シチリア王国 – 世界史用語集

シチリア王国(Regnum Siciliae)は、12世紀にノルマン人のルッジェーロ2世(ロジェール2世)が建てた王国で、時期によってシチリア島と南イタリア本土(アプーリア、カンパニア、カラブリア、ルチアーリア=バジリカータなど)を合わせた広大な領域を統治した国家です。地中海の要衝に位置し、イスラーム、ギリシア=ビザンツ、ラテン西欧の三文化が交差する舞台で、官僚制と王権を早期に整備した「前近代的集権王国」の先駆けとして重要です。ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の治世には、法典編纂や宮廷学芸が開花し、その後1282年の「シチリアの晩祷」によって島と本土が分裂、アラゴン系とアンジュー(のちフランス・スペイン系)による分割統治が続きました。18世紀にはブルボン家のもとでナポリ王国と連合し、1816年に両シチリア王国へ再編、1860–61年にイタリア王国へ合流して消滅します。要するにシチリア王国は、中世から近世にかけての地中海政治と多文化統治を象徴する国家であり、法制・行政・建築・文学の面で後世に大きな影響を与えた存在です。

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ノルマン征服と創建——ルッジェーロ2世の集権国家づくり

11世紀後半、ノルマンの冒険者たちは、ロンゴバルド人領主やビザンツ帝国、イスラーム系首長が割拠していた南イタリア・シチリアに介入し、徐々に足場を築きました。ロベルト・ギスカルドと弟ルッジェーロ1世の下で島の攻略が進み、イスラーム系首長の自治を一部認めつつも支配を固めます。彼らの後継者であるルッジェーロ2世は、1130年にパレルモで戴冠してシチリア王国を宣言し、教皇インノケンティウス2世との交渉・対立を経て王位を国際的に承認させました。

ルッジェーロ2世の治世の特徴は、王権の制度化です。王宮にはアラビア語を操る書記やギリシア語の学士、ラテン法の専門家が並立し、アラブ=イスラーム由来の役所(ディーワーン)に似た会計・財政管理が整えられました。貨幣鋳造、塩・穀物・関税など国営収入の組織化、王領地の直轄化が進み、在地諸侯に依存しない財政基盤が築かれます。海軍整備も顕著で、チュニス方面やビザンツ沿岸への遠征を可能にしました。こうした集権化は、イングランドやフランスに比しても早い段階での行政国家の萌芽として注目されます。

文化面では、「アラブ=ノルマン=ビザンツ様式」と呼ばれる独自の建築美が花開きました。パレルモの王宮礼拝堂(カペラ・パラティーナ)、モンレアーレ大聖堂、チェファル大聖堂などに見られる黄金のモザイク、木組みのムカルナス天井、アラビア語・ギリシア語・ラテン語の三言語銘文は、多文化統治の象徴でした。シチリアは征服の地であると同時に、共存と翻訳の場だったのです。

ホーエンシュタウフェン期とフリードリヒ2世——法と学芸の王国

12世紀末、王家相続をめぐる婚姻政治により、シチリア王国はドイツのホーエンシュタウフェン家と結びつきます。皇帝ハインリヒ6世は王女コンスタンツァと結婚して権利を継承し、その子として生まれたのがフリードリヒ2世です。彼は1212年にローマ王、1220年に皇帝となる一方で、シチリア王としての統治を重視し、王国を自らの権力の核心に位置づけました。

統治の成果で最も著名なのは、1231年の『メルフィ法典(コンスティトゥツィオーネス・メルフィターネ)』です。これは刑事・民事・行政の広範な領域に及ぶ成文法で、王権の優位、官僚制の統一、私戦・復讐の禁止、封建諸侯の裁判権制限、医療・狩猟・森林管理まで規定する包括性を持ちました。法典はローマ法学の影響を受け、近代的な「公法」意識の先駆とみなされます。また、ナポリ大学(1224創設)は、教皇庇護に頼らない「王立学問機関」として、法学・医学・行政官教育の中核となりました。

宮廷文化も特筆されます。パレルモとナポリには詩人・学者が集い、いわゆる「シチリア派詩人」は、恋愛詩のトポスと抒情形式を洗練させ、のちのダンテやイタリア文学に橋を架けました。科学・博物学では、天文・狩猟・動物誌の編纂が進み、アラビア語文献のラテン語訳が学知の伝達に寄与しました。フリードリヒ2世の普遍君主性は、教皇権としばしば衝突し、第六回十字軍では軍事よりも交渉でイェルサレム回復を実現するなど、独自の現実主義を見せます。

もっとも、中央集権と多民族統治は緊張も孕みました。ムスリム住民は一時的に内陸のルチーラ(ルチーラではなくルチーラは地名表記の揺れがあり、ルチーラ=ルチーラ平野地域、一般にルチーラではなくルチーラ=ルチーラの地名は現行地図ではルチェーラと表記されることが多いです)に集住させられ、反乱と移住の波が生まれます。教皇や北イタリア都市との抗争、ドイツ諸侯との関係悪化など、フリードリヒ2世の「二重の冠」は王国に過大な負荷をかけました。彼の没後、王朝は弱体化し、教皇はアンジュー伯シャルル(カペー家支流)を南イタリアへ招き入れる布石を打ちます。

