「イタリア民族運動(リソルジメント)」は、19世紀のイタリア半島で、分裂した諸国家と異なる身分や地域の人びとが「イタリア人」という共通の枠組みを築き、最終的に一つの国家をつくり上げていく長期の運動を指します。陰に隠れた地下結社の活動から始まり、新聞・本・歌や記念式典といった文化の力、そして外交と戦争の現実的手段が重なり合って進みました。共和主義か立憲王政かという目標の違いを抱えつつも、オーストリアの支配を退け、住民投票や講和を重ねて領土を統合し、1870年のローマ併合まで駆け抜けた流れです。単なる戦争史ではなく、「国家をどうやって社会の中に作るか」をめぐる試行錯誤の積み重ねでした。
運動の顔ぶれは多彩です。マッツィーニの青年イタリアやカルボナリに代表される秘密結社、義勇の象徴ガリバルディ、列強外交を操ったサルデーニャ王国宰相カヴール、そして王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世。さらに都市の印刷業者、港湾労働者、農村の小作、学校の教師、オペラ座の観客まで、様々な層が異なるかたちで運動に参加しました。新聞の普及や鉄道の開通は情報を結び、ヴェルディの合唱や三色旗は「同じ物語」を共有させました。一方で、南北の格差や宗教と国家の関係、暴力の是非など、乗り越えられない溝もありました。
最初の高まりは1848年の「諸国民の春」に訪れ、ミラノやヴェネツィアの蜂起、ローマ共和国の実験、第一次独立戦争の敗北を経験します。続く1859年には仏軍の援助の下でオーストリアに勝利してロンバルディアを得、1860年にガリバルディの「千人隊」が南部を制し、1861年にイタリア王国が成立します。1866年には普墺戦争の余波でヴェネトを獲得し、1870年のローマ併合で地理的統一が整いました。こうして「イタリア民族運動」は、理想の宣言から国家の現実へと姿を変え、20世紀の課題へと続いていきます。
起源と理念:分裂の時代に生まれた「イタリア」という想像力
ウィーン体制(1815年)下のイタリア半島は、北のロンバルディア=ヴェネツィアがオーストリア帝国の直轄、その周囲にハプスブルクと縁戚関係にある諸公国、中央に教皇領、南にはブルボン系の両シチリア王国という分割状態でした。関税と検閲、警察統治が強く、交易や言論の自由は制約されていました。こうした状況の中で、早くから憲法と民族自決を求める運動が芽生え、1820〜21年、1830〜31年と断続的に蜂起が起こりました。これらは短期で鎮圧されましたが、地下結社の網や政治言語、象徴(旗・歌・記章)が鍛えられます。
思想面の柱となったのが、ジュゼッペ・マッツィーニの共和主義です。彼は1831年に「青年イタリア」を創設し、教育・宣伝・陰謀の三位一体で「人民の道徳的再生(リソルジメント)」を説きました。マッツィーニは、王侯の均衡や大国の密約で運命を決められるのではなく、人民が自らの意思で国家をつくるべきだと主張しました。この「道徳的・市民的宗教」ともいえる構想は、文学者・学生・職人に響き、亡命ネットワークを通じて欧州各地に広がります。
一方、ピエモンテ=サルデーニャ王国を拠点に台頭したのが、カミッロ・カヴールの現実主義です。彼は自由貿易と鉄道建設、財政の安定化で国家の「器」を強くし、列強の会議に席を得ることを重視しました。共和的理想を断ち切るのではなく、段階的に王国を核として統一を進め、外交と戦争を織り交ぜる路線です。二つの潮流はしばしば緊張しましたが、いずれもオーストリアの後退と「イタリア人」の可視化という目的を共有していました。
民衆文化の側面も重要です。オペラの合唱や新聞の論説、愛国詩と挿絵、都市の祝祭や追悼式は、ばらばらの地域に共通の感情を生みました。ヴェルディ(VERDI)の名が、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の支持を示す頭字語(Vittorio Emanuele Re D’Italia)として街頭の落書きに用いられた逸話は象徴的です。言語の統一は容易ではありませんでしたが、学校教育と兵役が方言圏を横断し、新聞・鉄道・郵便が「想像の共同体」を広げていきました。
組織・人物・手段:地下結社から外交・戦争、そして文化動員へ
運動の担い手は三層で理解しやすいです。第一に、カルボナリや青年イタリアに代表される秘密結社・陰謀団です。彼らは連絡網と印刷物で都市を結び、蜂起の合図と情報の流通を支えました。第二に、国家エリートと行政官僚です。サルデーニャ王国の文官・軍人は、鉄道・税制・徴兵を運用して「統一後にも使える制度」を先取りしました。第三に、義勇兵と都市社団(救護組織・自警団・職人組合)です。ガリバルディの隊は、戦闘力だけでなく、軍服・歌・旗という「見える政治」を持ち込んで大衆をひきつけました。
