甲骨文字 – 世界史用語集

甲骨文字(こうこつもじ)は、中国の殷(商)王朝末期を中心に、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた最古級の本格的な漢字資料です。天候や収穫、戦争や祭祀など国家の重要事に関する占いの結果とその成否が記録されており、当時の政治や社会、言語の姿を直接の言葉で伝えてくれる点に特徴があります。書き手は王や専門の占い役人で、まず甲羅や骨に火を当ててひび割れ(兆)を作り、その前後の問いと判断、のちの結果を短い文で刻みました。甲骨文字は現在の漢字とつながる形や部品をすでに備えており、絵に似た象形から、意味と音を組み合わせる洗練された構造まで確認できます。これにより、漢字の成り立ちと古代国家の意思決定の仕組みを一体として理解できる貴重な資料となっています。

発見のきっかけは19世紀末、漢方薬として売られていた「竜骨」に文字があると気づいたことでした。その後の調査と発掘によって、主要な出土地が河南省安陽の殷墟(いんきょ)であることが確定し、体系的な研究が始まりました。現在までに十数万片規模の甲骨が確認され、王名の系列、年次や祭祀の暦、軍事や農耕のサイクルなど、教科書では見えにくい生活の具体が明らかになっています。甲骨文字は、単なる「古い文字」ではなく、古代東アジアにおける国家運営の実務記録であり、文字史・考古学・歴史学の交差点に位置する一次史料なのです。

スポンサーリンク

起源と発見――「竜骨」から殷墟へ

甲骨文字の使用が本格化するのは、殷王朝の後期、いわゆる殷墟期と呼ばれる時代です。王都が現在の河南省安陽近辺に置かれていた時期で、王権が大規模な祭祀や戦争、農耕管理を進めるにあわせて占いの記録が制度化されました。甲骨に刻まれた文は、王が神意を仰いで意思決定したことを示す公的な証跡であり、王権の正当性を担保する儀礼でもありました。

近代における再発見は1890年代、北京の薬舗で治療薬として売られていた動物の化石片に文字が刻まれていると学者が気づいたことに始まります。当初は正体不明の「竜骨」と呼ばれていましたが、採集と比較研究が進むにつれ、それが殷墟周辺から流出した甲羅・肩甲骨であることが分かりました。20世紀に入ると、学者による収集・拓本作成・初期の釈読が行われ、さらに1920年代末からの科学的発掘によって、王宮・宗廟・作業場と並ぶ占卜遺構が確認されます。焼痕の残る甲骨が層位をともなって出土したことは、文字資料と考古学的文脈が確実に結びついたことを意味し、研究の信頼度を大きく高めました。

発見史をたどると、偶然の気づきが学術の突破口になる典型例であると同時に、民間の交易ルートを通じて古物が散逸していた実態もうかがえます。初期に市場から流出した甲骨は出土状況の記録が乏しいため、後の発掘資料と突き合わせて慎重に扱われます。現在では、文字の書風・刻法・内容や、同一筆者が書いたと推定される「手(筆跡)」の分析により、出土地や年代の推定が精密化してきました。

文字の特徴と書写の実際――象形から形声へ、筆と刀の二重性

甲骨文字は、後世の漢字に通じる構造をすでに備えていました。最も目立つのは象形性で、人・動物・器物・自然物を写した形が多く見られます。たとえば「日」は丸に一点や線で表され、「月」は弧を含む形、「山」は峰の連なり、「田」は区画された畑、「馬」は鬣や尾をもつ姿を簡略化したものです。しかし、甲骨文字は単なる絵ではありません。意味を表す部分(意符)と音を示す部分(音符)を組み合わせた形声文字がすでに広く用いられ、語彙の増大に対応していました。形声の存在は、読みを推定する手掛かりとなり、古代漢語の音韻復元にも資します。

書写技法には二段階がありました。第一に、甲骨の平らな面へ墨で下書きする工程、第二に、鋭利な器具で線に沿って彫り込む工程です。下書きには筆が用いられ、線の流れや太細の抑揚が見て取れます。彫りは実務であるため、画数の多い字は略し、線をつなげて省力化した痕跡が残ります。墨書の存在は、甲骨文字の背後に「筆で書く文化」がすでに成熟していたことを示し、後の竹簡・木簡や帛書への連続性を裏づけます。

文字の配置や文の作りも一定の規則に従います。行の方向は右から左、上から下の順が多く、占いの一件ごとにまとまりがあり、前後関係が読み取れるよう刻まれます。古い時期には単文が多く、次第に語尾の助詞や機能語の使い方が安定して、文型が整っていきます。暦日は六十干支で記され、人物名・地名・祭名・動植物名など豊かな固有名が現れます。これらは歴史地理や古生態の復元にも活用されます。

