イエメン – 世界史用語集

イエメンはアラビア半島南端に位置する地域・国家の名称で、紅海とアデン湾を臨み、古代からインド洋世界と地中海世界を結ぶ要衝として発展してきました。モンスーンに支えられた段々畑と高原都市、乳香・没薬・コーヒーに象徴される交易の歴史、そして部族・宗教・都市が複雑に絡み合う政治文化が重層的に刻まれています。現代国家としては20世紀に北イエメンと南イエメンが併存し、1990年の統一でイエメン共和国となりましたが、21世紀に入ってからの内戦と人道危機により、統治と社会の回復は依然として困難な課題に直面しています。本稿では、古代南アラビアの文明からイスラーム期、近代の分割と国家形成、統一以後の展開までを、用語の背景とともに整理します。

「イエメン」はアラビア語で「右(=南)」の意に由来するとされ、半島南部の肥沃な高地帯と沿岸低地(ティハーマ)を含む広域の地名として使われてきました。気候・地形の多様性は生業と政治秩序に大きく影響し、山岳の自給的農耕・部族組織と、港湾都市の交易・官僚制が並存・緊張する構図は、歴史を通じて繰り返し現れます。とりわけサヌアー旧市街やハドラマウトの泥煉瓦高層都市シバーム、ソコトラ島の固有生態系などは、文化と自然の両面でこの地域の特質を物語ります。

歴史用語の面では、「南アラビア王国(サバア、カタバーン、ハドラマウト、マイーン、ヒムヤルなど)」「モカ(Mocha)」「ザイド派イマーム国」「英領アデン」「イエメン・アラブ共和国(北)」「イエメン人民民主共和国(南)」などの語が重要です。同じ「イエメン」でも、時代により指す範囲と政治体制が大きく異なるため、文脈の確認が不可欠です。

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地理・環境と古代南アラビアの文明

イエメンの自然環境は、紅海沿いの低地ティハーマ、標高2000メートル前後に達する山岳高地、大断層の向こうに広がる内陸高原と砂漠、さらにインド洋側の沿岸部という明瞭な区分を示します。夏のインド洋モンスーンは山地に湿り気をもたらし、段々畑(マドラジャ)による穀物・キビ・コーヒーの栽培が発達しました。水利はワジ(涸れ川)と堰、井戸に依拠し、古代から灌漑技術が社会組織と結びついてきました。水を制することは税と権力を制することであり、地形は政治の基礎条件そのものでした。

古代南アラビア(紀元前1千年紀~紀元後6世紀)は、香料(乳香・没薬)とアラビア在来の商業作物の交易で栄え、青銅器・石刻に独自のムスナド(南アラビア文字)を残しました。サバア王国はマアリブ・ダムを中心とした灌漑国家として知られ、箱型堰の修復碑文は共同労働と神殿祭儀の連動を物語ります。のちにヒムヤル王国が台頭し、紅海対岸のアクスム王国(エチオピア)や東ローマ、サーサーン朝との間で覇権が揺れ動きました。6世紀にはナジュラーンのキリスト教徒迫害、アクスムの介入、さらにサーサーン朝の支配など、宗教と帝国間競合が南端に投影され、地域秩序は大きく変容します。

この古代の遺産は、後世のイエメンに二重の形で引き継がれました。第一に、水利と段々畑、交易路と関所という「空間の編成技術」が、王国から部族連合、イスラーム期のイマーム国へと形を変えながら持続したことです。第二に、インド洋と紅海の二つの海へ同時に開く地理が、外来宗教・貨幣・技術を受け入れる半面、外部勢力の介入を招きやすいという構造をもたらしたことです。

