クリントン – 世界史用語集

「クリントン」といえば、通常はアメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントン(William Jefferson “Bill” Clinton, 1946– )を指します。1993年から2001年まで在任し、冷戦後最初の本格的な政権として、グローバル化とIT革命の波、財政再建と中流層への訴求、福祉・治安・貿易・環境・人権をめぐる政策の再編に挑みました。米国経済は史上稀な長期拡大と雇用増を記録し、連邦財政は黒字化します。一方で、医療保険改革の失敗、犯罪対策や福祉改革に伴う社会的副作用、ドント・アスク・ドント・テルやDOMAに象徴される権利保障の揺らぎ、対外ではルワンダ虐殺への不作為やソマリア介入の挫折、中東和平の頓挫など、光と影が交錯しました。モニカ・ルインスキー問題をめぐる弾劾は政治的分極の前触れとなり、在任末期のITバブルと株式高は2000年代の不安定さにも連なります。要するに、クリントンは冷戦後の「新しい中道」を標榜し、市場・国家・権利・同盟の再配置を進めた政権の象徴であり、その成功と限界が21世紀初頭の世界秩序の輪郭を形作ったのです。

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生い立ち・台頭:ニューサウスの改革知事からホワイトハウスへ

ビル・クリントンはアーカンソー州出身で、ジョージタウン大学、ローズ奨学生としてオックスフォード大学、イェール・ロースクールで学びました。妻のヒラリー・ロダムと出会ったのもイェールです。州司法長官を経て、1979年にアーカンソー州知事に就任(当時全米最年少級)。一度落選後、1983年に返り咲いて以後長期にわたり教育・経済開発の改革を進め、教師評価や学力テスト導入、道路・通信インフラ、企業誘致に注力しました。南部民主党の保守—リベラル分裂を超える「ニュー・デモクラット(新民主主義)」の発信地として、財政規律と社会投資を組み合わせる路線を固め、全米知事会などの舞台で存在感を高めます。

1992年大統領選では、景気後退と「ブッシュ政権の内政軽視」を突き、「It’s the economy, stupid.(問題は経済だ)」という合言葉のもと、第三党のペロー候補の台頭を横目に勝利しました。副大統領にはテネシー州の穏健派アル・ゴアを選び、情報通信・政府効率化・環境技術を軸にした「21世紀型成長」の物語を掲げます。

国内政策:成長と均衡財政、福祉と治安、社会権の揺れ

就任早々の1993年、クリントンは予算和解法で増税(高所得者の税率引き上げ)と歳出抑制を組み合わせたパッケージを通し、赤字削減の道筋を付けました。連邦準備制度との協調とIT投資の拡大、北米自由貿易協定(NAFTA)発効、規制緩和の一部進展、ドルの安定が重なり、1990年代半ばから雇用と生産性が上昇します。1998会計年度以降、連邦財政は黒字となり、国債残高の対GDP比は低下しました。

他方、医療保険改革ではヒラリー・ロダム・クリントンが主導した包括案が議会で頓挫し、普遍的カバレッジは実現しませんでした。部分的には、児童向け公的保険(SCHIP, 1997)や、医薬品の高齢者向け支援の前段整備などが進みます。社会政策では、1994年の犯罪法(Violent Crime Control and Law Enforcement Act)で警官10万人追加、刑罰強化、アサルトウェポン禁止、DV対策などを盛り込みましたが、長期的には大量投獄や人種的不均衡の拡大を助長したとの批判も根強いです。

1996年の福祉改革(Personal Responsibility and Work Opportunity Reconciliation Act)は、生活保護(AFDC)を就労義務と給付期限のあるTANFへと転換し、就労インセンティブと州の裁量を拡大しました。貧困率は景気拡大と最低賃金引き上げ、勤労税額控除(EITC)拡充と相まって低下した一方、景気後退期の安全網弱体化や一部の母子世帯への負担増という副作用を残します。

