アンボイナ事件 – 世界史用語集

アンボイナ事件(Amboyna Massacre, 1623年)は、モルッカ諸島アンボン島(当時は欧文でAmboynaと表記されることが多い)において、オランダ東インド会社(VOC)がイギリス東インド会社(EIC)の商館員と日本人傭兵を陰謀容疑で逮捕・拷問し、最終的に処刑した出来事を指します。英蘭の香料交易をめぐる競争の最前線で起きたこの事件は、現地の法制度と欧州国際政治、そして宣伝戦(プロパガンダ)が交錯した象徴的な事件として記憶されてきました。以後、イギリス側の世論では「アンボイナ」は蘭敵対感情の合言葉となり、オランダ側では要塞防衛のための合法的措置とする見解が長く主張されました。

舞台となったアンボン島は、クローブ(丁子)の産地として16〜17世紀の世界商業における戦略的要衝でした。ポルトガルが16世紀初頭から進出し、17世紀にVOCが要塞を整備して支配を強めました。EICも17世紀初頭に商館網を広げ、1619年には両社が東南アジア域内の衝突を抑えるための「防衛条約」を結び、理論上は協調と分割管理が目指されましたが、現場では利害対立と相互不信が蓄積していました。

「アンボイナ」という表記は近世ヨーロッパ文献に広く見られる古い外名で、現在インドネシア語では「アンボン(Ambon)」と呼ばれます。本稿では史料慣行に従って事件名は「アンボイナ事件」としつつ、地名としては現代の慣用にも言及します。

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背景:香料交易と英蘭競合、そして緊張の蓄積

17世紀初頭、モルッカ諸島はクローブとナツメグの供給地として、世界市場の価格形成を左右する地域でした。VOCは武装商業を掲げ、要塞・駐屯兵・同盟条約の三点セットで産地統制を強めます。EICは交易権の分有をめざして商館と係留地を確保し、相互の衝突が頻発しました。1619年の英蘭防衛条約は、バタヴィア(ジャカルタ)に共同の防衛評議会を置き、現地紛争の調停と相互防衛を図る枠組みでしたが、運用は順調ではありませんでした。

とくにアンボン周辺では、ポルトガル残存勢力やスペイン系の影響、島嶼在地勢力の離合集散が絡み、要塞防衛の論理が前面化しました。VOC側は要塞破壊や火薬庫爆破の企てを常に警戒し、EIC側はVOCによる監視・取り締まりが自社の権益侵害に当たると主張していました。こうした緊張の中で、両社の現地要員はしばしば相手側を「陰謀者」とみなす準備ができていたと言ってよいでしょう。

もう一つの背景として、日本人傭兵の存在が挙げられます。17世紀初頭、東南アジアの各地に在外日本人社会(アユタヤ、ホイアン、バタヴィアなど)が成立し、VOCは武勇と規律で知られた日本人を雇い入れて要塞の守備や巡察にあたらせました。アンボンでも日本人兵が勤務しており、彼らはオランダの与力でありながら、地域社会では独自のネットワークを持つ越境的な存在でした。

事件の経過:逮捕・取り調べ・処刑

1623年2月、アンボンの要塞で勤務していた日本人兵の一人(史料では「シチゾー(Shichizō)」の名が多く見られます)が、要塞爆破の計画を疑われて拘束されました。彼は拷問のもとで、イギリス商館員から金品を受け取り、火薬庫爆破に加担するよう誘われたと自白しました。この証言を端緒に、VOC当局はイギリス人や他の日本人、さらにポルトガル人一名をも含む一連の逮捕に踏み切ります。

EIC側の主任商館員ガブリエル・トウアソン(Gabriel Towerson)をはじめ、複数の要員が取り調べを受けました。取り調べでは、当時のヨーロッパ大陸法の慣行に従って「水責め(水責)」などの拷問が実施され、被疑者は口に布を詰められた上で大量の水を流し込まれるなどの苛烈な手段に晒されました。これにより自白が連鎖的に引き出され、陰謀の存在を裏づける供述が積み上げられていきました。

短期間の審理の後、VOCの現地法廷は有罪判決を下し、イギリス人10名、日本人10名、ポルトガル人1名に対して死刑を言い渡しました。処刑は2月のうちに執行され、斬首などの方法が採られました。EIC側は無実と不当手続を主張しましたが、VOC側は要塞防衛のための緊急措置であり、条約上も現地裁判権は自社にあると反論しました。

この間、英蘭の現地責任者間での抗議・弁明の文書が往復し、やがてバタヴィア、さらに本国へと報告が送られます。通信事情の制約もあって、両国本国の判断が現場に届くより早く処刑が完了していたことも、後の外交的非難を激化させる一因となりました。

