革命暦(フランス革命暦、共和暦)は、フランス革命期に従来のキリスト教的時間秩序を刷新し、自然と理性に合わせて社会のリズムを作り直そうとして導入された暦です。年初を秋分に置き、農事や気象にちなんだ新しい月名を与え、週を10日制(デカード)に組み替え、さらに一時期は一日の時刻まで十進法で測ろうとしました。1793年に制定され、適用は1792年9月22日(共和暦元年元日)に遡って始まり、ナポレオンの政権下で1806年1月1日(グレゴリオ暦)から旧来の暦に復帰するまで続きました。革命の理念を生活にまで浸透させる大胆な試みでしたが、宗教行事や労働慣行、国際交流、天文運用の難しさなどにぶつかり、十余年で幕を閉じます。それでも、月名や「テルミドール」「ブリュメール」といった語は歴史用語として今も生きており、「時間をどう社会で共有するか」という問題を考える材料を与えてくれる存在です。
革命暦の狙いは、王権と教会が長く支配してきた時間の区切りを、自然現象と合理的計算に基づく新秩序へと置き換えることにありました。日曜日の礼拝や聖人名の祝日を中心に動く生活から離れ、収穫・霧・霜・雨・芽生えといった季節感で年の流れを刻み直す発想です。新しい暦は役所の記録や契約、学校や祭典の日取りに広く使われ、政治の言葉と日常の時間を直結させました。以下では、成立の背景、仕組みと用語、運用と社会の反応、廃止と遺産の四つの観点から、分かりやすく整理して解説します。
成立の背景:時間を「革命」するという発想
革命前のフランスは、ローマ・カトリックの祝祭日と日曜日が生活のリズムを司り、聖人名の暦が日めくりの世界を彩っていました。革命は政治制度だけでなく、象徴や日常の習慣をも刷新しようとし、度量衡の十進化や新しい市民祭典の導入と並んで、暦の改革が議題に上りました。意図は二重です。第一に、共和政の正統性を日常の時間に刻むこと、第二に、自然に合わせた「合理的で世俗的な時間」を作ることでした。年初を秋分(葡萄収穫の頃)に置くのは、天文学的に明確で、農事上の節目でもあったからです。
1793年10月、国民公会は新暦の施行を可決し、開始点を王政終焉の象徴日である1792年9月22日(秋分の日)に遡って定めました。これにより、共和暦元年(An I)は1792年秋から始まり、以後、An II、An III…と年号が加算されていきます。暦の名称や月名、祭日の設計には作家ファーブル・デグラント(Fabre d’Églantine)の色濃い提案が反映され、自然語彙に満ちた新しいカレンダーが生まれました。
仕組みと用語:月・週・日・時刻の新デザイン
革命暦の一年は12か月×30日=360日で構成され、年末に「補正日(ジュール・コンプリメンタール、jours complémentaires)」を5日、閏年には6日加えて地球の公転と整合させました。閏日は「フランシアード」という4年周期の概念に基づき、原則として第III年、第VII年、第XI年の末に6日目を置く仕組みが構想され、実際に運用されました。年の始まりは秋分日で、天文学的観測により決められたのが特徴です。
月名は自然語で、各月の気候や農事を反映しています。秋から順に、ヴァンデミエール(Vendémiaire:葡萄収穫)、ブリュメール(Brumaire:霧)、フリメール(Frimaire:霜)、ニヴォーズ(Nivôse:雪)、プリュヴィオーズ(Pluviôse:雨)、ヴァントーズ(Ventôse:風)、ジェルミナール(Germinal:芽生え)、フロレアル(Floréal:花)、プレリアル(Prairial:牧草)、メシドール(Messidor:収穫)、テルミドール(Thermidor:暑気)、フリュクティドール(Fructidor:果実)です。これらの語は、後世「ブリュメールのクーデタ」「テルミドールの反動」という歴史用語にもなりました。
週にあたる単位は7日制ではなく、10日制の「デカード(décade)」でした。各デカードの10日は、プリミディ(primidi)、ドゥオディ(duodi)、トリディ(tridi)、カルティディ(quartidi)、カンティディ(quintidi)、セクスティディ(sextidi)、セプティディ(septidi)、オクティディ(octidi)、ノニディ(nonidi)、デカディ(décadi)と名づけられ、うちデカディが休養と市民祭典の日とされました。これにより、従来の毎7日ごとの日曜休暇は廃され、労働者や農民の生活リズムが変化しました。10日に1日の休養は、体感的には負担が重く、地方では反発や抜け道が生じたことが記録されています。
各日の名称も、自然への賛歌を込めた独創的な体系でした。原則として多くの日を植物(作物・野草)名で呼び、5日ごと(カンティディ)には家畜などの動物名、10日ごと(デカディ)には農具などの道具名を配して、農本的宇宙を暦上に表現しました。年末の補正日は祝祭で、徳(Vertu)、才能(Génie)、労働(Travail)、意見(Opinion)、報償(Récompenses)、そして閏年に限って革命(Révolution)の祝日が置かれます。宗教的聖人の代わりに、市民徳と労働を顕彰する設計だったと言えます。