権利と文化の分野では、軍の同性愛者に関する「ドント・アスク・ドント・テル(DADT)」政策(1993)と、結婚の定義を異性間に限定する「結婚防衛法(DOMA, 1996)」に署名しました。後年、これらは差別的と再評価され、DADTは2010年廃止、DOMAは2013年最高裁により主要条項が違憲とされます。他方で、ブレイディ法(拳銃購入時の身元照会)や家族・医療休暇法(FMLA)、大学進学支援、技術・教育投資などの前進もあり、「小さな政府」ではなく「有能な政府」を標榜しました。

政治運営面では、1994年中間選挙で下院を共和党が制し(40年ぶり)、ニュート・ギングリッチの「アメリカとの契約」と対峙します。政府閉鎖を経てホワイトハウスは予算で妥協し、均衡財政・福祉改革・教育投資などで超党派合意を形成する一方、大統領権限の積極的行使(大統領令、否認権)と世論戦術でしのぎました。経済の好調は政権の追い風になりましたが、所得格差や株式市場の過熱、ITバブルの脆さは積み残しとなります。

通商・技術・環境:グローバル化の推進者として

通商面での目玉はNAFTA(1994)とWTO体制(1995発足)への積極関与です。米州自由貿易の深化と世界貿易のルール化を支持し、1990年代のグローバル・サプライチェーン拡大を牽引しました。中国とは1999年の恒久的最恵国待遇(PNTR)承認を経て、2001年の中国WTO加盟への道を開きます。これらは米企業の市場アクセスと消費者恩恵を拡大した一方、米国内の製造業空洞化、地域的失業、労働組合の弱体化を加速させたとの反省が、後年強まります。

技術分野では、インターネット商用化と暗号・通信の規制見直し、政府のIT化(NPR: 国家業績審査)を推進しました。ワイヤレス・半導体・ソフトウェア・ドットコム産業の成長は株価と生産性を押し上げ、ベンチャー投資と大学—産業の連携が活発化します。環境では、1997年の京都議定書に署名しつつも、批准の政治基盤を築けず、上院の反対で棚上げ状態となりました。国内ではクリーンエネルギー研究や保護区指定の拡大、環境規制の適正化を進めたものの、化石燃料依存の構造には大きく切り込めませんでした。

外交・安全保障:バルカン介入、対テロ初動、中東和平の攻防

冷戦後の安全保障で、クリントンは「拡大と関与(enlargement and engagement)」を掲げ、民主主義と市場経済の拡大、同盟の再定義、選択的介入を組み合わせました。バルカンでは、ボスニア内戦に対しNATO空爆とデイトン合意(1995)で停戦を導き、コソボ危機(1999)ではセルビアに対するNATO空爆を実施、難民流出の抑制と自治の枠組み構築を図りました。ロシアとはエリツィン期に戦略兵器削減や経済支援で協力しつつ、NATO拡大(ポーランド・ハンガリー・チェコの加盟)で摩擦を抱えます。

中東では、オスロ合意(1993)の支持、イスラエルとヨルダンの平和条約(1994)の成立を後押しし、2000年のキャンプ・デービッド会談で最終地位交渉を試みましたが、第二次インティファーダの勃発で頓挫しました。イラクには大量破壊兵器査察をめぐり、砂漠のキツネ作戦(1998)で空爆を実施。アフリカでは、ルワンダ虐殺(1994)への不介入が深い反省を呼び、後年クリントン自身が現地で謝罪の意を示します。ソマリアではモガディシュの戦闘(1993)で米軍が損害を出し、「国際介入」の限界が国内世論を冷やしました。

対テロでは、1998年のケニア・タンザニア米大使館爆破事件を受け、アル=カーイダ拠点への巡航ミサイル攻撃を行いましたが、組織壊滅には至りませんでした。北朝鮮とは1994年の枠組み合意で核活動の凍結と重油供給を取り決め、一時的な危機緩和に成功します。南アジアでは1998年、インド・パキスタンの核実験で制裁を発動しつつ、抑止管理の枠組み作りに努めました。海洋・国際法では、国際刑事裁判所(ICC)ローマ規程に署名するなど、人権・法の支配の言説を支持しました(ただし米国内批准は見送り)。

