河姆渡遺跡(かぼといせき、Hemudu Site)は、中国浙江省寧波市余姚(ゆよう)近郊、銭塘江河口北側の低湿地に立地する新石器時代後期の大規模集落遺跡で、紀元前5000年ごろから前3300年ごろにかけて栄えた「河姆渡文化」を代表する核心遺跡です。水に近い環境で暮らした人びとの住居・道具・食生活・信仰が、湿地特有の良好な保存状態でまとまって見つかり、とりわけ「イネ(ジャポニカ)栽培の早期化石証拠」「木造建築・高床住居群」「骨角器・木器の大量出土」「厚手黒色土器のまとまり」「鳥・太陽を想起させる意匠」などによって、長江下流域の早期稲作文明を具体的に語る手がかりを与える遺跡として世界的に知られています。黄河流域の仰韶文化とは異なる南方の技術体系と生業、湿地に適応した暮らしのデザイン、後の良渚(りょうしょ)文化へ連なる社会変化の“前史”を読み解くうえで、欠かすことのできない基準資料です。以下では、地理と年代・文化的背景、発見と発掘・保存状況、生活と生産の実像(稲作・住居・道具・土器)、信仰・社会組織・広域交流という観点から、河姆渡遺跡の重要点をわかりやすく整理して解説します。
地理・年代・文化的位置づけ――湿地に開いた集落と長江文化圏
河姆渡遺跡は、杭州湾の北縁に形成された沖積低地と潟湖・湿地帯に位置します。周囲は河川が縦横に走り、季節的な冠水と後退を繰り返す環境でした。この立地は、魚介・水鳥・野生植物を豊富に供給し、同時に稲作に適した湿潤な土壌を備えていました。遺跡の複数の文化層は、一般に前期(およそ前5000~前4300年)と後期(前4300~前3300年)に大別され、堆積の間に洪水・海進・植生変化の痕跡が挟まります。これらの自然環境の振幅が、住居の構造や耕作地の配置、資源利用に直接影響しました。
文化史上の位置づけとしては、長江下流域の諸文化—たとえば馬家浜(マジャバン)文化や、のちの良渚文化—との連続・重なり合いの中で理解されます。河姆渡文化は、北方の仰韶文化の彩陶・陸稲主体の農耕と異なり、湿地稲作と木造建築・骨角器・黒色厚手土器という特徴的な組合せを示します。長江デルタの湿地・潟湖という生業の舞台は、海と川、森と葦原を一体に使いこなす適応戦略を要し、河姆渡の資料はまさにその実例です。
時間の経過につれ、集落は拡大・縮小を繰り返し、周辺の小集落や墓地とネットワークを形成しました。前期には木骨を組んだ高床住居と掘立柱建物が混在し、後期には堅牢な柱列・柵列や水利施設らしき遺構が見られるようになります。水際を活かしつつ、氾濫への備えを強める「住まい方の学習過程」が堆積層から読み取れます。
発見・発掘と保存状況――水に守られた木器と稲の証拠
河姆渡遺跡の本格的な調査は20世紀後半に始まり、地表採集・試掘・大規模発掘が計画的に行われました。最大の特徴は、地下水位が高く無酸素状態が保たれた層が広く分布し、木材・籐・繊維・動植物遺体が例外的に良好に残ったことです。これにより、通常は腐朽して失われる木製の農具(鋤、鍬、ヘラ状の水田工具)、建築部材(柱・梁・貫・床板)、船や櫂、籠や編物、さらに炭化した米粒や籾殻、籾の圧痕、稲の珪酸体(フィトリス)がまとまって出土しました。
稲作の具体的証拠としては、脱粒痕や籾殻の付着した土器片、脱落防止機能の弱い「非脱粒型」から「脱粒型」へ移行する籾基部の形態変化(栽培化の指標とされる)などが挙げられます。これらは長江下流域でのジャポニカ稲の早期栽培化を支持し、畦畔・溝・木製の水利具と組み合わさって、水田稲作がすでに集落の生活を支える柱だったことを示唆します。野生稲・半栽培との並存を経て、後期には栽培稲の比率が高まったとみられます。
木造建築の保存は、東アジア新石器の住居研究を一変させました。地上に高く床を張る高床住居は、湿気・害獣・洪水を避ける合理的設計で、柱穴・束柱・床板の位置関係から、集落の区画、通路、共同作業の場を再現できます。杭列・柵列は集落の縁辺を画し、魚の遡上を制御する仕掛けや、土砂流入を弱める役割も持ったと考えられます。これらの遺構は、木材の樹種選択(硬木・軟木の使い分け)、接合技法(ほぞ・楔)、工具痕(石・骨・貝の刃)まで具体に遡れる点で、希有です。
生活と生産の実像――稲作・漁撈・狩猟、住居と道具、土器のスタイル