イスラーム化、コーヒー交易、ザイド派イマーム国とオスマン

7世紀のイスラーム化後、イエメンは早期からイスラーム帝国に組み込まれましたが、地形と部族の自律性は強く、地方勢力が自立・従属を繰り返しました。9世紀末、北山岳のサアダにハーディー・イラ・ル=ハックが到来し、ザイド派(シーア派の一分派)のイマーム制が確立します。ザイド派は法学・神学と武備を兼ねたイマーム(指導者)が部族首長層と契約しつつ統治する仕組みを持ち、都市サナアーや高地の宗教教育と深く結びつきました。他方、紅海沿岸から南部にかけてはシャーフィイー学派のスンナ派が広く分布し、地域ごとに宗教実践や法慣行の差が見られました。

中世から近世にかけて、イエメンは紅海・インド洋交易の中継地として重要性を増します。とりわけモカ港は16~18世紀にコーヒー豆の積み出しで世界史に名を刻み、スーフィー修道院・商人ギルド・在外商人が連携する独特のネットワークが形成されました。オスマン帝国は16世紀半ばに紅海防衛の一環としてイエメンへ進出し、サナアーやモカを押さえますが、山岳のザイド派勢力の抵抗に直面して17世紀前半にいったん撤退します。17世紀~18世紀のカーースィム朝(ザイド派イマーム)はコーヒー貿易で財政基盤を強め、サナアーを中心に統治を展開しました。

19世紀に入ると、蒸気航海・蘭印・インドの植民経済の変化により、コーヒー市場は競争にさらされます。オスマンは1849年以降ふたたび進出し、山岳支配に挑みましたが、ザイド派イマームと部族の軍事的・宗教的求心力は根強く、行政的統合は困難でした。モカ港の相対的衰退とアデンの台頭は、インド洋海運の重心が新技術と帝国ネットワークへと移行したことを示します。

分割の近代と二つのイエメン:北のイマーム王国と英領アデン、そして統一へ

19世紀前半、イギリスは1839年にアデン港を占領し、給炭港・海軍基地として整備しました。アデンはやがて「直轄植民地」と周辺の内陸首長国群(西部・東部保護領)を束ねる拠点となり、港湾・通信・教育・労働市場がインド洋世界と接続されました。ハドラマウトの商人・労働者は東南アジアへ広く移住し、インドネシアやマレーシアの商業・宗教ネットワークに大きな影響を与えます。

北部では、第一次世界大戦の混乱の中でオスマン帝国が撤退し、1918年、ザイド派のイマーム・ヤフヤーがムタワッキリ王国(北イエメン)を樹立しました。王国は部族との同盟と宗教的権威に依拠しつつ、近代行政の導入に慎重でした。1950年代以降、地域の革命の波が押し寄せ、1962年のクーデターで王制は倒れ、イエメン・アラブ共和国(北イエメン)が成立します。内戦ではエジプトが共和国派を、サウジアラビアなどが王党派を支援し、冷戦構図を背景に長期の消耗戦が続きました。最終的に共和国体制が固まり、サナアーは官僚制と部族・宗教を調停する政治の中心となります。

南側では、英領アデンの周辺で民族運動が高まり、1967年にイギリスが撤退すると、急進勢力の主導でイエメン人民民主共和国(南イエメン)が成立しました。南は社会主義路線を採り、土地改革・女性の権利・教育の拡充などに取り組みましたが、派閥対立と経済基盤の脆弱さに悩まされ、1986年にはアデンで血なまぐさい内紛が発生します。他方、北は石油・ガスの発見(マアリブなど)と移民送金、近隣諸国との関係をてこに、部族と国家の折衝の上に成長を模索しました。

東西冷戦の終盤に、北と南は統一交渉を加速し、1990年5月、イエメン共和国が成立しました。統一憲法は複数政党制や選挙をうたい、サナアーを首都、アデンを経済中心として位置づけました。しかし、旧体制の軍・治安・官僚機構の統合は難航し、資源配分と権限をめぐる緊張は解けません。1994年には内戦が再燃し、北主導の政府が勝利しますが、南部の不満と地域主義は火種として残りました。