さらに、制定の初期には「十進時刻」も導入されました。一日を10時間、1時間を100分、1分を100秒に分ける方式で、十進化の徹底を目指したものです。実物の十進時計も製作され、公的掲示に用いられましたが、商取引・交通・国際交流には不便が多く、1795年(共和暦III年)には事実上廃止されました。時刻は元に戻りつつも、年月日の体系は継続するという折衷がしばらく続きます。
運用と社会:役所・学校・市場・信仰のあいだ
革命暦はまず公文書で徹底されました。法令、登記、契約、軍の命令書、新聞、教科書などが新暦表記となり、市民は日付の換算に慣れる必要がありました。市役所や裁判所では、両暦表記の便覧が配られ、印刷物には「旧暦(グレゴリオ暦)○月○日に相当」といった注記が添えられることもありました。学校教育では、新しい月名や日名が暗唱科目となり、子どもたちが自然語彙を通じて季節感を学ぶ狙いが込められました。
しかし、運用は一筋縄ではいきません。まず、デカード制の休養日は市場や農繁期の実情とずれやすく、地方の共同体は慣行的に7日サイクルを温存することが少なくありませんでした。職工や船員、商人にとっても、国際取引や教会暦で動く顧客との折り合いが難題でした。銭湯や劇場、交通の時刻表の調整も小さくない摩擦を生み、結果として都市と農村、行政と現場の間に「暦の溝」が現れます。
宗教の面でも対立が深まりました。日曜日と聖人祭を軸にした礼拝や休息の習慣は、共同体の一体感と密接に結びついていたからです。革命政府はカトリックの組織力を削ぐ意図から世俗的祭典を重ね、「祖国」「自由」「最高存在(至高者)」などを讃える祝祭をデカディに合わせて企画しましたが、民衆の心情や司祭の抵抗は根強く、祭礼の参加は地域差が大きく出ました。反革命的とみなされた地域では、旧来の礼拝が地下化し、新暦は名ばかりの運用にとどまることもありました。
一方で、革命暦は政治言語として強い力を持ちました。「テルミドールの反動」「ブリュメールの政変」といった表現は、単なる日付を超えて歴史の節目を象徴する記号となり、新聞の見出しや演説のフレーズに繰り返し登場します。行政の内部でも、年度の区切りや予算、徴兵の抽選などが新暦を基準に組まれ、軍や役所のルーティンが暦を支える一方で、暦もまた制度によって日常化されていきました。
天文学的運用も課題でした。年初を秋分とするため、観測に基づく決定が必要で、年によって若干の揺れが生じます。単純な算術則で済むグレゴリオ暦に比べ、専門機関(天文台)の判定に依存する面が大きく、全国への通達の遅れや混乱が起こり得ました。閏日の挿入(第III・VII・XI年)も理論上は明快でしたが、実務では調整を要し、公布・運用のタイミングに注意が必要でした。
終焉と遺産:1806年の復帰と、記憶に残る語彙
1799年のブリュメール18日の政変でナポレオンが政権を握ると、政治は安定と行政効率の重視へと舵を切ります。十進時刻はすでに廃されており、残る暦についても、外交・通商・宗教政策の現実と折り合いをつける必要がありました。1805年フリュクティドール22日(グレゴリオ暦では1805年9月9日)の政令により、翌1806年1月1日からグレゴリオ暦への復帰が定められ、共和暦XIV年はそこで打ち切られました。以後、公文書と日常表記は旧来の暦に戻り、革命暦は歴史の一章となります。
なぜ短命に終わったのかという点では、三つの要因がよく挙げられます。第一に、実務の不便です。国際取引や学術・科学のコミュニティはグレゴリオ暦に依拠しており、換算の手間は恒常的なコストでした。第二に、社会文化の抵抗です。7日サイクルと日曜礼拝を核にした生活文化は根強く、10日サイクルは労働と休養のリズムを崩しました。第三に、天文運用の煩雑さです。秋分基準は理念的に美しい反面、観測に依存するため全国統一のアナウンスに負担がかかりました。こうした要因が積み重なり、政権の安定志向と相まって復帰が選ばれたのです。
それでも、革命暦が残した遺産は少なくありません。月名は歴史叙述の語彙として生き続け、テルミドールやブリュメールは事件名として教科書に定着しました。自然語彙を暦に織り込む発想は、その後の博物学や教育の言葉にも影響を与え、季節を感じる言い回しとして再利用されています。度量衡の十進化は暦ほどには後戻りせず、メートル法として世界に広まりました。時間の十進化は消えましたが、「時間もまた制度である」という意識を社会に刻んだ点は重要です。
現在、革命暦は研究者や歴史ファンの間でしばしば参照され、二重日付の対照表や換算ツールが利用されています。美術やデザインの世界では、植物・動物・道具を冠した日名の美意識が再評価され、カレンダーや展示のモチーフになることがあります。革命暦は失敗の象徴ではなく、社会がどこまで生活の基本単位を作り替えられるのかを示した実験の記録でもあります。時間の制度化が政治や宗教、経済とどう絡み合うのかを考えるうえで、この暦は今も生きた教材と言えるでしょう。
総じて、革命暦は、自然と理性に根ざした新たな時間秩序を社会実装しようとした挑戦でした。大胆で詩的な設計は人々の想像力をかき立てましたが、生活実務・信仰・国際標準との摩擦の前に短命に終わります。とはいえ、その語彙と理念は歴史の言葉と記憶に沈殿し、今日でも「ブリュメール」「テルミドール」のように、時代の転回を言い表す便利な道具として息づいています。革命が時間の物差しにまで踏み込んだという事実は、政治の力と限界、そして日常を変えることの難しさを静かに語っているのです。

