ウィッテ – 世界史用語集

セルゲイ・ウィッテ(Serghei/S. Yu. Witte, 1849–1915)は、ロシア帝国末期を代表する財政家・政治家で、1892年から1903年まで財務相として重工業化と鉄道整備、金本位制への移行、外国資本の導入を柱とする国家主導の近代化を推し進めた人物です。1905年革命の際には十月宣言(十月綱領)を起草して立憲体制への移行を取りまとめ、同年のポーツマス講和条約を締結して日露戦争を終結に導きました。彼の路線は、保護関税・国営独占(酒税)・巨額の外債・為替安定・鉄道網拡張という「国家資本主義」的な性格を持ち、ドンバスの製鉄・バクーの石油・ウラルの冶金・サンクトペテルブルク/モスクワ周辺の機械工業などを急成長させました。他方で、農村の重税・物価高・労働者の長時間労働といった社会的緊張を増幅させ、1905年の危機を招く構造的要因ともなりました。ウィッテは、専制国家の枠内で市場と金融を梃子に帝国を近代化しようとした「現実主義者」であり、同時に専制の政治的限界に突き当たった改革者でした。

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生涯と登用:鉄道技術者から財務相へ

ウィッテは現在のジョージアに近いチフリス(トビリシ)の官吏家庭に生まれ、オデッサのノヴォロシースク大学で数学・物理を学びました。卒業後は鉄道会社に勤務し、運行・営業の現場で頭角を現します。鉄道のダイヤ編成や運賃政策、貨物輸送の合理化で実績を積み、国家経済の中核が鉄道にあるとの確信を深めました。1880年代、彼は鉄道省の官僚に転じ、鉄道網の拡張と運賃の統制に関与します。鉄道政策への貢献が認められて1892年、43歳で財務相に抜擢されました。

彼の基本視座は「国家が主導して産業化を急行する」ことでした。当時のロシアは農業依存が強く、銀本位を軸に通貨が不安定で、投資資金も慢性的に不足していました。ウィッテは、関税保護・安定通貨・鉄道建設・国家独占による財源確保・外資導入を組み合わせる「パッケージ」を設計し、広い帝国の資源と市場を一つに束ねることを目指しました。

改革の中核:保護関税・金本位制・外資導入・鉄道網

第一に、関税と産業保護です。彼はすでに1891年のメンデレーエフ関税で確立した高関税政策を踏襲・強化し、鉄鋼・機械・化学といった戦略産業に対する保護を継続しました。輸入品への高い関税は国内工場の価格競争力を守り、重工業への投資意欲を高める狙いがありました。

第二に、通貨・金融の安定です。ウィッテは金本位制への移行を最重要課題と捉え、金準備を積み上げるために予算均衡と外債調達を両立させました。1897年の通貨改革でロシア帝国は正式に金本位制に移行し、為替が安定、国際信用が向上します。これにより長期の低利借入が可能となり、国内の工場・鉄道・鉱山への投資が拡大しました。ロシア紙幣の兌換性確保は外国投資家に安心感を与え、パリ市場を中心とするロシア債の人気は高まりました。

第三に、財源確保のための国営独占と税制です。特に有名なのが1894年導入の蒸留酒(ヴォドカ)国営専売で、国家収入の基幹をなしました。酒税の安定的収入は鉄道建設や重工業投資の財源となる一方、飲酒問題の社会的悪影響を拡大したとの批判も招きました。加えて、穀物輸出の促進と農民の地代・税負担の維持は、国家財政の安定に寄与しましたが、農村の生活は逼迫し続けました。

第四に、鉄道です。シベリア横断鉄道(トランス=シベリア鉄道)の建設はウィッテの名を最も高めた事業でした。1891年の着工後、彼は資金・資材・労務の動員を調整し、東清鉄道(満洲里—ハルビン—綏芬河—ウラジオストク)や南満洲鉄道網との接続をにらみつつ、ユーラシア大陸の物流背骨を築こうとしました。鉄道は軍事と交易の両面で帝国の「統合装置」とみなされ、農産物と鉱産資源の市場統合を加速させました。ただし、東アジアへの鉄道進出は、満洲利権をめぐる対外緊張を高め、のちの日露戦争の舞台装置にもなりました。

第五に、外国資本の導入です。ウィッテはフランス資本を中心に、ベルギー・ドイツなどからの直接投資と借款を積極的に受け入れ、冶金・石炭・機械・化学のプラント建設に充てました。ドネツ盆地(ドンバス)のヤーゾヴァヤ—ユゾフカ(のちのドネツィク)に代表される製鉄・石炭コンビナート、バクー油田の採掘・精製の近代化、ウラルの冶金の更新などは、外資と国家の協働で進みました。

