「ガポン」とは、通常ロシア帝国末期の正教司祭ゲオルギー・アポローノヴィチ・ガポン(1870–1906)を指します。彼は1905年1月、サンクトペテルブルクで工場労働者を率いて嘆願行進を組織し、軍の発砲で多数の死傷者を出した「血の日曜日」と結びつく中心的人物として記憶されています。労働者保護を掲げる温和な社団の創設者でありながら、秘密警察(オフラーナ)と接点を持った「ズバートフ主義」系の運動家でもあり、革命派からは利用され、体制側からも管理対象とみなされるという二重の位置に立たされました。帰国後には裏切り者の疑惑を招き、社会革命党(エスエル)戦闘団の関係者により殺害されます。聖職者、労働運動の指導者、警察に半ば取り込まれた扇動者――これらの顔が同居するため、ガポン像は時代と立場によって大きくゆれ動いてきました。本稿では、出自と思想、労働者組織と嘆願運動、警察・革命派との関係、亡命と帰還・暗殺、史料と評価の諸点を整理し、当時の都市社会が抱えた矛盾の焦点としてのガポンを分かりやすく描き直します。
出自・聖職者としての形成――貧困の経験と都市労働者への関心
ガポンはポルタヴァ県の農家に生まれ、地方の教会学校から神学校へ進みました。貧困・病弱・早婚といった個人的経験は、彼に社会的弱者への共感と宗教的救済の実践志向を植えつけたとされます。のちにサンクトペテルブルクへ移住すると、大学聴講や慈善団体での活動を通じて都市下層の現実に触れ、工場労働者の衛生・教育・住居・飲酒問題に強い関心を抱くようになりました。説教は平易で、非難よりも慰撫と道徳改善を重んじ、労働者の耳に届く語り口だったと評されます。
彼の宗教観は、禁欲的な内面の強化よりも、共同体としての相互扶助と国家への忠誠を並立させる性格を持っていました。ロシア正教の伝統に根ざしつつ、都市の福祉と教育の不足を「小さな教会共同体」の活動で補おうとした点に、司祭としての独自性があります。これが後年、労働者のクラブ・夜学・互助を束ねる組織づくりへと接続していきます。
労働者組織と嘆願行進――「血の日曜日」までの道のり
1903~1904年、ガポンは「ロシア工場労働者相互扶助十字会(通称:労働者の集会、労働者の集まり)」の結成に関わります。これは宗教的・道徳的教化、相互扶助、労働争議の調停、夜学・図書室の運営などを掲げた合法的社団で、警察当局の監督下で活動を許可された点に特徴がありました。背景には、労働運動を国家が統制・吸収する「ズバートフ主義」と呼ばれる政策の流れがあり、当局は急進派の勢いを和らげる安全弁としてこの種の組織を容認・支援しました。
しかし、戦時と不況、物価高、工場の規律強化は労働者の不満を加速させます。1904年末にかけて、有力工場での解雇・賃下げが連鎖し、労働者の処遇改善と政治的権利に関する要求が噴出しました。ガポンは司祭としての信頼と温和な語りを武器に、工場ごとの委員をまとめ、皇帝への直訴を組織します。嘆願書には、8時間労働、賃金引き上げ、言論・結社の自由、人身保護、戦争(対日戦)の収束、議会の召集などが列挙され、皇帝を「小父上」として道義に訴える敬虔な調子で書かれていました。
1905年1月(ユリウス暦9日/グレゴリウス暦22日)、日曜日の朝、数万人規模の労働者・家族が聖像や十字架、皇帝の肖像を掲げて冬宮へ向かいます。武装を避け、祈祷と連祷を唱えながら進む群衆に対し、政府は集会・行進の禁止を理由に戒厳的な警備を敷き、各所で阻止線が張られました。衝突は急速に拡大し、複数地点で軍が発砲、死傷者は数百に及んだとされます。指導者の一人であったガポンは辛くも難を逃れ、のちに「皇帝は人民の敵に囲まれている」との声明を公表、忠誠の語りから政治批判へと急旋回します。
警察との関係・革命派との接触――「二重の顔」が生む疑念
