「新オスマン人」 – 世界史用語集

「新オスマン人(しんオスマンじん)」とは、19世紀後半のオスマン帝国で活動した改革派知識人・政治運動を指す歴史用語です。彼らは、欧米の自由主義・立憲主義の思想とイスラーム的価値観を結びつけながら、専制的なスルタン体制と官僚主導のタンジマート改革を批判し、「オスマン帝国全体の立憲君主制化」と「すべての臣民の平等」をめざしました。ナームク・ケマルやジヤー・パシャ、アリー・スアーヴィーらの知識人が中心となり、新聞・雑誌・演劇・パンフレットなどを通じて世論喚起を行い、1876年の憲法制定と最初の議会開設(第一次立憲政時代)の直接的なきっかけをつくりました。

世界史では一般に、「タンジマート(恩恵改革)」の後期に登場した政治思想運動として位置づけられます。タンジマート改革は、中央政府主導で西洋的制度を導入しようとしましたが、多くの場合は上からの官僚的近代化にとどまりました。これに対し、新オスマン人は、新聞と公共圏を通じた世論形成、イスラーム法との調和を意識した立憲主義の理論化、スルタン権力への批判など、より「政治的・思想的」な改革を志向しました。その思想は後に「青年トルコ人」運動やトルコ民族主義にも大きな影響を与えます。

以下では、まず新オスマン人が登場する歴史的背景を整理し、つづいて彼らの思想(立憲主義・オスマン主義・イスラーム観)の特徴、さらに具体的な活動と第一次立憲政時代への影響、最後にその歴史的意義と限界について順に見ていきます。

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成立の背景―タンジマートとオスマン帝国の危機

19世紀のオスマン帝国は、軍事的・経済的に欧米列強との格差を広げ、内外から強い圧力を受けていました。ナポレオン戦争やギリシア独立戦争、ロシアとの度重なる戦争などを通じて領土が縮小し、「ヨーロッパの病人」と揶揄されるほど国力の衰えが指摘されるようになります。この危機に対処するため、1839年のギュルハネ勅令に始まるタンジマート改革が実施され、軍制・税制・司法制度・教育などの近代化が試みられました。

タンジマートは、スルタンに任命された高級官僚たちが、西欧の法制と行政モデルを参考にしながら、自上から帝国を改革するプロジェクトでした。イスラーム法廷と並行する世俗裁判所の設置、非ムスリム臣民の法的地位向上、徴税と徴兵制度の再編、官僚学校や軍学校の創設など、多くの制度改革がこの時期に進められました。しかし、その多くは上層部の行政改革にとどまり、民衆側の政治参加や「主権は誰にあるのか」という問題には本格的に踏み込もうとしませんでした。

一方、欧米列強は、オスマン帝国内のキリスト教徒の保護や通商権益を口実としてしばしば政治介入を行い、帝国の主権は揺らいでいました。ギリシア独立やバルカン諸民族の民族運動も、帝国の統合を脅かす要因として拡大していきます。こうした中、帝国をどう維持しつつ近代化を進めるべきかという問いに対し、官僚主導のタンジマートではない別の答えを模索する若い知識人たちが登場しました。これが「新オスマン人」と呼ばれる人々です。

新オスマン人の多くは、帝都イスタンブルの官吏学校や軍学校で西洋語や政治思想を学び、新聞や翻訳を通じてフランス革命後の自由主義・立憲主義・国民国家論などに触れていました。彼らは、オスマン帝国の弱体化の原因を、単に技術的・軍事的な遅れだけでなく、専制政治と腐敗した官僚制に見出し、「民意にもとづく政治」「法の支配」を求めるようになります。

とはいえ、彼らはすぐに「オスマン帝国の打倒」や「スルタン制の廃止」を主張したわけではありません。むしろ、イスラームとオスマン朝の伝統を尊重しつつ、その枠内で立憲君主制を実現し、ムスリム・非ムスリムを問わず帝国臣民全体の忠誠を維持したいと考えました。この「伝統と近代の調停」という課題こそが、新オスマン人の思想を特徴づける出発点となります。

