公行の廃止 – 世界史用語集

「公行(コホン)の廃止」は、清朝が広州で続けてきた対外貿易の独占仲介制度を終わらせ、外国商人が複数の港で直接取引できるようになった出来事を指します。転機はアヘン戦争(1840〜1842年)の講和条約にあり、1842年の南京条約と翌1843年の虎門追加条約などによって、広州一港に限定されていた仕組みが解体へ向かいました。これにより、広州の十三行を拠点にした公行商人の独占は消え、条約港の開港、領事裁判権、固定関税など新しい国際通商ルールが清朝に持ち込まれます。公行が担っていた保証・調整・徴収の役目は、銀行・保険会社・領事館・税関などに分解され、買弁(コンプラドール)と呼ばれる仲介者が台頭しました。廃止は単なる制度の変更にとどまらず、中国の港市の勢力地図や、貨幣・保険・海運の仕組みまでを塗り替える大きな転換でした。

この変化の背景には、清側の統制と西欧の市場原理の衝突、そしてアヘン密輸の拡大による信用秩序の崩れがありました。公行は長く対外取引を安定化させましたが、銀の流れや価格の変動、戦争と外交の圧力に抗しきれなくなりました。廃止の過程は、一気に制度が切り替わるというより、条約に基づく段階的な移行と、既存商人の破綻や転業、都市経済の再編が重なって進みました。以下では、公行廃止に至る背景、条約と制度移行の実際、現場の変化、そしてその後の港市社会への影響を、できるだけ具体的に説明します。

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背景――統制の仕組みの行き詰まりと国際摩擦の深刻化

広州の公行制度は、清朝が外国との接触を最小限に管理し、徴税・治安を一本化するために発達しました。外商は十三行地区に居住し、取引・倉庫・通訳・決済がすべて公行を通じて行われました。公行商人は国家から特許を受け、外商の信用保証や価格調整、税・諸費用の取りまとめを担いました。制度は閉鎖的でしたが、巨大なリスクを抱える海上貿易を安定させる合理性があり、18世紀の茶・生糸・磁器交易の拡大を支えました。

しかし、19世紀に入ると状況が変わります。第一に、茶などの輸出拡大で西欧から清へ銀が流入する一方、インド産アヘンの密輸が拡大して逆に清から銀が流出し、支払いと為替の均衡が崩れました。第二に、外商は公行を通す独占に不満を強め、自由貿易と領事保護を求めました。第三に、清朝は公行に連帯責任を負わせる一方で、密輸や債務不履行が相次ぐと監督を強化し、現場の軋轢が増しました。こうして、公行の「保証で秩序を保つ」モデルが、財政圧力と国際政治の緊張に押されて限界を迎えます。

1839年、林則徐が広州でアヘンの押収・焼却(虎門銷煙)を断行すると、英側との対立は決定的になりました。海上での衝突が重なり、開戦に至ります。戦争は清側にとって沿岸防衛の脆弱さを露呈し、外交交渉の主導権を失わせました。公行は戦時においても外商・官庁の板挟みとなり、従来の調整機能を果たせなくなっていきます。

条約と制度移行――独占の終わりと「条約港」体制の始動

講和によって結ばれた南京条約(1842年)は、広州一港に限定されていた対外通商を改め、上海・寧波・福州・厦門・広州の五港を開きました。翌1843年の追加条約(虎門追加条約)では、領事裁判権や最恵国待遇、貿易関税率の枠組みが整備され、外国側は公行を介さずに指定港で直接取引できる道が開かれました。これにより、公行の「唯一の窓口」という地位は制度上消滅し、独占仲介は終焉します。

実務面では、移行は段階的に進みました。外商は条約港に居留地を設け、各国領事館が紛争処理と保護を担います。関税は条約に基づく固定税率とし、徴収・検査の手続きが標準化されました。従来、公行が担っていた信用保証は、国際商社・銀行・保険会社の仕組みに組み込まれ、貨物保険や海上保険、為替手形が広く用いられるようになります。銀貨や地金の検定・両替も、兌換業者や銀行が専業化し、貨幣流通の透明性が相対的に高まりました。

