クリルタイ – 世界史用語集

クリルタイ(モンゴル語: quriltai/トルコ語系諸語: kurultay)は、遊牧世界における首長会議・諸部族会合を指す語で、モンゴル帝国の大ハーン選出や遠征方針の決定など、国家の根幹を左右する集団意思決定の場として機能しました。テムジンが「チンギス・ハーン」に推戴された1206年の大会議、オゴデイ(1229年)やモンケ(1251年)の即位を承認した会議、ヨーロッパ遠征を最終決定した1235年の会議などが典型例として知られます。クリルタイは単なる投票集会ではなく、軍事動員・封土分配・法令確認・儀礼・饗宴を一体化した「動く主権」の舞台でした。時代と地域によって構成員や儀礼は変化し、のちにはカザフやキルギスなどテュルク系諸遊牧民の政治文化にも受け継がれ、近現代には「民族大会」「議会」の名称として再生・転用されてもいます。本項では、語義と起源、モンゴル帝国期の制度と運用、具体事例、後世への継承と変容という観点から、クリルタイの全体像をわかりやすく解説します。

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語義・起源・範囲:遊牧社会の「集まって決める」技法

クリルタイという語は、モンゴル語の動詞quri-(集める、設ける)に由来し、「集会・会合・大会」の意味を持ちます。トルコ語系ではkur-(建てる、設立する)に由来するkurultayの形で広く用いられ、意味領域は重なります。すなわち、一定の権威を持つ首長・氏族長・部族長・将軍・宗教指導者らが、共通の議題(統治・戦争・和約・分配・法)について協議し、合意形成を図る枠組みを指します。

遊牧社会は移動を前提とするため、常設の宮廷や官僚制に頼らない統治技術を必要としました。クリルタイは、遊牧連合の構成員を時に巨大な隊商・幕営として一箇所に集め、儀礼(誓い・献酒・祈祷)と実務(軍役割当・封土配分・使節派遣)を同時に処理する「集中開催型」の政治制度でした。開催地は季節移動の要所(オノン川上流、ケルレン川流域、オルホン河谷など)で、牧草と水に恵まれ、数万の人畜が滞在できる広い草地が選ばれました。

参加者は厳密な「国民代表」ではなく、血縁・同盟・属吏関係で結ばれた上層の首長層が中心でした。ただし、参加者が連れてくる従者・兵士、家族、職能民(工人・商人)も集落規模で同行し、巨大な縁日のような様相を呈しました。ここで交換される情報、婚姻交渉、贈与、そして競技・饗宴は、政治決定の潤滑油として働きます。クリルタイは、法(ヤサ)の確認や新規条項の通達にも用いられ、書字官(ビチグチ)が決定事項を記録し、諸王・ノヤンに配布しました。

モンゴル帝国における制度と儀礼:推戴・誓約・分配・動員

モンゴル帝国において、クリルタイの中心的機能は大ハーン(カアン)の推戴でした。候補はチンギス家の成員に限られ、王族(トルイ家・オゴデイ家・チャガタイ家・ジュチ家)と有力ノヤン(将軍)、妃族(ハトゥンの実家)などがそれぞれの利害を代表して臨みました。推戴儀礼では、白いフェルトで覆った高車(ゲル)や白旗(九本の白い馬尾の旗=白九旒)を象徴として掲げ、天に誓って新ハーンの徳を讃え、クミス(馬乳酒)を地に注いで祖先と天の加護を請う所作が行われました。シャーマン的儀礼は、後段のイスラーム化やチベット仏教の影響が強まる地域でも、形式を変えつつ一定の重みを持ち続けます。

