カルロス1世(スペイン王、在位1516–1556)/カール5世(神聖ローマ皇帝、在位1519–1556)は、ハプスブルク家の広大な継承により「太陽の沈まぬ帝国」を現実の政治として運転した近世前半最大級の君主です。ブルゴーニュ公領(ネーデルラント)・スペイン(カスティーリャとアラゴン)・イタリアの一部・新大陸植民地・オーストリア系領邦、さらに神聖ローマ皇帝位を抱え、フランス王国とイタリア支配、オスマン帝国と地中海、宗教改革と帝国教会秩序という三重戦線に同時対応しました。スペイン本国ではコムネロス反乱の鎮圧と統治の再編、帝国ではヴォルムス議会(1521)とシュマルカルデン戦争(1546–47)を経て宗教和平(1555アウクスブルクの和議)へ至る長い過程を主導しました。新大陸では征服と統治の制度化が進み、採銀と税制が欧州財政を変えます。他方で、財政赤字と傭兵動員、宗教分裂の固定化は彼の理想と現実の裂け目でもありました。晩年は退位して修道院に隠棲し、巨大な帝国をスペイン系(フィリペ2世)とオーストリア系(フェルディナント1世)に分けました。以下では、出自と継承、欧州政治と戦争、宗教改革への対応、スペイン帝国と新大陸、財政・行政と文化、退位と遺産を、主要論点が一望できるように整理します。
出自と継承—ブルゴーニュの教養から「複合王国」の操縦へ
カルロスは1500年、ゲント(現在のベルギー)で誕生しました。父はハプスブルク家のフィリップ美公(ブルゴーニュ公)、母はスペインのカトリック両王の娘フアナ(後の女王フアナ)。祖父母からの相続が連鎖的に起こり、1515年にブルゴーニュ公領を、1516年に外祖父フェルナンド2世の死でスペイン王位(母フアナと共治の形式)とスペイン=イタリアの王冠領を、1519年に祖父マクシミリアン1世の死でオーストリア系領邦の継承権を手にしました。さらに同1519年、選帝侯の選挙で神聖ローマ皇帝に選ばれ、即位後はカール5世と称します。
少年期を過ごしたネーデルラントの宮廷文化は、彼の言語感覚と政治スタイルに影響しました。多言語の臣民と多様な身分制を調停する術、公文書と財政の精密さ、都市と貴族の権利に対する配慮は、この地域で身につけた実務知でした。他方、スペインに初来した1517年、異国の若い王に対する反発と不信がコムネロス(都市共同体)反乱とヘルマニアス(職人・農民)の蜂起となって噴出し、彼は軍事鎮圧と恩赦・特権調整を組み合わせて収拾しました。以後、スペインではカスティーリャ=アラゴン連合王国を「王室評議会」と副王・アウディエンシア(高等法院)網で束ねる体制が整っていきます。
カルロスは結婚によっても政治的基盤を固めました。1526年、ポルトガル王女イサベル(イサベラ)と結婚し、両者の間に生まれたのが後継者フィリペ(後のフィリペ2世)です。王妃イサベルはスペイン統治の実務を担い、国王の不在時には摂政として機能しました。
欧州政治と戦争—フランス・オスマン・ローマ教皇との三角関係
カルロスの対外戦略は、(1)フランス王フランソワ1世とのイタリア支配をめぐる覇権競争、(2)オスマン帝国スレイマン1世およびバルバロッサ率いる艦隊との地中海・中東欧での抗争、(3)ローマ教皇庁との微妙な協調と対立、の三本柱で定義されます。
イタリア戦争では、1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜にし、マドリード条約で譲歩を引き出すも、解放後のフランスはコニャック同盟で巻き返し、1527年には皇帝軍の傭兵がローマを蹂躙する「ローマ劫掠(サッコ・ディ・ローマ)」が起きました。これは皇帝の意図を超えた戦争経済の暴走でもあり、教皇庁との関係に深い傷を残します。1530年にはボローニャでクレメンス7世が皇帝カール5世にイタリア最後の「教皇戴冠」を行い、政治的和解の演出が図られました。