思想と目標―立憲主義・オスマン主義・イスラーム

新オスマン人の中心的な関心は、「オスマン帝国をいかに救うか」という問題でした。彼らが提示した答えは、専制政治の改革と立憲君主制の導入、そして宗教・民族を超えた「オスマン共同体」の形成でした。この点で、彼らの思想は大きく三つの柱――立憲主義、オスマン主義(オスマニズム)、イスラーム的正統化――に整理できます。

第一の柱である立憲主義は、フランスやイギリスなどの憲法制度を参照しながら、「スルタンの権力を法律と議会によって制限する」という考え方です。ナームク・ケマルは、議会と憲法が君主の専断を防ぎ、臣民の自由と権利を守ると主張しました。彼はフランスの思想家モンテスキューやルソーの議論を読み込みつつ、それをオスマン帝国の文脈に翻訳しようと試みています。新オスマン人の多くは、主権が完全に人民にあるとまでは言わずとも、「君主は法に服し、臣民の代表と協議すべきだ」と考えました。

第二の柱であるオスマン主義は、多民族・多宗教からなる帝国内の分裂を防ぐための理念でした。ギリシアやセルビア、ブルガリアなどの民族運動が台頭する中、新オスマン人は、「宗教や民族の違いを超えて、すべての臣民は『オスマン人』として平等な権利を持つ」という考えを打ち出しました。これにより、ムスリムと非ムスリムの対立を和らげ、欧米列強が「キリスト教徒保護」を口実に介入する余地を減らそうとしたのです。

第三の柱は、イスラームとの調和です。新オスマン人は、西欧の思想を無批判に模倣するのではなく、「イスラーム自体に自由と正義の原理が含まれている」と強調しました。彼らは、コーランや預言者ムハンマドの言行録(ハディース)を引きながら、「シュラー(協議)」や「正義」を根拠として、スルタンが臣民と協議し、法に基づいて統治することの正当性を説明しました。つまり、立憲政治はイスラームに反するどころか、むしろ本来のイスラーム的統治に近いという論理です。

このように、新オスマン人は、近代ヨーロッパの政治思想をイスラーム世界に移植する単純な「西洋化」ではなく、自らの宗教・文化的土台の上で翻訳・再解釈しようとしました。この試みは、のちのイスラーム改革思想やイスラーム憲法論の先駆けとしても評価されます。

活動の展開―新聞・亡命・第一次立憲政時代

新オスマン人の活動手段として重要だったのが、新聞・雑誌などの活字メディアです。19世紀半ばのオスマン帝国では、トルコ語による新聞が次第に普及し、知識人や都市住民に新しい情報と議論の場を提供していました。シナースィー(シナシ)やナームク・ケマルらは新聞編集に関わり、政府批判や政治論評、文学作品を発表することで、従来になかった「公共圏」を形成していきます。

しかし、専制的な政権は、こうした批判的な言論に対して検閲と弾圧を加えました。そのため、多くの新オスマン人はフランスやイギリス、エジプトなど国外に亡命し、そこで亡命新聞やパンフレットを発行しました。特にロンドンやパリは、オスマン系亡命者の活動拠点となり、ヨーロッパ各地からのニュースや政治思想を取り込みつつ、祖国への批判と改革案を発信する場となりました。

彼らの言説は、帝国内の官僚や軍人、一部の都市中産層に影響を与え、スルタン権力への不満や立憲制への期待を育てました。これらの動きと、国際情勢・財政危機・バルカン問題などが重なりあって、1876年、ついにオスマン帝国史上初の憲法(ミドハト憲法)が公布されます。改革派官僚ミドハト・パシャは、新オスマン人の思想に共鳴しつつ、立憲制導入を政治的に実現した人物として知られています。

