公行(コホン、英語ではCohong)は、清朝の広州(広東省広州市)において、対外貿易を独占的に仲介した特許商人の同業組織です。18世紀半ばからアヘン戦争前夜にかけて、ヨーロッパやアメリカの商人が清と取引する際は、原則としてこの公行を通さなければならない仕組みでした。国際商人の入出港、税関手続き、価格交渉、信用保証、紛争処理などを公行が一手に引き受け、皇帝政府はその背後で監督と課税を行いました。茶・生糸・磁器・砂糖・ラッカーなど清の主要輸出品の大量取引は、公行を介して価格形成され、銀(特にメキシコ銀貨や本国銀)が決済の中心をなしました。こうして広州の外商居留地「十三行」の空間と制度は、18~19世紀のアジア海上交易の心臓部のひとつとなったのです。
公行は、単に「商人の組合」というより、国家の委任を受けた「公的な窓口」でもありました。外国商人の行状を監督し、関税や諸費用を取りまとめ、万一の不払いがあれば商人自身が連帯して肩代わりする義務を負いました。これにより取引の安全性が高まり、同時に国家からは厳しい統制と徴収が可能になりました。外国側から見れば、自由な競争が阻害される閉鎖的な制度でしたが、清朝側から見れば、辺境港での混乱を避けつつ公平な課税と治安維持を実現するための実務的な装置だったのです。やがてアヘン密輸の拡大、債務問題、外交衝突を経て、公行体制は崩れていきますが、その足跡は近代中国の対外関係と都市経済の形成を理解するうえで欠かせない手がかりを残しています。以下では、公行の成り立ちと仕組み、貿易の現場で果たした役割、国際政治との軋轢、そして解体へ向かう過程を詳しく説明します。
成立の背景――一口通商と広州の独占体制
公行の前提には、清朝が採用した「一口通商」という原則がありました。これは、外国との通商港を広州に一元化し、他の港では基本的に対外通商を認めないという方針です。複数港に分散すれば監督・徴税・治安にコストがかかり、密貿易や不正の温床になりかねません。広州に集中させれば、行政の目が届き、責任の所在が明確になります。ここで清朝は、国家官僚が直接すべてを運営するのではなく、国家に選ばれた民間商人集団に「窓口業務」を担わせる方法を選びました。これが公行です。
公行に属する商人は「行商(ホン・マーチャント)」と呼ばれ、彼らは皇帝政府から公認の商号を与えられました。彼らは莫大な資本と商事ネットワークを持ち、航海季節に合わせて来航する外国商人と取引を仲介しました。取引の舞台は広州の城外、珠江沿いに設けられた「十三行」と呼ばれる商館街で、各国の商社はここに倉庫・事務所・住居を構えました。十三行は実際には十三棟に固定されたわけではなく、時期により出入りがありましたが、総称として定着しました。
国家側の監督官庁としては、広州の海関を管轄する「粵海関」およびその長官(英語史料でHoppoと呼ばれる官)が重要な役割を果たしました。粵海関は関税と諸賦課を徴収し、港湾秩序を維持します。公行はその下で実務を担い、外国商人との橋渡しを行うのです。つまり、公行は民間組織でありながら、実態としては官と民の境界に立つ半官半民の装置でした。
組織と機能――保証・調整・徴収の三つの柱
公行の第一の機能は「保証(保商)」です。外国商人が代金を支払わなかったり、契約上の義務を果たさなかったりした場合、相手方の損失は誰が負担するのかという問題が生じます。清朝は、個々の外国商人を直接相手にせず、公行に連帯責任を負わせました。公行は構成員同士で拠出する基金をもち、倒産や不払いが起きた際の救済や清算に充てました。これにより、国家は徴税と秩序維持のコストを軽減し、取引の信頼性が担保されました。
第二の機能は「調整」です。価格交渉、品質基準、引渡し時期、船積み順序など、国際取引には多くの摩擦点があります。公行は、外商の要求を取りまとめ、清側の供給事情と折り合わせて合意点を探りました。茶や生糸の出来不出来、洪水や蝗害による供給変動、為替相場の上下など、年ごとに条件は大きく変動します。公行の有力商人は、産地の商人や官吏とも連絡を取り、需給の見通しを踏まえて価格帯を提示しました。個別商人の短期的な駆け引きに終始させず、市場の安定を優先する姿勢は、公行制度の大きな強みでした。
第三の機能は「徴収(取りまとめ)」です。関税や港湾使用料、印紙代、検査費用、各種の名目で発生する諸経費を、公行が外商から徴収して海関に納めました。支払いは主として銀で行われ、広く流通していたメキシコ銀貨(スペイン・メキシコ産8レアル銀貨、通称ドル)の受け入れや、銀地金の重量・品位検査、刻印(チョップマーク)の確認など、実務は煩雑でした。公行には銀の真偽鑑定に長けた番頭や、外国語に通じた通詞(リンガ)がおり、貨幣・度量衡・言語の壁を越える役割を果たしました。
