自由州(じゆうしゅう)とは、主に19世紀アメリカ合衆国史の文脈で用いられる用語で、「奴隷制を法的に禁止していた州」を指す言葉です。これに対して、奴隷制を認めていた州を「奴隷州」と呼びます。南北戦争(南部・北部戦争)の前夜、アメリカでは新しい州や準州(テリトリー)を編入するたびに、その地域を自由州とするのか、奴隷州とするのかをめぐって激しい政治対立が起こりました。自由州・奴隷州のバランスは、連邦議会、特に上院での勢力均衡や、合衆国全体の将来像を左右する問題として、きわめて重要だったのです。
自由州は単に「奴隷がいない州」というだけでなく、「自由労働(賃金労働)を前提とする社会」「奴隷制の拡大に反対する勢力の拠点」として、大きな意味を持ちました。北部の自由州では、工業や商業が発達し、移民労働者も多く流入していました。一方、南部の奴隷州では、大農園(プランテーション)で黒人奴隷を使った綿花・タバコ栽培が経済の中心となっていました。このように、自由州と奴隷州の対立は、単なる道徳上の奴隷制度是非論にとどまらず、「どのような経済と社会を目指すのか」「合衆国は『自由の国』として奴隷制を許容し続けてよいのか」という根本問題につながっていました。
世界史で「自由州」という用語が出てくるとき、多くは「南北戦争の背景」「奴隷制とその拡大をめぐる対立」「ミズーリ協定やカンザス=ネブラスカ法などの折衝」を説明する場面です。自由州の数や位置、奴隷州との勢力バランス、そして新しく編入される西部地域をどう扱うかが、合衆国政治を大きく揺さぶりました。以下では、自由州という概念の基本的な意味、アメリカ建国から19世紀半ばまでの自由州と奴隷州の変化、その対立がどのように深まり南北戦争へとつながっていったのか、そして自由州をめぐる議論がもつ歴史的意義について、もう少し詳しく見ていきます。
自由州という概念の基本
アメリカ合衆国史における「自由州(Free State)」とは、法的に奴隷制を禁止していた州を指します。対になる概念が「奴隷州(Slave State)」で、そこでは黒人奴隷を所有することが認められていました。建国当初のアメリカでは、北部と南部の多くの州で奴隷制が存在していましたが、18世紀末から19世紀初頭にかけて、北部諸州の多くが奴隷制を徐々に廃止し、「自由州」へと変わっていきました。
この変化の背景にはいくつかの要因があります。第一に、北部では農業構造や気候条件から見て、大規模プランテーションと奴隷労働に依存する経済があまり発達しませんでした。そのため、奴隷制を維持しなければならない経済的必然性は南部ほど強くなかったのです。第二に、啓蒙思想やキリスト教的良心に基づく奴隷制批判が広がり、「奴隷制は自由と平等をうたうアメリカ革命の理念と矛盾する」と考える人々が増えていきました。第三に、自由黒人や奴隷解放運動家の活動、黒人教会や印刷物などを通じた声が社会に浸透し、北部社会の世論に影響を与えました。
こうした流れの中で、ニューヨークやペンシルヴェニアなどの北部諸州は、一定の移行期間を設けつつ、段階的に奴隷制を廃止する法律を採用しました。その結果、19世紀前半には、「北部は自由州が多く、南部は奴隷州が多い」という地域的な分裂がはっきりしていきます。ただし、州ごとの事情はさまざまで、州内にも奴隷制を支持する人・反対する人が共存していました。自由州・奴隷州という区分は、大きな政治・法制度上のラインでありながら、その内部には多様な意見と緊張が存在していた点を押さえておく必要があります。
重要なのは、「自由州」という言い方が、単に奴隷制の有無という事実を指すだけでなく、「アメリカは自由を掲げる共和国である」という自己イメージとの関係で使われたことです。自由州の政治家や市民の多くは、「奴隷制の拡大を許せば、合衆国の自由と共和主義の理念が損なわれる」と考え、少なくとも奴隷制が新しい地域へ広がることには強く反対するようになりました。この立場が「反奴隷拡大論」であり、のちの共和党の基盤となります。