生業は、多柱構造でした。第一に稲作です。集落周辺の低湿地に、水の出入りを調整した小区画の水田を設け、木製の鍬や鋤、ヘラ状の整地具で作土をならし、収穫後は脱穀・籾摺りを行いました。炭化米と籾殻の蓄積、作業痕のある木器は、米が安定的な主食・貯蔵資源であったことを示します。麦や黍のような乾地作物の比重は小さく、湿地稲作への特化がうかがえます。
第二に漁撈・狩猟・採集です。骨角器の銛・釣針・矢尻、網のおもり、籠や簗の痕跡は、魚介・水鳥・小動物の利用を示します。季節ごとの魚種・貝種の入れ替わりを読み取れる堆積も見つかり、集落は稲作と漁撈を年中暦で組み合わせていたと考えられます。野生植物(ドングリ・ハスの実・野生果実)の採集も副次的に行われ、炭化した種実・果皮が生活層から見つかります。家畜化の程度については、豚の骨が比較的多く、野生種との連続の中で半家畜化が進んでいた可能性が指摘されます。
住居は、湿地に適応した高床式と、地面に掘り込んだ半地下式が併存し、用途に応じて使い分けられました。高床は住居・穀物の乾燥・貯蔵に適し、半地下は作業小屋や季節的避難に用いられたとみられます。床は板材を横木に載せ、壁は木質材料と葦を編んで塗土で固めたと推定されます。集落には共同の通路・桟橋のような木道が敷かれ、冠水時も移動可能なネットワークが整えられていました。
道具群は、骨角器・木器が量的・質的にめだちます。骨の銛・槍先・釣針・縫い針、鹿角の斧柄、木の櫂・舟片、籠・簀の子—これらは水辺の作業と密接に結びつきます。石器は磨製の斧・鑿・刃部材などがあり、木工を支える基礎として重要でした。装身具としての骨珠・貝輪、鳥形・太陽円盤を想わせる小像・意匠が知られ、生活と象徴世界の距離が近いことを物語ります。
土器は全般に厚手で黒色~暗褐色、砂や植物繊維を混ぜた胎土を粗く焼き上げ、低火度で還元気味の焼成を示します。器形は甕・壺・鉢・罐が中心で、口縁が外反した頑丈な造りが多いです。圧痕文・縄文・指爪文などの装飾が施され、調理・貯蔵・発酵に対応した多用途設計でした。北方の仰韶文化に見られる彩陶のような彩色は稀で、むしろ機能性と耐久性を重視した印象を与えます。
信仰・社会と広域交流――鳥と太陽のモチーフ、共同の技術、次の時代へ
河姆渡の象徴世界は、鳥や太陽を想わせる意匠に特徴づけられます。鳥形の装飾片や線刻は、水辺の生活と渡り鳥の季節性が人々の感覚世界に深く根づいていたことを示唆します。太陽円盤に似た意匠は、日照と水の循環に生業が依存する暮らしの中で、自然のリズムを視覚化する記号として機能したのかもしれません。墓葬は集団の生活域に近接して設けられ、成人・幼児の埋葬が混在します。副葬品は比較的質素で、身分差の強い階層化はまだ顕著ではありませんが、後期になると住居の規模差・生産具の蓄え方にわずかな分化の兆しも読み取れます。
集落運営は、洪水・冠水に対応する共同の技術を必要としました。畦畔の維持、用水の掘削・浚渫、柵列の修理、木道の敷設などは単独では成り立たず、労働の組織化と経験知の共有が不可欠です。穀物の貯蔵・配分、漁撈の季節的規制、資材の管理もまた、合意形成の技法を育てます。こうした「水辺のコモンズ」の運用経験は、後の良渚文化期に見られるより大規模な水利・土木技術の社会的基盤になっていきます。
広域交流の面では、石材の原産地分析や貝製品の種類から、海辺—内陸間の小規模な物資移動が想定されます。長江下流域の他の集落群(馬家浜、跨湖橋=クアフーチャオ等)とは、技術と意匠の一部を共有しつつも、環境適応の差に由来する独自性を保ちました。河姆渡は、海面変動・河道変遷にさらされる沿岸世界のなかで、柔軟に暮らしを組み替えた人びとの「学びの軌跡」を可視化する場でもあります。
やがて、長江デルタ一帯は社会組織と生産の規模を増し、前3300年頃からの良渚文化期には巨大な環濠や堤、防水性の高い土木、玉器の精緻な工芸が花開きます。河姆渡は、その前段階として水田稲作・木造建築・共同水利の基本セットを確立し、南方の初期文明の成立に向けた基層を築いたと位置づけられます。
総じて河姆渡遺跡は、稲作の早期化、湿地の生活技術、象徴世界の萌芽、共同の水利管理といった要素が、一つの集落の中で具体的に重なった稀有な資料です。黄河中心の叙述では見落とされがちな「水とともに生きる文明」の別系統を、木の香りと籾殻の手触りまで伴って教えてくれます。水際に杭を打ち、床を高め、稲を植え、魚を獲り、鳥の季節を数える——その連続した営みの痕跡こそが、長江下流域の古代社会を支えた知の総体だったのです。