手段の面でも、地下活動から公開政治、そして国際外交へと幅が広がります。マッツィーニ派の「道徳の世論」を育てる方法は、新聞・パンフレット・演説・記念式典・殉教者追悼などのレパートリーを洗練させました。カヴールはクリミア戦争への象徴的参戦(1855)で列強の会議にアクセスし、1858年のプロンビエール密約でフランス皇帝ナポレオン3世の軍事支援を取り付けます。ガリバルディは「千人隊」のゲリラ的行動で南部に突破口を開き、住民投票と王国軍の編入によって征服地を国家の枠に組み込みました。
宗教と国家の関係も運動の核心でした。教皇ピウス9世は当初改革的でしたが、1848年のローマ共和国の経験を経て世俗化に警戒を強め、統一国家と長期の対立(ローマ問題)に入ります。これにより「カトリックの信仰を持つ愛国者」がどのように国家に関わるかという難題が生じ、教育・婚姻・土地・修道会財産といった具体的争点に波及しました。民族運動は単に「対オーストリア」ではなく、社会制度の大改造でもあったのです。
展開の節目:1848の試練から1870のローマ併合へ
1848年の「諸国民の春」で、ミラノの「五日間」とヴェネツィアの共和国再建が実現し、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは第一次独立戦争に踏み切りました。ところがクストーツァとノヴァーラで敗れ、ローマ共和国もフランス軍の介入で崩壊します。挫折の中で、サルデーニャでは1848年憲法(アルベルティーノ憲章)が生き残り、議会政治と軍制改革が進みました。これが次の段階を支える土台になります。
1859年、サルデーニャとフランスはオーストリアに勝利し(マジェンタ、ソルフェリーノ)、ロンバルディアを獲得しました。中部諸公国は住民投票でサルデーニャ編入を選び、その代償としてサヴォイアとニースがフランスへ割譲されます。1860年、ガリバルディの「千人隊」がシチリアに上陸して南部へ進撃、両シチリア王国を崩し、獲得地は王国に献上されました。1861年、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を王とするイタリア王国が成立します。
統一はなお途上でした。1866年、イタリアはプロイセンと提携してオーストリアに宣戦、陸戦と海戦では敗北しつつも講和でヴェネトを手にします。残るローマはフランス駐屯軍が守っていましたが、1870年に普仏戦争でフランスが撤兵すると、イタリア軍はポルタ・ピアから進入して併合を実現しました。1871年に首都はローマへ移り、地理的統一が完成します。とはいえ、教皇は「バチカンの囚人」として新国家を承認せず、1929年のラテラノ条約まで、宗教と国家の関係は緊張をはらみ続けました。
統一の過程で、南部では「山賊(ブリガンティ)」と呼ばれた反乱が激化し、徴税・徴兵・土地制度の変化と結びついて長期の治安作戦が行われました。北部の産業化と行政整備は先行し、南北格差は政治問題として続きます。民族運動の「自由」と「秩序」はしばしば衝突し、国家建設の現実が理想を試す局面が繰り返されました。
文化・社会の統合と統一後の余波:記憶、制度、未回収の課題
民族運動は、戦場だけでなく日常生活を通じて国民を作る過程でした。学校教育はイタリア語の標準化を進め、徴兵は地域を越えた人間関係を生み、郵便・鉄道・新聞は情報の統一市場を形にしました。記念日(例:ソルフェリーノ、ポルタ・ピア)や記念碑、愛国歌、街路名は、過去の出来事を共有の物語へと編み直しました。赤十字運動の誕生、戦場救護や衛生の制度化は、「人道」という新しい価値観を国家の中に根づかせる契機になりました。
統一後、政治は選挙制度の拡大と政党政治の形成へ向かい、地方と中央の関係が調整されます。都市計画や上下水道、港湾・鉄道の整備は、国家の「見える化」に貢献しました。他方で、教会財産の処分や修道会の扱い、教育の世俗化など、宗教と社会政策をめぐる対立は長く続きます。移民と海外労働の拡大、農村の貧困問題、南部の土地改革の遅れなど、社会経済の課題は民族運動の勝利だけでは解決しませんでした。
対外的には、統一の完成後も「未回収のイタリア(トリエステや南チロルなど)」が国民感情を刺激し、20世紀の外交に影を落とします。第一次世界大戦への参戦(1915年)は、民族統合の約束と現実の間の緊張を新たに生み、戦後にはファシズムの台頭という予期せぬ帰結を招きました。つまり、民族運動は国家を生みましたが、その国家をどの方向へ進めるかという問いは、その後の世代に引き継がれたのです。
まとめると、「イタリア民族運動」とは、理想と現実、文化と軍事、都市と農村、宗教と国家のせめぎ合いが重なった長いプロセスでした。マッツィーニの思想、カヴールの外交、ガリバルディの行動が支柱となり、多様な人びとの参加がそれを動かしました。1848年の挫折から学び、1859〜70年に段階的統合を実現し、統一後は記憶と制度の統合へと戦場を移した——その全体が、リソルジメントという名で記憶されているのです。