ガポンの組織が許認可を得て拡大した過程で、彼が警察(オフラーナ)と連絡を取り、情報提供や助言を受けていたことはほぼ確実視されています。これは同時代の多くの合法的労働者団体が置かれた構造的条件でもあり、単純に「スパイ」と断じるのは当時の文脈を欠きます。ただし、1905年以降、彼が革命派(社会民主労働党や社会革命党)の指導者・活動家と接触し、資金や暴力闘争の是非をめぐって揺れ動いたことは、左右双方からの不信を招きました。
亡命先で彼は欧州各地の社会主義者・自由主義者と会い、講演と募金活動を行います。運動の合法化と組織の温存を目指す現実路線、警察との断絶、より急進的な手段の採否などで、発言は一貫せず、状況に応じて振幅しました。宗教者としての〈人民への奉仕〉と、政治活動家としての〈効果の最大化〉のあいだで、ガポン自身が自らの役割を掴みかねていたことは否めません。
帰国・暗殺――裏切りの告発と処刑の論理
1906年、ガポンは身命の危険を承知で帝都近郊へ戻ります。目的は、組織の再建と政治的影響力の回復、当局との関係再調整など、複数の思惑が絡んでいたと見られます。ここで転機となったのが、彼が旧知の革命家(ピンハス・ルーテンベルクなど)に対し、警察との関係や今後の協力計画を打ち明けたことでした。これは、革命派にとって警戒すべき「二重工作」の告白と受け取られ、やがて処罰の対象となります。
同年春、サンクトペテルブルク郊外のダーチャ(別荘)で、ガポンは社会革命党戦闘団のメンバーにより絞殺され、遺体は後日発見されました。公式の法廷によらないこの「処刑」は、裏切り者への報復と組織防衛の論理に基づくもので、革命運動内部の暴力と倫理の矛盾を露呈しました。彼の死は、体制に利用され、革命派にも信頼されず、群衆に担がれながら孤立した指導者の末路として記憶されます。
史料・イメージと評価――聖職者・煽動家・密告者の三重像
ガポン像は、史料の性格によって大きく変わります。彼自身の回想・公開書簡、仲間や対立者の証言、警察記録、革命組織の報告、外国紙の報道—これらはしばしば互いに矛盾し、緊張関係にあります。とりわけ、警察との関係をどこまで主体的に受け入れていたのか、どの時期に誰へ何を漏らしたのか、革命派との交渉でどれほど資金・暴力を容認したのか、といった細部は、断片証言の組み合わせに頼らざるを得ません。
それでも、いくつかの軸は整理できます。第一に、ガポンは宗教者としての語りと儀礼を通じて、都市労働者に〈尊厳〉の言葉を与え、家族ぐるみの動員を実現した稀有な動員者でした。第二に、当局が用意した合法的枠組みの内側で、彼は急速に政治化する群衆のエネルギーを制御できず、制度の内と外の間に挟まれました。第三に、彼の〈二重の顔〉は個人の道徳弱さというより、体制側の取り込み政策と革命側の地下活動という二重構造が生んだ産物でもあります。結果として、彼は双方の「信用通貨」を失い、最も危険な位置に立たされたのです。
「血の日曜日」は、帝政ロシアが自らの正統性を損なう劇的瞬間として記憶されます。嘆願という穏健な儀礼の路線が、軍の発砲で血に染まったとき、皇帝と人民の間に回復不能の裂け目が生じ、議会(ドゥーマ)の召集や十月詔書へ向かう政局の転回が始まりました。その前景で、ガポンは聖像と皇帝肖像を掲げる群衆の先頭に立ち、祈りと政治の言葉を重ね合わせる独特の〈場〉を作りました。彼の光と影を併せて見ることは、1905年革命の性格—民衆の自発とエリートの計算、国家の暴力、宗教と政治の交錯—を立体的に理解する助けになります。
ガポンの名は、英雄でも悪漢でもなく、極限状況に投げ込まれた都市の司祭として読むのが適切です。個人の資質—柔らかな人柄、演説の才、組織の手腕、そして政治的未熟—が、警察と革命派のはざまで拡大鏡にかけられ、増幅されました。彼の短い生涯は、近代ロシア社会がもつ裂け目—農村と都市、信仰と政治、秩序と自由—の交差点で燃え上がった一つの火花でした。