法と暴力:管轄権、拷問、条約解釈

アンボイナ事件は、単なる残虐事件としてだけでなく、初期近代の法制度の衝突として理解することが重要です。VOCの裁判はローマ=オランダ法と都市慣習法の系譜に立ち、要塞内の治安と軍事上の脅威が認定されれば、拷問による「真実の発見」を補助手段として認める運用でした。対して、EIC側は英王国法の理念や商人共同体の通念から、拷問による自白の信頼性を否定し、同時に英蘭防衛条約に照らして案件はバタヴィアの共同評議会で扱われるべきだと主張しました。

管轄権の問題では、VOCは領域支配と要塞主権を根拠に、要塞内で起きた反逆・破壊計画は自社法廷の専管事項だとしました。EICは、要塞は協調管理の対象であり、かつ自社要員に対する処罰権は共同審理に服すと解したのです。条約条文の曖昧さと現地実務の積み重ねの違いが、真っ向から噛み合わない結果となりました。

拷問の適法性については、当時の欧州でも地域差が大きく、英国内では陪審制と証拠主義の発達により拷問の余地が縮小していた一方、大陸法圏では「半証(semiplena probatio)」を補完して自白に到達するための限定的な拷問が制度上許容されていました。アンボンの法廷は後者の慣行を踏襲しており、オランダ本国でも違法と断定しがたいグレーゾーンに位置していました。もっとも、英側の視点からは「虚偽自白を引き出す残虐行為」であり、出来事は倫理的・法的非難の対象となりました。

情報と宣伝の戦いも、法廷外で展開しました。イギリスでは事件直後からパンフレットや証言集が発行され、拷問の詳細や被害者の無実が克明に描写されました。対してオランダ側は、陰謀の実在と手続の正当性を述べる反駁文書を作成し、国際世論の動向を意識した論争が続きました。こうして「アンボイナ」は、単一の事実をめぐる解釈と表象の争奪戦の象徴となっていきます。

影響と記憶:交易地図の再編、宣伝戦、文学化、日本人の位置づけ

短期的には、EICはモルッカ諸島における拠点維持を断念し、インド西岸(スーラト)やベンガル、コロマンデル海岸など布帛・染織を中心とする交易へと重点を移していきます。香料の産地直結戦略から、インド綿布を梃子としたアジア域内・対欧交易の組み替えへと舵が切られ、のちの英領インド経済ネットワークの骨格の一部が形作られました。蘭側はモルッカでの独占を一層強化し、強権的手段を辞さない「武装商業」の路線を確固たるものにしました。

中長期的には、アンボイナ事件は英蘭関係の火種として繰り返し想起されました。1650年代の講和交渉では補償や名誉回復が議題に上り、17世紀後半の英蘭戦争の際には、事件が世論動員の格好の素材となりました。詩人ジョン・ドライデンは第三次英蘭戦争期(1673年)に戯曲『Amboyna; or, The Cruelties of the Dutch to the English Merchants』を上演し、蘭側の残虐さを誇張して描きました。文学化された記憶は、時に史実から離れて独自の生命を持ち、国民的アイデンティティの物語に組み込まれていきます。

日本人傭兵の処刑は、日本史の文脈でも注目される論点です。彼らはVOCの契約兵として要塞の警備に就いており、事件ではイギリス側と結びついた容疑で裁かれました。被処刑者の中核が日本人兵であったことは、当時の日本人ディアスポラの広がりと、雇用主である欧州会社との関係の複雑さを示しています。なお、同じ1623年にはEICが平戸の商館を閉鎖しており、英日の直接関係は後退していきますが、これはアンボイナ事件が直接の原因というより、交易採算や対蘭競争、幕府政策の変化が重なった帰結と見るのが妥当です。

用語上の注意として、同事件は「アンボイナ虐殺」とも訳されてきましたが、今日では価値判断を強めに含む語の使用には慎重さが求められます。英蘭双方の史料は自国側に有利な叙述の傾向が強く、拷問と自白をめぐる事実関係、陰謀の実在可能性、条約解釈の細部は、研究の蓄積に照らしてもなお意見が割れる部分があります。史料の由来と文脈、宣伝的意図を読み解きながら、複数の証言を突き合わせる姿勢が欠かせません。

総じてアンボイナ事件は、初期近代の海域アジアにおける武装商業の現実、法と暴力の境目、そして欧州内の国家間競争が「遠い島」の法廷でどのように投影されるかを示す鏡でした。要塞という閉じた空間で行使された主権の論理は、のちに国際法や領事裁判権の議論へと接続し、宣伝戦によって拡声された記憶は、国民国家の時代に政治的資源として繰り返し活用されました。事件そのものの細部を丁寧に確かめることが、過剰な物語化から距離を取り、当時の人びとが置かれた条件を具体的に理解する助けになるのです。