建国からミズーリ協定まで:自由州と奴隷州の初期バランス
アメリカ合衆国建国の時点では、北部・南部ともに奴隷制を持つ州が存在しましたが、合衆国憲法は奴隷制を明示的に禁止も容認もせず、各州の判断に委ねました。その一方で、奴隷制と直接関連する条項(例えば「奴隷を3/5人として人口に算入する三分の五条項」「逃亡奴隷条項」など)が含まれており、「奴隷制を前提とした妥協の上に成り立つ憲法」であったことも事実です。
18世紀末から19世紀初頭にかけて、北西部条例(1787年)によって五大湖周辺の新領土(のちのオハイオ・インディアナ・イリノイなど)では奴隷制が禁止されました。この地域に編入された州は自由州として合衆国に加わっていきます。一方、南部のケンタッキーやテネシーなどは奴隷州として加入し、上院での自由州・奴隷州の数はおおむね均衡が保たれるよう配慮されました。上院は各州から同数の議員が選出されるため、自由州と奴隷州の数が同じであれば、奴隷制問題に関して一方的に多数派になることは難しい構造でした。
このバランスが大きく揺らいだのが、1820年前後のミズーリ問題です。ルイジアナ買収で得た西部領土の一部から、ミズーリを奴隷州として編入しようという動きが出たとき、北部の自由州側は反発しました。「もしミズーリまで奴隷州になれば、西部への奴隷制拡大に歯止めがきかなくなるのではないか」という懸念があったのです。一方、南部の奴隷州側は、「新しい土地にも奴隷制を持ち込む権利がある」と主張し、両者は激しく対立しました。
最終的に成立したのが「ミズーリ協定(ミズーリ・コンプロマイズ)」です。これは、(1)ミズーリを奴隷州として編入し、(2)同時にメインをマサチューセッツから分離して自由州として編入することで上院の数のバランスを保ち、(3)北緯36度30分以北のルイジアナ割譲地では今後奴隷制を禁止する、という三点から成る妥協でした。ここで「自由州と奴隷州の均衡を保つこと」が、連邦政治の安定にとって決定的に重要だと認識されたのです。
しかし、この妥協はあくまで一時的なものであり、「合衆国が今後どの方向へ進むべきか」という根本問題は先送りされたにすぎませんでした。西部開拓が進み、新たな準州が次々と生まれていく中で、そのたびごとに「自由州か奴隷州か」をめぐる争いが再燃することになります。
カンザス=ネブラスカ法と「流血のカンザス」:自由州をめぐる対立の激化
19世紀半ばになると、アメリカは太平洋岸にまで領土を広げ、西部の諸地域をどのような州として編入するかが一層重大な問題となりました。このとき、自由州と奴隷州の対立は、新しい形で噴出します。その象徴が、1854年のカンザス=ネブラスカ法と、それに続く「流血のカンザス」と呼ばれる内紛でした。
カンザス=ネブラスカ法は、ミズーリ協定で定められた「36度30分以北では奴隷制禁止」という原則を事実上覆し、カンザス・ネブラスカ両準州については「住民主権(popular sovereignty)」の原則――つまり、その地域の住民が投票によって奴隷制の可否を決める――を採用することを定めた法律です。これは、一見すると民主的なようにも見えますが、実際には自由州・奴隷州双方の勢力がカンザスに流れ込み、投票結果を自分たちに有利にしようとする過酷な争いを引き起こしました。
奴隷州側からは、ミズーリ州などから多くの「奴隷制支持派」がカンザスへ移住し、あるいは武装集団として侵入しました。一方、自由州側からも、北部の奴隷制反対派(とくにニューイングランド地方の団体)が、奴隷制反対を掲げる入植者を送り込みました。その結果、カンザス準州内では、奴隷制を認める政府と認めない政府が並立し、互いに正統性を主張する異常事態が生まれます。
この対立は、やがて暴力に発展しました。双方の武装集団が相手側の入植地を襲撃し、家屋を焼き払い、殺傷事件が多発するようになります。特に、急進的な奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンが率いる一団が奴隷制支持派の入植者を襲撃した事件などは、「流血のカンザス(Bleeding Kansas)」として知られ、全国に衝撃を与えました。ここで、自由州をめぐる対立は、もはや議会内の言論の世界を超え、現地での事実上の内戦として現れたのです。