「シチリアの晩祷」と分裂——アラゴン系シチリアとアンジュー=ナポリ

1266年、アンジュー伯シャルル(のちのナポリ王シャルル1世)はベネヴェントの戦いでホーエンシュタウフェン家のマンフレーディを破り、南イタリア・シチリアに新王朝を樹立しました。彼は教皇と結び、王都をナポリに定めて王国の再編を進めます。しかし重税とフランス人官僚の偏寵は反感を呼び、1282年3月、パレルモで夕べの祈りの鐘が鳴る頃に暴動が勃発しました。これが「シチリアの晩祷(ヴェスプロ)」で、島民はフランス人を襲撃し、アンジュー支配は島で瓦解します。

シチリア島側はアラゴン王ペドロ3世を招いて王位を与え、以後、島はアラゴン系(のちアラゴン連合王国、さらにスペイン王国)に、南イタリア本土はアンジュー系(のちヴァロワ系、さらにスペイン・オーストリア)に支配される二重構造が定着しました。1302年のカルタベッロッタ条約は、形式上は双方の権利を曖昧に認めつつ、実質的分裂を追認します。以後、文書上は双方が「シチリア王国」を名乗るため、島側を「トリナクリア王国」、本土側を「ナポリ王国(陸地のシチリア)」と呼び分ける慣習が生まれました。

アラゴン系の統治下、シチリア島は地中海交易の網の目に再び組み込まれます。カタルーニャ商人はパレルモやメッシーナに拠点を築き、穀物・サフラン・綿・砂糖などの輸出で潤いました。一方で、封建的特権を持つ大貴族が台頭し、カタルーニャ系・シチリア在来系の派閥抗争、王権との均衡が政治の核心となります。王国議会(パーラメント)は三身分(聖職・貴族・都市)から成り、課税同意や特権確認の舞台として機能しました。

本土側のナポリ王国は、アンジュー家のもとでフランス文化の宮廷を築き、文学・法学が栄えました。14〜15世紀にはヴァロワ系アンジュー、アラゴン王家のナポリ支配(アルフォンソ5世)など、王位継承戦が続きます。15世紀末のイタリア戦争でフランスとスペイン・ハプスブルクが争い、16世紀にはスペイン・ハプスブルクの副王領として再編され、王国の命運は大国政治の文脈で決まるようになります。

近世の再編からイタリア統一へ——スペイン・オーストリア・ブルボン、そして消滅

16〜17世紀、シチリア(島)とナポリ(本土)はスペイン・ハプスブルクの副王統治に服し、対オスマン防衛の最前線、穀倉地帯・租税財源として重要視されました。地震・疫病・飢饉が断続し、固定地代・輸出商の利益優先が農村社会の脆弱性を高めます。都市ではバロック文化が花開き、カターニア、パレルモ、ナポリに広場と教会、宮殿が生まれました。宗教面では、対抗宗教改革とともに異端審問の統制が強まり、政治文化の保守化が進みます。

18世紀、スペイン継承戦争の講和(1713–14)で、シチリアは一時サヴォイア家へ、本土ナポリはオーストリアへ割譲されましたが、1734年のポーランド継承戦争でスペイン・ブルボンのカルロ(のちスペイン王カルロス3世)がナポリとシチリアを征服し、両王国の国王となります。彼は改革(財政整理、港湾整備、学術振興)を進め、宮廷文化を刷新しました。ナポレオン戦争期、ナポリ本土は一時フランス系王朝(ジョゼフ・ボナパルト、ミュラ)に奪われ、シチリア島は英海軍の保護下で憲法実験(1812年憲法)を試みます。

1816年、戦後再編によりナポリとシチリアは正式に統合され、「両シチリア王国」と改称されました。もっとも、統合は島の自治伝統を圧縮し、1848年革命ではパレルモが独自憲法を掲げて反乱するなど、地域間の緊張は残ります。経済面では、穀物・柑橘・硫黄輸出が続く一方、工業化とインフラ整備は北中部イタリアに比して遅れ、租税構造の重さと土地所有の偏在が社会問題を慢性化させました。

1860年、ガリバルディの「千人隊」がシチリアに上陸(マルサラ)し、義勇軍と農民蜂起の支援を得てパレルモ・メッシーナを攻略、続いてナポリ本土へ進撃します。 plebiscito(住民投票)を経て両シチリア王国はサルデーニャ王国(のちイタリア王国)に併合され、1861年にイタリア王国が成立しました。こうして、12世紀に始まった「シチリア王国」は制度としての幕を閉じますが、その法制・文化・都市景観は、統一後のイタリアと地中海世界に長い影を落とし続けました。

総括——地中海の十字路に立つ多文化王国の遺産

シチリア王国の特質は、第一に早期の集権行政と法の整備、第二にアラブ・ギリシア・ラテンが重なり合う多文化統治、第三に地中海交易と海軍力を基盤とする外向性にありました。フリードリヒ2世の法典や王立大学、アラブ=ノルマン建築は、いずれも「統治の合理化」と「文化の交錯」を可視化する遺産です。「シチリアの晩祷」による分裂は、島と本土の道筋を分け、のちのスペイン・オーストリア・ブルボン・イギリスといった大国の駒となる運命を強めましたが、同時に地中海の結節点としての吸引力は失われませんでした。統一イタリアの成立により制度としての王国は消えましたが、パレルモの金色のモザイク、モンレアーレの回廊、チェファルの荘厳なキリスト像、ナポリとパレルモに残る官庁区画や港湾都市の骨格は、今も中世の王国が持っていたスケールと混淆の気配を伝えているのです。