オスマン帝国との対峙は、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国が崩壊し、以後中央欧州の主導権をめぐる争いに発展しました。1529年第一次ウィーン包囲、1532年の再遠征は撃退に成功しますが、バルカンの主導権は流動化します。地中海ではバルバロッサの私掠・制海が痛手となる一方、ジェノヴァの提督アンドレア・ドーリアと提携してチュニス遠征(1535)に勝利、アルジェ遠征(1541)には失敗と、攻守の振幅が大きい時代でした。フランスはオスマンと結び(フランス=オスマン同盟)、皇帝包囲網が形成されます。
こうした軍事外交は、常備軍・傭兵・海軍・要塞の維持に膨大な費用を要し、国家信用(フッガー家らの国際金融)と新大陸銀の流入に依存する財政モデルを招きました。これがのちの長期的な債務構造の源流となります。
宗教改革への対応—ヴォルムスからアウクスブルクへ
カルロスの統一王国像にとって、宗教改革は最大の難題でした。1521年、ヴォルムス帝国議会でルターに「ここに立つ」と皇帝権の前での撤回拒否を許した直後、カールはヴォルムス勅令でルター派を帝国違法としました。しかし、帝国内の諸侯・都市は信仰と自治の問題として受容が割れ、1530年のアウクスブルク帝国議会でルター派はメランヒトン起草の「アウクスブルク信仰告白」を提出、妥協模索と対立が交錯します。
政治・軍事的には、シュマルカルデン同盟(新教諸侯・都市の軍事同盟)が皇帝権に対抗し、1546–47年の戦争でカールはミュールベルクの戦いに大勝して同盟を瓦解させました。彼は一時的に「アウクスブルク仮信条」(1548)で帝国内の暫定宗教秩序を押しつけますが、現実に長続きせず、諸侯・都市・外政の圧力の中で統一教会の夢は後退します。最終的に、弟フェルディナントらの主導で1555年の「アウクスブルクの和議」が成立し、「領主の宗教、其の国の宗教(cuius regio, eius religio)」が原則化しました。これは皇帝の普遍主義の譲歩であり、複合帝国の維持のための現実選択でした。
教会改革の公会議招集でも、カールはトリエント公会議(1545開始)を後押しし、教皇政治との駆け引きの中でカトリック改革の制度化を促しました。普遍教会の回復という理想と、帝国国制の分権という現実の間での綱渡りが、彼の宗教政策の本質です。
スペイン帝国と新大陸—征服の制度化、銀の帝国、良心の声
カルロスの治世は、新大陸征服から植民地統治への制度化へ重心が移る時期でした。コルテスによるアステカ征服(1521)、ピサロのインカ征服(1530年代)を経て、新スペイン副王領(メキシコ、1535)とペルー副王領(1542)が成立し、アウディエンシア(王立高等法院)・カビルド(市政)・副王・総監(コレヒドール)の階層が整えられました。エンコミエンダ(先住民への労働割当と教化の義務をもつ委託)が濫用されると、ラス・カサスらの告発を受けて「新法(1542)」が公布され、先住民の過酷な使役の抑制と王権による統制強化が図られます。完全な改善にはほど遠かったものの、法による修正の試みが始まった点は重要です。
ポトシやサカテカスの銀山開発は、アマルガム法の普及とメキシコ銀の大量流入を通じて、スペイン・ネーデルラント・イタリアの軍費と宮廷経費を支えました。貨幣・金融面では、スペイン王室のモットー「Plus Ultra(さらに向こうへ)」とヘラクレスの柱(海の柱)が貨幣意匠として採用され、グローバルな海上帝国の自意識が象徴化されます。他方、銀依存は物価革命や産業基盤の弱体化、対外債務の慢性化を招き、のちのスペイン経済に長い陰を落としました。