統一後の社会・政治・経済と21世紀の危機

統一後のイエメンは、山岳部族・都市商人・南部沿岸・東部砂漠の多様な社会が一国内で折り重なり、国家建設は絶えず調整を要しました。人口増加と水資源の枯渇、カート(カート=覚醒作用のある葉)の広範な栽培・消費による農地・水の逼迫、教育・雇用の不足は、政治的緊張に経済的脆弱性を重ねました。石油・ガスは国家財政の柱になりましたが、生産規模は他の産油国に比べ限られ、価格変動・資源枯渇リスクが常に影を落としました。

2000年代には、北部サアダを拠点とするザイド派の宗教・社会運動(通称フーシー派=アンサール・アッラー)と政府の間で武力衝突が断続的に発生しました。2011年の中東における抗議運動の波はイエメンにも及び、長期政権の移行が進みますが、移行過程の脆弱さと既存権力の温存、軍・部族・政党の利害対立が重なり、2014年以降、首都を含む権力掌握の構図が大きく崩れました。これに隣国の軍事介入や域内諸国の支援・対立が絡み、戦闘は全国的な人道危機へと拡大します。

戦争は医療・教育・水・電力など基本公共サービスを破壊し、食料安全保障は深刻に悪化しました。コレラの大流行や栄養不足は、乳幼児と妊産婦に甚大な影響を与え、都市包囲と港湾封鎖がサプライチェーンを寸断しました。内実は一つの戦争というより、多数の前線と権力中心(サナアー、マアリブ、アデン、ホデイダ、サアダ、タイズなど)が絡み合う「紛争の集積」であり、南部では南部暫定評議会(STC)などの分離主義勢力が台頭しました。さらに、治安空白はアルカーイダ・アラビア半島支部(AQAP)などの過激派の活動空間を拡大させ、対テロ作戦と地方統治の課題が重なっています。

外交・仲介の側面では、国連枠組みや地域仲介で停戦や緊張緩和が図られ、港湾都市ホデイダをめぐる合意、全国的な停戦の試みなど、部分的な前進も見られましたが、恒久的な政治合意にはなお多くの障害があります。国家機構の分裂、通貨二重化、中央銀行の機能不全、歳入の分捕りは、平時への移行を遅らせています。復興は、停戦・治安・制度再建・インフラ復旧・水資源管理・農業再生・教育保健の回復を同時並行で要する総合課題です。

文化と社会の面では、戦時下にあっても無形文化と都市景観の価値は失われていません。サヌアー旧市街の塔状住宅群、シバームの泥煉瓦高層建築、ザビードの学問都市の伝統、ソコトラ島の固有植物相は、地域の多様な歴史層を示します。コーヒーは近代の市場で後退したものの、在来品種とテロワールは再評価の動きもあり、農村の生計回復と結びつく可能性があります。ディアスポラ(とくにハドラミー系)の送金・企業ネットワークは、危機時の生活防衛と復興資金の重要な源であり続けています。

用語上の注意として、史料や地図で「北イエメン」「南イエメン」「英領アデン」「保護領諸首長国」「ザイド派」「シャーフィイー派」「モカ」の使い分けは、時代と文脈で大きく異なります。ザイド派はシーア派の一分派ですが、宗教実践や法解釈、政治文化はイランの十二イマーム派とは大きく異なり、部族社会との契約に基づく政治の要素が強いことが特徴です。また、「モカ・コーヒー」は必ずしも現代の港湾モカからの出荷を意味せず、紅海・アデン湾ルート全体のブランドとして定着した歴史的ラベルである点にも留意が必要です。

総じてイエメンは、海と山、部族と都市、宗教と交易という三つの軸が交差する空間です。古代の灌漑国家からイスラーム期のイマーム制、近代の植民地と王制、冷戦下の二国体制、統一国家と内戦に至るまで、諸制度は変化しても、地形・水と社会組織の連関、インド洋・紅海の回廊としての性格は持続してきました。現在の危機の理解にも、こうした長期的視野が不可欠であり、復興の道筋は地理・社会・宗教の固有条件に根差した制度設計と、地域・国際の多層的な関与の組み合わせにかかっています。