これら三つの柱を支えるため、公行は内部規約を設け、基金の拠出比率、新規加盟、懲罰、帳簿の監査などを細かく定めました。とりわけ信用秩序の維持は死活的で、粉飾決算や過剰投機が疑われる場合には、同業者による警告や取引停止が行われました。公行の構成員は互いに競争しつつも、制度の信用を守るために一定の協調を保つ必要があったのです。
広州交易の現場――茶・銀・言語・空間の交差点
公行を語るうえで、広州の空間構成と日常実務の具体像を押さえることは重要です。外商は原則として十三行の区域に居住し、城内への自由な出入りや中国人住民との私的接触は制限されました。季節風を利用した帆走の都合で、航海・停泊は年中行えるわけではなく、交易は「シーズン性」を帯びました。交易期には、倉庫の荷動き、見本の提示、商談のやりとりが活発になり、港は世界各地の言語が飛び交う多言語空間となりました。
茶は最大の輸出品であり、特に紅茶はイギリス市場での需要が強く、価格は産地の作柄とロンドン市場の相場に敏感に反応しました。公行の商人は、産地の中間商人や茶師と連絡を取り、品質ランクと数量を調整します。一方、支払いには大量の銀が必要で、為替や金利の動きも無視できませんでした。メキシコ銀貨の供給は新大陸の銀産出と海上輸送に依存し、戦争や海賊、保険料の高騰が流通量を左右しました。銀が不足すれば価格は逆に上がり、外商にとってはコスト増、清側にとっては輸出採算の変動要因となりました。
言語の壁は、通詞(リンガ)と呼ばれる職能者が橋渡ししました。彼らは広東語・官話・英語・ポルトガル語などを扱い、契約文言、測定単位、保険条項、紛争調停の微妙なニュアンスを訳し分けます。誤訳や曖昧な表現は高額な損失につながるため、通詞の熟練は公行の競争力の一部でした。加えて、広州の空間は防災や治安の観点からも管理され、火災対策や夜間の見回り、倉庫の鍵管理など、都市運営と商取引が不可分でした。
規制の厳しさは、外国商人から見ると不満の種でもありました。家族同伴の居住の制限、現地社会との自由な交流の制約、関税や諸費用の不透明さなどが、しばしば抗議の対象となりました。公行はこれらの不満を受け止めつつ、国家の規則に従う範囲で調整しました。しかし、制度全体が閉鎖的で、競争の自由が限定されていたことは否めず、このことが後の外交摩擦の伏線となりました。
摩擦と崩壊――アヘン戦争と公行解体の道筋
19世紀に入ると、茶輸入代金として西欧から清へ流入する銀の量が膨らみ、対外収支の偏りが欧州側の懸念を呼びました。これに対し、インド産のアヘンが中国沿岸に大量に密輸され、清から西側への銀の逆流が生じます。アヘンは公行の正規ルートを外れ、私的な沿岸密売網を通じて流通したため、公行の統制力を弱体化させました。さらに、アヘン取締りの強化は、押収・焼却や商館封鎖など強硬措置を伴い、外国政府と清朝の緊張を一気に高めました。
同時に、公行内部でも債務と破綻の問題が深刻化しました。巨額取引の世界では、相手の不払い、価格暴落、海難、戦乱などのリスクが常につきまといます。公行は基金で損失を吸収しようとしましたが、連鎖破綻を完全には防げませんでした。有力商人の一部は莫大な負債を抱え、国家への納付や保証の履行が困難になります。国家は追加負担を求め、商人は資本の流動性を失い、制度の信頼は徐々に揺らいでいきました。
やがて武力衝突が現実化し、戦後に結ばれた条約によって、広州一港への集中は解除され、複数の条約港が開かれました。これにより、公行の独占的仲介権は消滅します。外国商人は自らの代理商(コモディティ・ブローカーや買弁=コンプラドール)を通じて、より自由に取引できるようになり、関税や通商条件は外交条約と領事裁判権の枠組みで処理されるようになりました。つまり、公行という半官半民の仕組みは、国家と国家の外交ルールに置き換えられたのです。
公行解体後も、広州は重要な貿易都市であり続けましたが、その性格は大きく変わりました。十三行の閉鎖的空間は開港場の一部に組み込まれ、都市は租界や領事館、近代港湾施設といった新しいインフラを備えるようになります。公行の旧来の役割――保証・調整・徴収――は、銀行・保険会社・海関・領事館・商業会議所など分業化された近代制度のネットワークに再配分されました。
振り返れば、公行は清朝の行政資源が限られる条件下で、国際貿易のリスクとコストを民間の自律的な組織に肩代わりさせた制度でした。閉鎖性ゆえの硬直と国際摩擦を生んだ反面、通商の安定と秩序の維持に大きく寄与したことも確かです。公行の興亡は、国家が市場をどのように管理し、国際関係と折り合いをつけるのかという問題を、実務のレベルで示した歴史的経験だったと言えます。