推戴と並ぶ核心は「分配(ウルスの再編)」です。遠征戦利品、封土(放牧地・都市収入・関税権)、人材(官人・工匠・学者)をどの王族・ノヤンに割り振るかは、帝国の安定に直結しました。クリルタイは、分配の正統性を担保する儀礼的・合議的な場であり、ここで承認されない分配は後々まで紛争の火種となりました。さらに、遠征や鎮圧の「目標・規模・期日・担当」を確定し、軍役(トゥメン単位など)の割当てと行軍路の概略を決め、後方の牧地移動や冬営地も連鎖的に調整しました。帝国は文字記録と口頭伝達の両輪で運用され、クリルタイは両者の結節点でした。

クリルタイの決定は、一種の「コンセンサス重視」でしたが、実際には勢力差と場外工作が大きく、全会一致は常に困難でした。ハーン未選出のまま議が流れる、あるいは遠征の規模が縮小されることもあり、対立の妥協がつかないと、のちの分裂や内戦に直結します。したがって、会期前の婚姻同盟・人質交換・贈与、会期中の席次・座次・献品の序列など、目に見える「儀礼のディテール」が政治学的に重大な意味を持ちました。

主要事例で見るクリルタイ:1206・1229・1235・1251・1260

(1)1206年:オノン川上流域の大クリルタイにおいて、テムジンが「チンギス・ハーン」として推戴されました。これはモンゴル諸氏族の長年の戦闘と同盟の収束点であり、「ヤサ(大御法)」の確認、千戸制・百戸制の軍政、郵驛(ヤム)・伝令体系の整備など、制度の骨格がここで明文化・再確認されたと理解されます。天と祖先への誓約、白旗の掲揚、功臣への封賞が、政治的正統性と友情の契約を可視化しました。

(2)1229年:チンギス死後の後継会議で、トルイ家の後見のもと三男オゴデイが大ハーンに推戴されました。長男ジュチはすでに没し、ジュチ家(西方勢力)とチャガタイ家(中央アジア)の均衡、皇太后の影響力、功臣の利害調整が絡み合いました。ここでの承認は、のちのモンゴル西征の本格化(バトゥの欧州遠征)に直結し、帝国の「多戦区同時作戦」を可能にしました。

(3)1235年:カラコルム周辺のクリルタイで、ヨーロッパ遠征(いわゆるバトゥ遠征)が最終決定されました。各ウルスに軍の分担が割り当てられ、技術者・工人・通訳・地理案内などの動員も決まります。ここでの合意は、1241年のライグニッツやモヒにおよぶ連続作戦の「政治的許可証」であり、兵站と通信を含む帝国規模の準備が、会議の同意を前提に動いたことを示します。

(4)1251年:トルイ家のモンケが大ハーンに推戴され、帝国の潮流はふたたび変わります。ここではオゴデイ家・チャガタイ家の反対派を抑えるための爵位・封土の再配分が行われ、反対派への処断もセットで進みました。モンケ推戴は、フビライとフラグの両遠征(中国内陸・西アジア)を同時展開する前提になり、帝国の行政再編(財務の統一、勅令の標準化)も加速しました。

(5)1260年前後:モンケ急逝後、フビライとアリクブケがそれぞれ別個のクリルタイで即位を主張し、二重権力が発生しました。カラコルム側(アリクブケ)と上都(フビライ)での推戴は、同一儀礼の「二重化」が正統性を分裂させ得ることを示す典型であり、内戦の末にフビライが優位に立ちますが、以後の四ハン国(元・キプチャク・チャガタイ・イルハン)体制への分化が進みます。ここに、クリルタイの「合意の場」が逆に分裂の装置にもなりうるという二面性が露わになります。

その後の継承と変容:テュルク世界・ロシア帝国・近現代の「クリルタイ」

モンゴル帝国の解体後、クリルタイ的な会合は、テュルク系諸国家でさまざまに継承・変容しました。カザフでは、諸ジュズ(大・中・小)に属するスルタン・ビイ(判事)・バトゥル(勇士)が国家危機や継承問題に際して大集会を開き、ハンの推戴や対外戦の方針を議した記録が知られます。キルギスでも、アイル(氏族)・部族の代表が集う「アイルバシの会合」や広義のクリルタイが紛争調停や慣習法(トレ)の確認に機能しました。クリミア・ハン国などでも、王族・四大ベイが参加する合議が重要で、モンゴル—テュルク的な「諸貴族の合意と儀礼」の伝統が生き続けました。