税関制度も再編されます。港ごとに海関の事務が整理され、後には外国人技術者や職員を含む体制(のちの「税関総税務司」の源流)へとつながっていきました。こうした再編は、国家の徴税能力を補う一方で、清朝の関税自主権を制限し、国際商業法の枠組みが港市空間を規定することになりました。

現場の変化――十三行の転用、商人の転業、買弁の台頭

公行の廃止で、広州の十三行は従来の「唯一の国際取引の舞台」という性格を失い、開港場の一地区へと位置づけが変わりました。建物や倉庫は引き続き使われたものの、独占的な意味は薄れ、都市の中心は条約港の再開発区や新設の埠頭・ドックへと移っていきます。特に上海は、長江水系の集散機能と背後地の広大な市場を背景に急成長し、19世紀後半の主導的な対外貿易港となりました。

公行商人の運命は分かれました。一部の有力者は金融・不動産・海運へと投資先を広げ、新しい制度に適応しましたが、多くは戦争損失や債務負担、保証義務の清算で資本を失いました。公行基金の枯渇と連鎖破綻は、制度の支柱がもはや維持できないことを示していました。これに代わって、西側商社と中国社会をつなぐ買弁(コンプラドール)が重要な役割を果たすようになります。買弁は現地の言語・商慣習・人脈に通じ、雇用契約のもとで商務・集金・雇員管理を担い、旧来の「公行的」仲介を企業内の職能として再編しました。

港市の風景も変わりました。領事館・銀行・保険会社・測量局・灯台・海関が並び、契約・保険・為替・倉荷証券といった文書が取引を動かす時代になります。航運では蒸気船の比重が増し、航海季節の制約が薄れて通年の取引が可能となりました。情報面では新聞・電信が導入され、市況・為替・保険料率が各地で同期し、市場の反応速度が飛躍的に上がりました。こうした変化は、公行の時代に「人の信用と慣行」で支えていた機能を、制度とインフラの網目で置き換える過程でもありました。

長期的影響――制度の分業化と中国経済の港湾化

公行の廃止は、中国の対外経済に「分業化された近代制度」を持ち込む契機となりました。保証は銀行・保険が担い、価格調整は市場の公開性と先物・委託販売の慣行に委ねられ、徴税は条約に基づく標準手続きへと移りました。結果として、取引コストの中身は透明化した一方、清朝の主権的裁量は縮小し、国際法と外交条約が国内の商慣行を縛る度合いが増しました。

地域経済の面では、五港開港を起点に港湾都市の比重が高まり、内陸の流通構造が海運中心に再編されました。長江流域の物資は上海に集まり、華南の交易は広州だけでなく香港・厦門・汕頭などへ分岐します。清末にかけては、租界を核に外国資本・華人商人・地方エリートが協働する新しい都市社会が形成され、近代的な企業・学校・印刷・金融機関が並びました。これは、公行という一極集中の装置が解体された後に現れた、多中心的でネットワーク型の通商世界でした。

思想的・文化的にも、契約・法廷・保険・会計といった「紙の力」が商取引を支える前提になり、通訳や書記・会計士・測量士といった白襟職が社会に広がりました。外国語教育や商法・会社法の知識が価値を持ち、新聞・報章が市場を動かす情報インフラになります。こうした職能の普及は、旧来の商館文化と異なる新しい都市の生活様式と価値観を形づくりました。

総じて、公行の廃止は、清朝の統制と世界市場のルールの間で生じた大きな制度転換でした。広州の十三行という限定空間に集約されていた貿易は、条約港と国際商法のネットワークに拡散し、商人の役割・貨幣の流れ・港市の景観を変えました。変化の速度は一様ではありませんでしたが、19世紀後半にかけて中国の対外関係と都市経済の「かたち」を決定づけたという点で、歴史上の重要な出来事だったと言えます。