1876年の憲法公布と議会開設により、オスマン帝国は形式上「立憲君主国」となり、この時期を第一次立憲政時代と呼びます。新オスマン人の多くは、この成果を自らの運動の結実とみなし、大きな勝利感を抱きました。しかし、現実の政治はすぐに険しいものとなります。露土戦争(1877〜78年)の敗北と領土喪失を理由に、スルタン・アブドゥルハミト2世は憲法を停止し、議会を解散して再び専制体制を強化しました。

こうして、第一次立憲政時代はわずか2年足らずで幕を閉じ、多くの新オスマン人は再び辺境への左遷や亡命を余儀なくされます。運動としての「新オスマン人」は、ここで大きな挫折を経験しましたが、彼らが残した立憲制とオスマン主義の理念は、地下水脈のように生き続け、後の「青年トルコ人」運動へと受け継がれていきます。

歴史的意義と限界―「新オスマン人」から「青年トルコ人」へ

新オスマン人の歴史的意義は、多方面にわたります。第一に、彼らはオスマン帝国における近代的政治思想の先駆者として、専制批判・立憲主義・法の支配・臣民平等といった原理を、イスラーム的文脈の中で理論化しました。この試みは、のちのトルコ共和国の世俗主義的改革とは性格が異なりますが、「政治は議論されうるものであり、君主の外に公共の意志が存在しうる」という発想を広めた点で画期的でした。

第二に、新オスマン人は、多民族帝国としてのオスマン国家を維持するためのイデオロギーとして「オスマン主義」を提示しました。これは、宗教や民族を超えてすべての臣民を「オスマン人」として平等に扱うという構想であり、帝国の分裂を抑えようとする試みでした。結果的には、民族主義の高まりと列強の介入により、オスマン主義は十分な統合力を発揮できず、バルカン独立やアルメニア問題などの前に挫折しますが、「国民」をどう定義するかという問題に対する一つのモデルを提示したことは重要です。

第三に、新オスマン人の運動は、直接的には挫折したものの、後の「青年トルコ人」(青年トルコ革命を起こした統一と進歩委員会など)に思想的・人的な連続性を持っています。青年トルコ人は、ヨーロッパ型の国民国家や世俗化をより強く志向しつつも、新オスマン人が築いた立憲制の理想や反専制の精神を引き継ぎました。1908年の第二次立憲政時代の実現は、広い意味で新オスマン人の遺産の再浮上とみなすこともできます。

一方で、新オスマン人には明確な限界もありました。彼らの議論は主として知識人・官僚・都市エリートの間にとどまり、地方農村や帝国内の多数派を占める農民層に深く浸透したとは言い難いです。また、オスマン主義の理念は美しく聞こえる一方で、実際の権利配分や権力構造の問題に十分切り込めないまま、ムスリム優位の現実と非ムスリムの不満とのあいだで板挟みになりました。

さらに、イスラームとの調和を重視するあまり、より急進的な社会改革や世俗化には慎重でした。そのため、20世紀初頭以降に登場するトルコ共和国の指導者たち(ムスタファ・ケマルら)から見ると、新オスマン人は「中途半端な改革派」に映る場合もあります。それでも、新オスマン人がいなければ、その後の激しい断絶と改革をもたらした近代トルコ政治の思考枠組み自体が生まれなかったとも言えるでしょう。

世界史の学習において「新オスマン人」という用語に出会ったときには、(1) タンジマート後期に登場した改革派知識人の政治運動、(2) 立憲主義・オスマン主義・イスラーム的正統化という三つの柱、(3) 新聞・亡命活動を通じて第一次立憲政時代を導いた役割、(4) 青年トルコ人やトルコ共和国への長期的影響と限界、というポイントをセットで思い浮かべると理解しやすくなります。そのとき、「新オスマン人」は単なる一時的な反体制グループではなく、帝国の危機の中で「伝統と近代のあいだ」を模索した知的・政治的営みとして、より立体的に見えてくるはずです。