近代に入ると、「クリルタイ」はしばしば民族運動の「国民大会」の名称として甦ります。1917年、クリミア・タタールはバフチサライで「民族クリミア・クリルタイ」を開催し、自治・議会・教育の方針を決めました。中央アジアでも、ジャディード運動(近代化改革派)の一部が「クリルタイ」を民族会議の名に採用し、ロシア臨時政府期・内戦期の政治参加の器として用いました。ソ連期には公式政治語からは退きつつ、末端では「大会」「全地域会合」のニュアンスを保ち続け、ポスト・ソ連期には共和国議会の正式名称として復活した例もあります(バシコルトスタン共和国の国会は今も「国家会議(クルルタイ)」の名を持ちます)。

モンゴル語圏でも、「フラル(khural/хурал)」が近代議会の語として定着しました。たとえばモンゴル国の国会は「国家大会議(イフ・フラル)」、ブリヤート共和国の議会は「人民フラル」、カルムイク共和国では「ハラル」が用いられます。語形は異なりますが、語根は同じ「集会」で、遊牧的合意形成の言語が近代立憲制の語彙に翻訳された一例といえます。もっとも、近代議会は常設・選挙・法制定権を備えた制度であり、機能・参加原理・責任の所在は、断続的で儀礼性の濃い伝統的クリルタイとは本質的に異なります。

21世紀の中央アジア・ロシア地域では、「全国クリルタイ」「市民クリルタイ」といった名の諮問的会議が開催されることもあり、文化遺産としての連続性と、現代政治の象徴操作が交錯しています。名称の継承は歴史的記憶を喚起しますが、誰が召集権を持ち、誰が代表として参加し、決定がどの程度拘束力を持つのか—この三点を吟味しないと、伝統の引用は容易に政治的演出に堕します。歴史用語としてのクリルタイを現代に適用する際は、慎重な区別が求められます。

政治文化としての意味:移動と合意、儀礼と実務の結節点

最後に、クリルタイの政治文化的特徴を整理します。第一に、それは「移動を前提とする社会における集権化の技法」でした。遊牧世界は年中一定の中心地を持たないため、特定の季節・場所に権威と資源を集中させ、短期間に多数の決定を行う必要がありました。クリルタイは、その時間と空間の「凝縮装置」でした。

第二に、儀礼と実務が不可分であった点です。誓約・献酒・饗宴・競技・贈与は、単なる付随行事ではなく、合意の可視化であり、異なる血縁・言語・宗教を束ねる心理的・社会的セメントでした。座次や配分の細部は、法文以上に有効な規範として機能しました。

第三に、クリルタイの正統性は「誰が参加し、誰が承認したか」に依存し、逆に言えば、排除された者は別のクリルタイを立てて対抗しうるという可塑性も持っていました。1260年の二重即位はその典型で、制度の柔軟さは強みであると同時に、分裂を招く弱点でもありました。

第四に、クリルタイは記録と伝達の要衝でした。遊牧世界にも高度な書記文化が存在し、ビチグチ(書記官)が勅令・配分表・軍役簿を作成しましたが、これを実際に動員のネットワークへと落とし込むのは、会場での口頭伝達と誓約の共同体でした。文字と口承が重ね合わさるところに、制度の強靭さがありました。

こうした特質は、遊牧から定住へ、連合から官僚制国家へと移行する過程で次第に希薄化しますが、名称と記憶は政治文化の深層に残り続け、近代以降も時に呼び出されてきました。クリルタイは、歴史の中で形を変えながら生きてきた「集会」という人間の基本的な営みの、一つの壮大なバリエーションなのです。