甲骨自体にも工夫があります。占いに使う前に、甲骨の裏から小さな窪み(鑽孔)を穿ち、そこへ熱を加えると表面に放射状のひびが走ります。このひびの形や向きに意味を読み取り、吉凶を判断しました。文字は、占った日付や担当者、問いの内容(貞問)、判断(占辞)、のちの検証(験辞)などを含む一定のフォーマットで記されることが多く、記録としての完結性が高いのが特徴です。

占卜と国家運営――問い・判断・検証のサイクル

甲骨文字の中核は占いの記録です。王は祭祀・軍事・農耕・王都建築・狩猟・疾病・出産・夢占いなど、多岐にわたる事項について神意を伺いました。たとえば「来月、雨が降るか」「この日に狩りをしてよいか」「某国を討つに吉か」「祖霊の祭をいつ行うべきか」といった問いが典型です。問いは簡潔に「貞:〜か」と表現され、担当の占い役(貞人)の名が添えられることがあります。

占いの結果は、ひび割れの形と音に基づいて吉凶が判断され、「王占曰吉」「不吉」などと記されます。興味深いのは、のちに実際の出来事がどうなったかを追記する「験」の習慣です。「翌日雨」「収穫あり」「病癒ゆ」「獲物なし」といった短文が刻まれ、占いが意思決定の前提であるだけでなく、事後評価の対象でもあったことが分かります。この一連のサイクルは、宗教儀礼と行政の接点であり、王権が超越的権威に裏づけられながらも、経験の蓄積に敏感であったことを物語ります。

記録の対象は社会の広がりを反映しています。農耕では播種・収穫・害虫・洪水・干ばつ、軍事では出兵・帰還・俘虜・戦利品、宮廷では后妃や王子の出産・病気・夢の内容、狩猟や献祭では獣類の種類と数まで細かく言及されます。これらは、殷王朝が単純な戦闘国家ではなく、祭祀・農政・兵政を統合する総合的な統治を行っていたことを示しています。また、王名の連続と時系列の整合は、殷王朝後期の年代論に決定的な手がかりを提供しました。

占卜はまた、王権の正統性を支える演出でした。祖先神や自然神への問いかけと応答が公式記録として残されることで、王の決断は神意に適うものとして社会に示されます。甲骨文字は、文字そのものの発展史であると同時に、「権力が言葉をどう使うか」を可視化する装置でもあったのです。

解読と研究の歩み――収集・釈読・総合化

甲骨文字の研究は、発見とほぼ同時に始まりました。民間収集家や学者が拓本を作り、字形を写して共通点を抽出し、語彙のリスト化を進めたのが出発点です。初期には象形の連想に頼った推定もありましたが、資料が増えるにつれて、同じ字がさまざまな文脈で現れる実例を重ね、用例から意味を確定する方法が主流になりました。音の推定には、形声の成分や、後世の金文(青銅器銘文)・篆書との連続を手がかりにします。そうして基本字や常用語が解けると、占卜文の定型表現が理解され、文全体の構造がクリアになっていきました。

20世紀以降の科学的発掘は、甲骨の出土層位・遺構・関連遺物をともに記録することで、文字資料に時間軸と空間軸を与えました。特定の王の時代に集中する筆跡や語彙、儀礼の変化が把握され、「誰が・いつ・どこで書いたのか」を具体化できるようになりました。さらに、筆跡鑑定や刻線の顕微鏡観察、炭素年代測定、統計処理などの技法が導入され、書き手の同定や書記体の類別が精緻化しています。デジタル・ヒューマニティーズの分野では、巨大な甲骨文字データベースが構築され、字形のバリエーションや配列、頻度が検索可能になりました。

研究上の論点としては、甲骨文字がどこまで日常語を反映するか、どこまで儀礼語に特化しているか、また、同時代の方言的差異や語法の揺れをどう扱うかが挙げられます。占い記録は定型的であるがゆえに解読が進みやすい反面、語彙が儀礼領域に偏り、物語性のある長文が少ないという制約もあります。そこで、青銅器の銘文、出土の竹簡・木簡、遺跡の考古データと相互参照し、補い合うことが重要になります。

甲骨文字の字形は後世の楷書に直接つながるわけではありませんが、部首や構え、基本的な造字原理は連続しています。今日の漢字教育で使われる「形声・会意・象形」といった分類は、甲骨の段階ですでに実体をもち、語彙拡張の基礎的な仕組みとして働いていました。そうした観点から甲骨を読むことは、漢字の「成り立ちの論理」を生の資料から学ぶことでもあります。

最後に、甲骨文字の価値は、文字史・歴史学・考古学が互いに補強し合う場を提供していることにあります。文字は制度の中で使われ、制度は物質文化とともに遺跡に刻まれます。甲骨は、その三者が一体となって残った稀有な記録媒体であり、古代国家の運用を具体的な数値と固有名詞を伴って観察できる鏡なのです。新しい出土や技術の発達により、今後も字形の微細な比較や年代の再検討が進み、すでに知られたテキストの読みが改訂されていく余地が残されています。