イェリコ – 世界史用語集

イェリコ(Jericho/アラビア語:アリーハー、ヘブライ語:エリーホー)は、ヨルダン川下流のヨルダン渓谷に位置するオアシス都市で、考古遺跡テル・エッスルターン(Tell es-Sultan)を中心に、世界最古級の定住と都市化を示す重層的な地層が知られる場所です。内陸の低地に湧く泉と季節風(モンスーン)の影響を受ける微気候が人の定住を支え、旧石器終末から新石器・青銅器・鉄器・古代から中世・近世に至るまで、周辺の地中海世界とシリア・アラビアの交流を結ぶ結節点として存続してきました。旧約聖書『ヨシュア記』の「エリコの城壁」の物語で著名ですが、同時に近代考古学が史料批判と発掘成果を突き合わせて歴史像を更新してきた象徴的な現場でもあります。

今日の地名としてのイェリコは、古代の主要居住丘(テル・エッスルターン)に隣接する近代都市と、その北方に広がるナツメヤシや柑橘の灌漑農地、さらに西方の荒野へ続くワーディ・ケルト(Wadi Qelt)と修道院群、北方のウマイヤ朝離宮(ヒシャーム宮殿)などの複合体を含む広い地域を指します。海抜は大きくマイナス域にあり、死海盆地の縁辺に位置するため、温暖な冬と酷暑の夏という極端な気候が農業と都市の季節リズムを形づくってきました。泉(エイン・エッスルターン、しばしば「エリシャの泉」と呼ばれる)からの豊かな湧水が、定住の持続を可能にした根源条件です。

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地理・名称と遺跡の基本:オアシス都市とテル・エッスルターン

イェリコはヨルダン川西岸の低地に開けたオアシスで、東西の環境帯が急に切り替わる「縁」で栄えてきました。東へ数キロでヨルダン川・死海の低湿地、西へ登ればユダの荒野からエルサレム高地へ達します。この環境段差は交通・交易・軍事の経路を集中させ、古来より関所・駐屯・交易の機能を併せ持つ町が発達しました。湧水は段々畑や灌漑水路を潤し、ナツメヤシ、ぶどう、野菜などの栽培を支えてきました。

考古学上の「イェリコ」は、主に二つの場所が核となります。第一はテル・エッスルターン(Tell es-Sultan)で、旧石器終末から新石器・青銅器・鉄器時代にかけての居住層が累重する主要な「丘」(テル)です。第二は北方のヒシャーム宮殿(Khirbat al-Mafjar)で、これはウマイヤ朝期の広大な離宮遺跡とモザイクで知られます。さらに、ヘレニズム~ローマ時代の「冬の宮殿群」(ハスモン家・ヘロデ大王の離宮)や、水路・街路の痕跡がワーディ・ケルト周辺に点在します。すなわち、イェリコは単一の「遺跡」ではなく、時代ごとに中心が移動しながら重ね書きされた都市景観なのです。

名称について、日本語では聖書の文脈で「エリコ」が広く用いられますが、英語のジャリコ(Jericho)や、ヘブライ語発音に由来する「イェリホー」、アラビア語の「アリーハー」など複数の音形が併存します。本稿ではご指定の「イェリコ」を基本にしつつ、遺跡・史料に応じて関連呼称も言及します。

先史から青銅器時代:世界最古級の定住と「塔・城壁」の謎

テル・エッスルターンの最下層近くには、ナトゥーフ文化に連なる遅期旧石器~中石器の定住の兆しが確認され、狩猟採集に穀草の集中的利用が加わる「定住化の前段階」を示します。これに続く前陶器新石器時代A(PPNA)層では、住居基盤、石造の塔、石垣状の構造物が検出され、世界史教科書に「世界最古級の城壁都市」として登場する所以となりました。特に注目されるのが直径と高さを備えた巨大な「塔」です。内部に階段を持ち、土石流や洪水から居住地を守る堤防的構造と連動していた可能性が指摘され、純粋な軍事施設というより、居住域の縁を定義する宗教的・共同体的モニュメントの性格も論じられています。

PPNB(前陶器新石器時代B)層では、矩形住居の普及、家屋内の床の再舗装、石膏像(祖先崇拝に関わるとされる頭部像)などが見つかっており、家族単位の定住と共同体の儀礼が緊密に結びついていたことがわかります。農耕と家畜化の進展は、オアシスの水利と相まって人口の安定的増加をもたらし、集落はやがて都市的な規模・機能へと移行します。

青銅器時代(初・中・後期)に入ると、イェリコは城壁と斜面土塁(グラシス)で守られた定住都市として整備され、ヨルダン川東西の交通の要衝として発展しました。初期青銅器末には破壊と一時的衰退の痕跡が見える一方、中期青銅器時代に再建・強化され、厚い城壁と傾斜の外装(傾斜石組み)で防御を固めました。これはシリア・パレスチナの都市国家群に広く見られる防御様式で、地域間競合と交易ルートの制御が都市の生存条件であったことを示します。

後期青銅器時代に関しては、占地の規模縮小や破壊層の年代比定をめぐって学説が分岐してきました。20世紀前半の発掘では、後期青銅器末(おおむね紀元前13~12世紀)に対応する大規模な破壊が「聖書のエリコ陥落」と関連づけられましたが、その後の掘り直しと年代測定では、主要破壊がより早い段階(中期青銅器末)に位置づけられる可能性が高まり、後期には大規模都市ではなかったとする見解が有力になりました。すなわち、「城壁の都市=イェリコ」は時期により規模と性格が大きく異なり、単純に一つの時点に固定できないのです。