スキャンダルと弾劾、レガシーの光と影

政権は度重なるスキャンダルに揺れました。ホワイトウォーター不動産取引、トラベルゲート、FBIファイル問題などに続き、1998年にはホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーとの関係が発覚。大統領の証言をめぐる偽証・司法妨害容疑で下院は弾劾訴追を可決、上院は有罪到達に必要な票に届かず無罪となりました。弾劾過程は、メディア環境の変質、司法・政治・私生活の境界の曖昧化、党派対立の激化を映し、以後のワシントン政治の分極を加速させます。他方、世論調査での支持率は経済の堅調さもあり高止まりし、「プライバシーと職務遂行の切り分け」をめぐる議論が社会に広がりました。

退任時、失業率とインフレ率は低水準、連邦財政は黒字、株式市場は高水準で、アメリカは「唯一の超大国」としての自信を誇示していました。しかし、ITバブルの崩壊が直後に始まり、製造業の地域格差やグローバル化の痛点、犯罪法・福祉改革の負の遺産、NATO拡大に伴うロシア関係の構造的緊張、中東和平の頓挫など、長い影も残りました。

退任後:財団活動と「元大統領外交」

退任後、クリントンはクリントン財団を通じて公衆衛生(HIV/AIDS薬剤価格の引き下げと供給)、気候変動、教育・栄養、災害復興(2004年スマトラ沖地震、カトリーナ被災地)などに取り組み、国連・NGO・企業と連携したマルチステークホルダー型の施策を展開しました。ブッシュ(父)元大統領との共同支援も象徴的でした。演説・著作を通じて公共討議に参加し、2008年・2016年にはヒラリー・クリントンの大統領選を支援、民主党内の政策調整・資金調達で影響力を行使しました。

国際舞台では、コソボ独立後の安定化支援、ハイチの震災・復興での特使、アフリカの保健インフラ構築などに関与し、ソフト・パワーの体現者としての側面が強まりました。他方、財団をめぐる寄付と利益相反の疑念が繰り返し問題化し、政治的論争の的にもなります。公共性と私的ネットワークの境界をどう保つかという、元大統領時代特有の課題が浮き彫りになりました。

評価:冷戦後秩序の「中道」を設計した政権

クリントンの評価は、経済運営と国際関与の「成功」と、社会政策・権利保障・対外介入の「限界」とが拮抗します。マクロ経済と財政の成果、IT・通商の推進、バルカン介入の限定的成功は高く評価される一方、医療改革失敗、刑罰強化と大量投獄、福祉削減の副作用、グローバル化の痛点、ルワンダへの不介入、中東和平の未完、倫理スキャンダルによる政治不信の増幅が減点材料です。「第三の道(Third Way)」のモデルは欧州中道左派に影響を与えましたが、2008年以降の格差・金融危機・ポピュリズムの隆起を前に、再評価と再批判の波が交互に訪れています。

総括すれば、クリントンは冷戦終焉後の最初の「平時大統領」として、国家の役割を「大きすぎず、しかし能動的」に再定義し、グローバル化・技術革新・財政規律を梃子に社会の更新を試みました。その手つきは機能主義的で実務的でしたが、格差や地域・人種・性の不平等に対しては十分な構造改革に踏み込めなかった面も否めません。彼の時代に整えられた多くの枠組み—NAFTA、WTO体制、バルカンの和平秩序、財政運営の枠組み、対テロの初期対応—は、21世紀の国際政治・経済の基礎に残り続けています。クリントンを学ぶことは、冷戦後の「普通の時代」をどのように設計し、どのように失敗し得たのかを知る手がかりになるのです。