こうしたパッケージの成果として、1890年代末から1900年代初頭にかけてロシア工業生産は年平均で高成長を記録し、都市労働者の数も急増しました。他方で、農業の生産性停滞と土地不足、労働条件の悪さ、物価上昇は社会不安を増幅し、都市のストライキや農村騒擾が頻発します。ウィッテ自身は教育投資や労働立法の必要を認識していましたが、専制政体の硬直と宮廷・官僚の抵抗が改革の速度を制限しました。

日露戦争と1905年革命:十月宣言と首相就任、限界と退場

対外面では、満洲・朝鮮での影響力拡大をめぐり日本と緊張が高まり、1904年に日露戦争が勃発します。ウィッテは開戦に慎重で、財政・為替の不安を理由に拡張路線に批判的でしたが、決定権は皇帝と強硬派にありました。戦局の悪化と国内の疲弊が進むと、1905年にはペテルブルクで血の日曜日事件が発生し、全国的なゼネストと農村騒擾、民族地域の反乱が連鎖しました。専制体制は大規模な譲歩を迫られます。

この危機に際し、ウィッテは宰相(閣僚会議議長/のちの大臣会議議長)に登用され、立憲的改革への転回を主導しました。彼が起草に深く関与した十月宣言(1905年10月17日)は、①国民の基本的自由の保障(言論・集会・結社など)、②国会(ドゥーマ)設置、③法律制定におけるドゥーマの参加(将来の法の原則)を約束しました。これは専制政治の原理に根本的な修正を加える画期的文書で、全国のストライキを収束させる政治的効果を持ちました。

同年8〜9月、ウィッテは米国のポーツマスで日本と講和交渉に臨み、領土割譲を最小限(南樺太の南半分)に抑えつつ、賠償金支払いを回避する条件で講和条約をまとめました。外交的には一定の成果でしたが、軍事的敗北の事実は覆いようがなく、帝国の威信は大きく傷つきました。

1906年初頭、ドゥーマ選挙を経て立憲体制の枠組みが動き出すと、ウィッテはフランスを中心とする大規模外債(いわゆる1906年ロシア公債)を成立させ、通貨・財政の安定を再確保しました。しかし、宮廷・官僚・右派の反発、革命派の継続的圧力、ドゥーマとの摩擦の中で、彼の中道路線は孤立します。皇帝ニコライ2世は保守的側近を重用し、ウィッテは1906年4月に辞職、後任のストルイピンが農村改革と強硬な治安政策で体制の立て直しを図ることになりました。

評価と遺産:国家主導の近代化の光と影

ウィッテの評価は、経済の実績と政治の限界の二面から語られます。経済面では、金本位制の確立、外国資本の組織的導入、鉄道網の飛躍的拡大、保護関税の継続は、帝国経済を国際金融の回路に接続し、近代的大工業の土台を築きました。工業生産の急伸、都市化、労働市場の形成、技術者・会計士・管理職といった白領層の拡大は、1914年までのロシアの「後発工業化」を牽引しました。

他方で、農村の疲弊と社会的分配の不均衡、官僚主義の硬直、政治改革の遅延は、彼のモデルの「影」です。財政と為替の安定を最優先したため、農民の救済や教育・保健の公共投資は相対的に遅れ、都市の労働者保護も限定的でした。さらに、鉄道と対外利権の結合は帝国主義的拡張と結びつき、日露戦争のような対外的破綻に至るリスクを高めました。ウィッテ自身は軍事冒険に批判的だったものの、国家主導の資本蓄積は対外的プレゼンスの誇示と不可分で、政治的制御を失えば暴発しうる構造を内在させていました。

政治面では、十月宣言によって専制に立憲の楔を打ち込み、ドゥーマ創設を現実化させた功績は大きいものの、基本法(1906年)で皇帝大権が強く温存されたため、議会制の実効性は弱く、官僚制・地主・軍部の利害を揺るがすには至りませんでした。彼の現実主義は、宮廷政治の権謀と革命の急進性の双方から挟撃され、安定した改革連合を構築できなかったのです。

総じて、ウィッテはロシア帝国の近代化を「財政・金融・交通」という国家の技術で押し上げた稀有の行政家でした。彼の政策は、後のソ連の計画経済とは別系譜にありながら、「重工業優先」「国家主導」「外的環境のテコ入れ」という意味で通底する部分を持ちます。彼の成功が示したのは、通貨と信頼の安定が投資と産業化の前提であること、そして失敗が示したのは、経済近代化が政治社会の包摂と並走しないと持続不可能であるという教訓でした。ウィッテの名は、鉄道のレールと金貨の光沢の陰に、農村と工場の呻きが重なる、近代化の二重写しとして記憶されるべきでしょう。