甲午農民戦争 – 世界史用語集

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう/1894年)は、朝鮮王朝末期に全羅道を中心として起こり、国中に広がった大規模な農民蜂起です。指導者の全琫準(チョン・ボンジュン)らが、重税や地方官の収奪、身分的不平等、外勢の干渉に抗議して決起し、短期間で城郭や郡県を制圧して「民のための秩序」を掲げました。運動は当初、官の横暴を糺し年貢や不当徴収を正す実務的改革を進め、停戦協定(全州和約)によって自衛的な自治組織(執綱所)を認めさせるところまで至りました。しかし、清と日本の出兵が同時進行で進んで国際紛争に転化し、日清戦争(1894–95年)の発火点のひとつとなります。日本の軍事介入と政変ののち、農民軍は再び挙兵しましたが、近代兵器を備えた正規軍・日本軍との戦いで敗れ、指導者は処刑されました。長期的には、甲午改革(ガボ改革)と呼ばれる制度刷新や、東学(のちの天道教)運動の展開に影響を与え、近代朝鮮の社会・政治の転換期を象徴する出来事として記憶されています。

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発生の背景――重税・差別・外勢干渉が生んだ不満

19世紀後半の朝鮮社会は、国家の財政難と身分秩序の硬直、地方統治の腐敗が重なって疲弊していました。地方官庁や下役が税や賦役を過剰に取り立て、運上や雑税を口実にした私的徴収も横行しました。商業や流通の発達に伴って市場は広がりましたが、その利益は特権的な仲買や地主に偏り、農民の生活改善にはつながりにくかったのです。地域によっては凶作も重なり、逃散や借金、土地の喪失が広がりました。

それに加えて、外国勢力の圧力が増大していました。19世紀後半、列強は通商条約と居留地設置を通じて朝鮮への関与を強め、日本は内政改革を口実に影響力の拡大を図りました。清は宗属関係の維持を目指しましたが、国内の政治的混乱もあり、朝鮮の自立的改革は空転しがちでした。内外の圧力に挟まれ、国家は地方の実務まで手が回らず、現場を取り仕切る郡守や里正が不正を重ねる悪循環が生まれます。

このような環境で、宗教・思想運動としての「東学(トンハク)」が台頭します。東学は、天と人は一体であるとする平等思想や、外来の不正義に抗する姿勢を掲げ、地域共同体の自助と道徳再生を説きました。東学は当初、信仰と修身の団体でしたが、地方官の圧迫や布教への弾圧を受け、次第に社会運動としての性格を帯びていきます。全羅道古阜(コブ)郡での苛烈な収奪をめぐる紛争は、象徴的な導火線となりました。

蜂起の経過――古阜から全州和約へ、そして再蜂起と敗北

1894年初頭、古阜郡の苛政に抗して住民が立ち上がり、全琫準らの指導のもとで武装蜂起が組織されました。農民軍は秩序維持と略奪防止を掲げ、「暴を除き民を救う(除暴救民)」や「補国安民」といったスローガンを掲げて戦い、地方役所を制圧して税負担の軽減や不当な債務の整理を実施しました。戦術面では、在地の人脈と地理の優位を生かし、短期に城郭や要衝を押さえて兵糧・武器を確保する俊敏さがありました。

朝廷は当初、地方兵と官軍で鎮圧を図りましたが、戦況は膠着しました。春から初夏にかけて、農民軍は全羅道の広い地域を実効支配し、治安を保ち、物価の安定化や税の減免、公的な倉の開放など、住民生活に直結する施策を実施しました。やがて、朝廷は妥協に転じ、停戦のための交渉が行われます。全州城をめぐる攻防ののちに結ばれた「全州和約」は、蜂起の停止と引き換えに、地方自治的な「執綱所(チプガンソ)」の設置や不正取締りの約束を認める内容でした。これは、農民側が掲げた改革要求の一部が正式に承認されたことを意味します。

ところが、この停戦過程自体が国際政治の介入を招きました。朝鮮政府は治安回復のため清に出兵を要請し、清は兵を送り込みます。日本は条約と在留民保護を口実に、対抗的に軍を派遣しました。現地に両軍が並び立つ事態は、すぐに緊張を高め、政治主導権を巡る争いへと発展します。朝鮮国内では日本の圧力のもとで政変が起き、政府の構成と政策が大きく転換しました。