『ヨシュア記』の物語と考古学:史料の対話の作法

旧約聖書『ヨシュア記』は、イスラエルの人々がヨルダン川を渡り、角笛と行進によってエリコの城壁が崩れ落ちたと語ります。このドラマティックな物語は長く史実の投影と受け止められ、イェリコの破壊層の年代をめぐる議論を刺激してきました。しかし、近代考古学は、聖書記述をそのまま年代比定の「答え合わせ」に使うのではなく、物質証拠(層位、土器型式、放射性炭素、建築)とテキスト(編纂年代・文学的性格・神学的意図)をそれぞれの基準で読み分ける姿勢を確立しました。

発掘史を簡潔にまとめると、20世紀前半の調査は、後期青銅器時代末に対応する破壊を「エリコ陥落」と関連づける解釈を提起しました。これに対し、20世紀中葉の精密な層位学的掘削は、主要破壊を中期青銅器末へ下げ、後期青銅器期の占地は限定的だったと結論づけました。のちの年代測定の洗い直しも、細部に議論を残しつつ、この方向を支持する傾向が強いと言えます。結果として、「聖書物語との一対一対応」は成立しにくく、むしろ物語が民族共同体の記憶とアイデンティティ形成の文書であること、イェリコという地名が「境界を越える入門の地」として象徴的意味を帯びたことが強調されるようになりました。

この過程は、考古学とテキスト学の協働の教科書的事例です。物語の歴史的核を探る試みは続きますが、それは「崩落した壁を見つけること」に還元されません。むしろ、地名の記憶、儀礼空間、境界越えの象徴、都市の興亡の周期性といった複合的主題に展開し、イェリコは「一つの事件」以上の広がりを持つ歴史対象として理解されるに至りました。

古代から近現代へ:ヘレニズム・ローマ・ビザンツ、イスラーム期、そして現代

ヘレニズム以降、イェリコの中心はテルからやや移動し、ワーディ・ケルト沿いの平地に冬の宮殿や水路が整備されました。ハスモン朝の支配者たちはナツメヤシや香料植物(バルサム)で財政基盤を固め、ヘロデ大王は豪奢な冬の離宮群、競技場、浴場、アクアダクトを築いてイェリコを冬季の政治・社交の舞台としました。クレオパトラとアントニウスの政治劇に絡む形で、バルサム園の所有権が争われたことも記録に残ります。ローマ期・ビザンツ期には修道運動が荒野地帯に広がり、ワーディ・ケルトの断崖には聖ゲオルギウス修道院などが成立しました。

ウマイヤ朝期(8世紀)には、テル北方にヒシャーム宮殿(Khirbat al-Mafjar)が建設されます。幾何学・葡萄唐草・狩猟図といった繊細なモザイク、スタッコ装飾、浴場・式場を備えた広大な離宮は、イスラーム初期美術の代表作として知られます。地震などで短命に終わった可能性が指摘されますが、その芸術的価値は極めて高く、砂漠の宮殿文化(クサイル・アムラなど)と並んで、朝廷の表象政治を物語ります。

中世以降、イェリコは地域交通の要衝としての地位を保ちつつ、周辺都市(エルサレム、ナーブルス、ヘブロン)に比べ政治中枢としての比重は相対的に小さくなります。十字軍・アイユーブ朝・マムルーク朝・オスマン朝の支配のもと、オアシス農業と巡礼・交易の宿駅としての機能が続き、19世紀には旅行記や地誌に繰り返し描写されました。オスマン末期から委任統治期にかけて道路が改良され、エルサレムとの往来が容易になります。

20世紀の政治史の中で、イェリコは幾度かの転機に立ち会います。中東戦争後、地域秩序の再編の中で行政の帰属が変化し、1990年代には暫定的な自治の出発点の一つとして注目を集めました。近年の都市は農業(ナツメヤシ、柑橘、野菜)と観光(修道院、ヒシャーム宮殿、荒野ハイキング、ロープウェーで行く「誘惑の山」の修道院など)を柱としつつ、水資源の管理、気候変動下の農法、交通・観光の調整といった課題に直面しています。遺跡の保存・展示も進み、テル・エッスルターンの先史遺構やヒシャーム宮殿の大モザイクは、学術と観光を結ぶ文化資本として再評価されています。

都市景観のもう一つの軸は、宗教伝統と物語の重なりです。イェリコはユダヤ教・キリスト教・イスラームそれぞれの物語に登場し、巡礼と観光の動線が重なります。『ルカ福音書』のザアカイ物語や「善きサマリア人」の舞台設定、『列王記』の「エリシャの泉」の伝承など、テキストが地名に物語の層を重ね、場の意味を豊かにしてきました。これらは歴史の事実と区別されつつも、都市の記憶とアイデンティティを形づくる重要な要素です。

最後に用語と史料に関する注意を添えます。第一に、「イェリコ(エリコ)」という地名は、時代により指す中心が変わります。先史・青銅器時代の主要居住はテル・エッスルターンであり、ヘレニズム以降の宮殿や修道院はワーディ・ケルト沿いへ広がります。第二に、「城壁」の語はPPNAの石垣/堤防的施設、青銅器の都市防御、聖書の比喩的表現を区別して用いる必要があります。第三に、発掘史は調査法の進歩とともに解釈が更新されており、年代比定は「確定解」ではなく推定幅を伴うことが通例です。都市の歴史を立体的に捉えるためには、自然環境(水・地形)、考古学、テキスト、近現代史を重ね合わせて読む視点が有効です。