アジア方面では、ポルトガルとの同君連合はまだ先ですが、セビリア商館(カサ・デ・コントラタシオン)を軸に大西洋貿易が管理され、マニラ開設(1571)は息子フィリペの代ですが、その前段としてパシフィック横断可能性の探索と世界周航(マゼラン—エルカーノ、1519–22)が王権の後援で実現しました。カルロスの帝国像は、ヨーロッパと新大陸・アフリカ・アジアを結ぶ「複合世界」の政治でした。
財政・行政と文化—フッガーと官僚制、ティツィアーノの皇帝像
広域統治には財政と官僚制が不可欠です。カルロスは選挙費用や戦費の調達でフッガー家・ヴェルザー家らの銀行家に大きく依存し、関税・アルカバラ(売上税)・鉱山税・教会税(十分の一)・新大陸からのクアトロ(王室取り分)を担保に信用を回しました。ハプスブルク家の「信用の帝国」は、利払いと戦役の循環に組み込まれ、債務再編(モラトリアム)も繰り返されます。
行政面では、スペイン王室評議会(国家・カスタイル・アラゴン・インディアスなどの専門評議会)とネーデルラントの「十七州」向けプラグマティック・サンクシオン(1549)で統治単位の画一化を進めました。後者は、ネーデルラントを一つの継承体とみなす原則を打ち出し、のちのオランダ反乱の遠因ともなる中央集権化を孕みます。姉マリア(ハンガリー王妃)や妹マグダレーナ、叔母マルガレーテら女性親族の登用は、ブルゴーニュ宮廷の伝統に基づく人的ネットワークの活用でした。
文化の領域では、ティツィアーノが描いた皇帝肖像(騎馬像・甲冑像)が権威の視覚化を担い、カールの個人像をヨーロッパに流布しました。宮廷礼儀・服飾・紋章・貨幣など、イメージ政治が帝国の統合を補強します。学問・信心では、エラスムス的人文主義への一定の共感と、トリエント的規律の強化という二面性を持ち、宗教劇や説教、大学統治に皇帝の影響が及びました。
退位・隠棲と遺産—二つのハプスブルク、未完の普遍王国
健康悪化と政治疲労ののち、カルロスは1555–56年にかけて段階的に退位を断行します。ネーデルラントとスペイン・イタリア・新大陸は息子フィリペ2世へ、オーストリア領邦と皇帝候補位は弟フェルディナントへ譲られ、ハプスブルク家は「スペイン系」と「オーストリア系」に分岐しました。カルロス自身はスペインのエストレマドゥーラ地方、ユステ修道院に隠棲し、政治通信を続けながら祈りと機械仕掛けの趣味(時計)に時間を費やし、1558年に没しました。
遺産は相反する二つの顔を持ちます。一つは、普遍王国の理念—キリスト教世界の守護者としての皇帝像—を最も現実に近づけた統治者としての達成です。もう一つは、複合帝国の構造的限界—分権的国制・財政制約・多宗教社会—の前で理想を縮減せざるを得なかった限界です。アウクスブルクの和議は分裂の固定化でもあり、同時に帝国の平和を再建する知恵でもありました。新大陸では、法と王権による統制の拡大が植民社会の不正の是正を試みつつ、搾取と暴力の構造を温存する矛盾を抱え続けます。
カルロスの評価は、国民国家と宗教自由の価値観から見直され、英雄視と批判の間で揺れてきました。今日的には、彼を「多中心世界の交渉者」と見なす視点が有力です。軍事と財政、信仰と政治、地方特権と中央集権、海の帝国と陸の帝国—相反する要素を束ねる調停の技術、そして妥協のタイミングを見極める直観が、カルロス1世/カール5世の核心でした。彼が退位にあたって述べた「私の力は志より小さかった」という趣旨の言葉は、万能の王が存在しないこと、しかし大きな秩序を保つ努力が歴史を動かし得ることを、静かに教えてくれます。