カンザス=ネブラスカ法が示したのは、「奴隷制の問題を単に『地方の選択』に任せるだけでは解決しない」という現実でした。自由州と奴隷州の勢力は、数・経済力・政治力の面で拮抗しつつも緊張を高めており、「どこまで奴隷制を伸ばすか」「新しい州が自由州になるべきか奴隷州になるべきか」という争いは、最終的に連邦全体を巻き込む大問題へと発展していきます。
こうした状況の中で、北部の自由州を基盤として新たに登場したのが共和党です。共和党は、「奴隷制がすでに存在する南部の州には干渉しないが、西部の新しい準州・州への奴隷制拡大には断固反対する」という立場を掲げました。これは「自由州の拡大」を求める立場であり、「合衆国は結局、自由州を中心とする国家になるべきだ」という方向性を示していました。
南北戦争と自由州の意義
自由州と奴隷州をめぐる対立は、最終的に南北戦争(1861〜65年)へとつながります。1860年の大統領選挙で、共和党候補エイブラハム=リンカンが当選すると、南部の一部奴隷州は「奴隷制拡大を否定する政権とは共存できない」として連邦からの離脱(脱退)を宣言し、アメリカ連合国(南部連合)を組織しました。北部の自由州を中心とする合衆国(北部)と、奴隷州を基盤とする南部連合とのあいだで戦争が始まり、これが南北戦争です。
戦争の初期段階で、北部(自由州側)の主要な目標は「連邦の維持」であり、必ずしもただちに奴隷制そのものの廃止ではありませんでした。しかし、戦争が長期化し、奴隷が南部の軍事力と経済力を支える重要な要素であることが明らかになるにつれて、「奴隷制の廃止」は軍事的にも政治的にも避けて通れない課題となります。1863年の奴隷解放宣言や、戦後の合衆国憲法修正第13条による奴隷制廃止は、その流れの中で実現しました。
この過程で、自由州の存在は重要な役割を果たしました。北部の自由州は、工業力・人口・財政力の面で南部奴隷州を大きく上回っており、南北戦争における北部の勝利の基盤となりました。また、自由州ではすでに「奴隷制なしに成り立つ社会・経済」が現実のものとなっており、「奴隷制廃止後も合衆国は十分に発展できる」と示すモデルでもありました。自由州の経験は、「奴隷制をなくしても国家は成り立つか」という不安に対する、具体的な答えだったのです。
南北戦争の結果、奴隷州という制度的区別は消滅し、合衆国全体が「法の上では奴隷制のない国」となりました。しかし、自由州・奴隷州の対立の記憶は、その後も人種差別や地域対立として長く影を落とし続けます。南北戦争後の再建期(リコンストラクション)には、黒人の公民権と白人至上主義勢力との対立が激化し、その後もジム=クロウ法などの差別的制度が続きました。自由州・奴隷州という言葉は使われなくなっても、その背景にあった経済構造や人種意識は簡単には消えなかったのです。
世界史の学習において「自由州」という用語を押さえることは、アメリカの歴史を「自由と民主主義だけの成功物語」としてではなく、「奴隷制と差別を抱え、その克服をめぐって激しい対立と戦争を経験した歴史」として立体的に理解するために重要です。自由州と奴隷州の対立は、単に南北戦争の前提条件であるだけでなく、「自由を掲げる近代国家が、どこまで自由と平等を一貫して守ることができるのか」という問いを突きつける出来事でもありました。
簡潔に言えば、自由州とは「奴隷制を禁じた州」であり、その存在と拡大をめぐる政治闘争は、アメリカ合衆国のあり方そのものを揺るがし、最終的には南北戦争と奴隷制廃止へとつながりました。自由州という言葉の背後には、「自由の国」を名乗りながら奴隷制を抱え込んだアメリカが、その矛盾とどう向き合ってきたのかという、重い歴史の問題が詰まっているのです。