秋になると、状況は再び戦闘的になります。農民側は、外勢の干渉と新政の混乱に対抗するため再蜂起しました。各地で勢力を結集したものの、武器と訓練に優る日本軍・官軍は火砲や近代的戦術で圧倒し、激戦地の牛禁峙(ウグムチ)などで農民軍は大きな損害を受けます。指導者層は各地で追捕され、全琫準をはじめとする主要人物は捕縛・処刑されました。こうして、運動は軍事的には終息しますが、その過程で示された社会改革の要求と自治の経験は、記憶として地域に残りました。

東アジア情勢との連動――日清戦争の導火線と甲午改革

甲午農民戦争は、朝鮮の内政問題であると同時に、東アジアの国際秩序を揺るがす引き金になりました。清と日本が「治安回復」を名目に同時出兵したことで、両国の利害が正面衝突し、やがて黄海や遼東半島での戦闘へと拡大します。これが日清戦争です。戦争の結果、日本は優位を確立し、朝鮮での影響力を強め、清は宗属権を放棄せざるを得なくなりました。朝鮮国内では、政変と軍事圧力のもとで、身分制の撤廃、奴婢解放、両班特権の縮減、税制と度量衡の統一、近代的官制導入など、抜本的な制度改革が断行されます。これが一般に「甲午改革(ガボ改革)」と呼ばれる一連の施策です。

甲午改革は、形式上は近代国家の制度を整えるものでしたが、拙速な導入や外圧の色彩が強かったため、現地社会との摩擦や混乱も引き起こしました。農民にとって切実だったのは、税の実務的軽減、公然の収奪の抑止、地方行政の刷新であり、これらは改革の理念の中に含まれていたものの、実装には時間と監督が必要でした。全州和約で試みられた自治的運営(執綱所)は、短命に終わったとはいえ、民衆が自ら秩序を立て直す能力を示した事例として注目されます。国家主導の近代化と民衆主導の社会改革が交差し、協力と対立を繰り返したのが、この時期の特徴でした。

思想・組織・評価――東学の理念と民衆の実務、残された遺産

東学運動の思想的中心には、「人はみな天を宿す」という平等の観念と、修身と共同体奉仕を結びつける倫理がありました。甲午農民戦争においても、単に「打ち壊し」ではなく、掠奪を禁じ、価格の安定化や公糧の公平な分配、冤罪の再審、賄賂の禁止など具体的な施策が実行されました。布告や掲示、宣言文には、清潔・節倹・勤労を重んじる語り口が見え、宗教的熱情を日々の規律へ翻訳する努力が読み取れます。これらは、短期ながらも「自治の実験」として機能しました。

組織面では、在地の中間層(郷勇経験者、書記役、商人、寺社・道教・仏教の人脈など)が核となり、農民・零細手工業者がこれに続きました。通信や動員には、伝令・符牒・布告板が活用され、武器は槍・刀から火器まで雑多でした。軍紀の維持は常に課題で、指揮の統一が崩れると離合集散が生じやすく、後半の敗北要因の一つとなりました。他方で、在地社会のネットワークは、自治と供給、衛生・治安の基本を支える力にもなりました。

評価は、時代と立場によって異なります。同時代の政府記録は「乱」として治安上の脅威を強調しましたが、後世の研究は、税制と地方行政の歪み、身分制の矛盾、列強の圧力という構造的要因に注目し、運動を社会改革の試みとして位置づけます。思想史の観点では、東学が宗教運動から社会運動へ変容する過程の節目であり、のちに天道教として再編され、教育・救済・民族運動へと活動領域を広げた点が重視されます。民俗学や地域史の視点からは、宣言文や戒め、自治規約に残る生活感覚と価値観が、近代移行期の民衆世界を照らす資料となっています。

甲午農民戦争は、軍事的敗北に終わりましたが、国家と民衆の関係を再定義する圧力として機能しました。官の不正を正し、税と労役の負担を合理化し、地域の自律を尊重するという要求は、その後の改革や運動に繰り返し現れます。東学の系譜は、20世紀の民族運動や社会改良運動にもつながり、宗教と社会改革が相互に支え合う伝統を形づくりました。甲午の経験は、外圧と内患が重なる危機の時代に、民衆がどのように秩序と正義を構想し、現実の制度へ落とし込もうとしたのかを具体的に示しています。