冠を受ける基盤は、カール・マルテルの下で築かれたのです。本稿では、出自と台頭、内戦の収束と対外戦争、トゥール・ポワティエの戦いの再評価、統治と軍制・教会政策、そして継承と遺産の順で概観します。

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出自・台頭と内戦の収束—「宮宰」から「フランク人の公」へ

カールは、アウストラシア宮宰ピピン2世(中ピピン)と愛妾アルパイダのあいだに生まれました。正嫡でなかったことから、父の没後(714)に継承から外され、ネウストリアの貴族やアキテーヌ勢力、さらにはフリースラントのラドボドらが結ぶ反宮宰連合に追い詰められます。しかし716年アンブレーヴ(Amblève)での奇襲勝利を皮切りに、717年ヴィンシー(Vincy)、718年ソワソン(Soissons)で反対勢力を撃破し、ネウストリア宮宰を屈服させました。この過程で、彼は温存していた王権の権威(傀儡王の擁立)を巧みに利用しつつ、実務権限—徴税・招集・裁判—を自らの手にまとめ上げます。

安定化の第二段階は、周辺辺境の再編です。フリースラントではキリスト教化を進める宣教者を軍事的に支援して交易河川を掌握し、アレマンニアには懲罰遠征を繰り返して従属を強め、バイエルン侯には婚姻と軍事圧力の両面で関与しました。アキテーヌに対しては、公ウード(オド)の自立を容認しつつ軍事的優位を示し、ガリア南西部の均衡を保ちます。こうしてカールは、分裂するフランク世界の「交通と徴発の線」を回復し、遠征と動員が可能な領域国家へと再編していきました。

政治的に重要なのは、彼が王位につかなかった点です。メロヴィング朝の名目的王権を温存し、自身は「公・公爵(ドゥクス)」「フランク人の公(プリンスプス・フランコルム)」を称したことで、伝統秩序への正面衝突を避け、同時に実権の集中を可能にしました。この「二重構造」は、のちに息子ピピン3世が教皇の承認をもって王位を奪取する際の「法的演出」の余地を残すことにもつながります。

トゥール・ポワティエの戦いの再検討—何が止まり、何が続いたのか

732年、イベリア半島のウマイヤ朝系政権(アル=アンダルス)の総督軍は、ピレネーを越えてアキテーヌへ侵入し、ボルドー周辺の略奪や教会財の鹵獲で戦資金を得ながら北上しました。アキテーヌ公ウードは自力でこれを止められず、カールに援助を求めます。両軍はポワティエ—トゥール間の高台で対峙し、フランク軍は密集歩兵の防御陣形と騎兵の反撃でウマイヤ系の騎兵打撃力を吸収・反転させ、総督アブド・アッラフマーンが戦死する損害を与えました。遠征軍は秩序正しく撤退し、フランク側も追撃で壊滅的戦果を挙げたわけではありませんが、以後、北ガリアへの大規模侵攻は終息します。

この戦いは近代以降、「ヨーロッパをイスラームから救った決戦」と英雄化されましたが、現在の史学はより慎重です。第一に、遠征軍は定住征服ではなく略奪・威圧を主目的とした季節遠征の性格が強く、補給線も脆弱でした。第二に、アル=アンダルスの政治は内紛やマグリブ側の優先課題に左右され、ピレネー以北で長期駐留する意思と能力は限定的でした。第三に、戦後もウマイヤ勢力はセプティマニア(ナルボンヌ)やローヌ下流域へ影響を保ち、ナルボンヌは759年までムスリム勢力の手に残ります。したがって、トゥール・ポワティエの意味は、フランク領中核への大規模侵入に終止符を打ち、アキテーヌ—ルアール以北の政治秩序をカールの手で再構築できる条件を整えた、という実務的な勝利に求められます。

また、しばしば語られる「鐙の普及=騎兵革命=カールの勝利」という単純図式にも注意が必要です。鐙はこの時期までに浸透していましたが、カール軍の強みは、歩兵の密集と地形選択、補給線の確保、軍団の統制にありました。むしろ、戦後に進む軍役付与地制度(ベネフィキウム)による騎兵維持費の調達と、在地有力者を軍事的に結合する仕組みの整備が、長期的な軍事優位を支えたと見るべきです。

統治と軍制・教会政策—ベネフィキウム、在地支配、宣教の後援

カールの統治の核心は、軍役と土地、信仰と秩序の四者を結びつけたことにあります。遠征を重ねるには、兵の装備・馬匹・糧秣に安定した財源が不可欠でした。カールは、没収した反乱貴族の所領や、教会・修道院の余剰財産をベネフィキウム(受益地)として家臣に授与し、その代償として軍役(騎兵・歩兵の動員、随行の従者数、馬の頭数など)を課しました。これは単純な「没収」ではなく、しばしば教会側に「口貸し(プレカリア)」の形式を取らせ、名目所有は教会に残しつつ収益を軍事に振り向ける折衷策でもありました。この措置は教会側の反発を招きつつも、王国防衛を名分にしたときには一定の支持を得ました。

行政面では、伯(コメス)による伯領支配と、王の使者(のちのミッシ・ドミニチに継承される監察機能)を通じて、徴税・裁判・軍役割当を各地域で標準化しました。河川交通の掌握と街道の維持は動員速度を高め、辺境では「マルカ(辺境伯領)」の前段となる軍事境界線を形成します。これにより、フランク王国は「遠征ができる国家」へと性格を変えていきました。

宗教政策では、ボニファティウス(ヴィヌフリド)ら英語圏出身の宣教者を保護し、ゲルマン地域での司教区再編と修道院創設を支援しました。これは単なる信仰の問題にとどまらず、在地有力者を教会制度へ編入し、教会裁判・十分の一税・巡察といった制度を通じて王国基盤へ取り込む統治政策でもありました。宣教と軍事が併走することで、フリースラントやヘッセン、チューリンゲンでの抵抗は次第に鎮まり、ラテン西方的秩序への統合が進みます。他方、教会財産の動員は聖界の自治を損なうとの批判も残し、のちの世代に修道院改革の必要を意識させる契機ともなりました。

軍事の技術面では、騎兵・歩兵・投槍・弓の複合運用、地形選択、背後拠点の確保が重視されました。カールは機動戦と持久戦を使い分け、反乱勢力には迂回・包囲で補給を断ち、会戦では密集防御と反撃で消耗を避けます。トゥール・ポワティエでの防御優位の選択は、その典型です。こうした「負けない戦い」は、政治交渉と婚姻政策の余地を広げ、無益な殲滅戦を避ける現実主義に裏打ちされていました。

継承と遺産—ピピン3世への橋渡し、カロリング国家の基盤

741年、カールは病没し、王国は息子のカールマンとピピン(小ピピン)に分割相続されます。異母弟グリフォには一部の要害が与えられましたが、間もなく排除され、兄弟の共同統治が確立しました。カールマンは敬虔で修道院寄りの政策を志向し、ピピンはより実務的・軍事的でした。数年後、カールマンは出家してローマへ下り、ピピンは単独の宮宰として権力を固め、751年に教皇ザカリアスの承認を得てメロヴィング朝最後の王ヒルデリク3世を廃し、自らが王位に就きます。この「王位転換」は、カール・マルテルの時代に整えられた二重構造—名目王と実権者—を反転させ、教皇との新しい同盟関係(のちの教皇領形成)へ連なる政治的発明でした。

カールの遺産は三つに要約できます。第一に、動員国家としての骨格—徴発・道路・河川・伯領・監察—です。これは孫のカール大帝が広域統治を行ううえで不可欠のインフラでした。第二に、軍役と土地の結合—ベネフィキウム—で、のちの封臣制の制度的土台を用意しました。封建制の完成をカール・マルテルに遡らせるのは行き過ぎですが、軍役付有益地の発想が階層的従属関係と在地支配を育んだことは確かです。第三に、宣教と教会組織の再編です。これはラテン西方の文化統合を促し、書記文化・法・典礼の標準化に道を開きました。

評価の注意点として、カールの「トゥールの英雄化」を相対化する一方で、彼の制度設計の先駆性を過小評価しないことが挙げられます。彼は征服王というより「動員の技術者」であり、分断されたフランク世界に「秩序の線」を引き直しました。その線をなぞって、ピピンが王冠を、カール大帝が帝冠を受け取った—この連続性を押さえると、8世紀フランク史の輪郭がくっきりと見えてきます。王冠を戴かずに国家の屋台骨を建てた男。カール・マルテルとは、まさにそういう種類の指導者でした。