国共合作(第2次) – 世界史用語集

第2次国共合作(1937〜1945年)は、抗日戦争(全面戦争)期に中国国民党と中国共産党が「内戦を停止して一致抗日」を掲げて結んだ協力体制を指します。直接の転機は張学良・楊虎城が蔣介石に抗日同盟を迫った西安事件(1936年)で、盧溝橋事件(1937年7月)後に全面戦争へ拡大すると、両党はソ連や国内世論の圧力も受けて提携を公にしました。名目上、共産党の紅軍は国民政府軍に編入されて第八路軍・新四軍に改編され、戦区配属と軍餉支給の枠内で日本軍と戦いました。他方で、政治・軍事・統治の各分野では深い不信が残り、戦中を通じて協力と対立が併走しました。連合作用としては、前線での抗戦力の増強、占領地背後に広がった抗日根拠地の形成、外交面の対外正当性の強化などが挙げられます。逆作用としては、兵站や作戦指揮を巡る軋轢、宣伝・政権競争の激化、1941年の皖南事変(新四軍事件)に象徴される流血的衝突があり、終戦と同時に内戦へ再転化する伏線となりました。本稿では、成立の背景、体制と運用、協力と衝突の実相、そして遺産と限界の四点から、わかりやすく整理します。

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成立の背景――西安事件から全面抗戦へ

第1次国共合作の崩壊(1927)以後、中国は国民政府の名の下で形式的な統一を進めつつ、地方軍閥の自立と共産党勢力との内戦が続いていました。1931年の満州事変、1932年の第一次上海事変など、日本の軍事的圧力は段階的に強まり、華北分離工作や鉄道・鉱山利権の拡大によって主権の侵食が進みます。国内世論では「攘外必先安内(外患を攘うには内を安んずべし)」のスローガンに対する反発が強まり、学生運動・知識人・商工業者の間で抗日・団結の声が高まっていきました。

1935年以降、共産党はコミンテルンの人民戦線路線と国内事情に合わせて方針を大きく転換し、全国的抗日民族統一戦線(統一戦線)を提唱します。長征を経て陝北に到達した党中央は、土地革命の急進化を抑え、民族統一を優先する柔軟路線を打ち出しました。こうした潮流のなかで、1936年12月、西安で張学良・楊虎城が蔣介石に対し内戦停止・抗日を迫る事件が起きます。調停の結果、蔣は釈放され、〈停戦・団結〉の政治宣言が発せられ、両党協力の政治的地平が開けました。

1937年7月の盧溝橋事件を契機に日中戦争は全面化し、華北・華中で大規模戦闘が連鎖します。国際社会の注視と国内の愛国世論の高まりを受け、国民政府は共産党に合法活動の枠を与え、共産党は紅軍を国民革命軍に編入して抗戦に参加する道を選びました。ここに第2次国共合作が成立しますが、これは〈政党間の包括同盟〉というより、〈国民政府の名義下に共産軍を編制上包摂した限定協力〉という性格が強かったと言えます。

体制の骨格と運用――第八路軍・新四軍、統一戦線の政治・統治

軍事面では、紅軍主力は第八路軍(司令・朱徳、副司令・彭徳懐、政治部主任・任弼時等)として華北戦線に配属され、太行山脈・華北平原を拠点にゲリラ戦・遊撃戦を展開しました。さらに、長江以南に展開していた游撃部隊は新四軍(軍長・葉挺、副軍長・項英、政治部・劉少奇ら)として編成され、江蘇・安徽・浙江・江西の広域で鉄道破壊・交通遮断・徴発妨害などの対敵活動を行いました。名目上は国民政府の軍餉を受給し、作戦協同の命令系統に組み込まれましたが、実際には各戦区司令部との連絡・補給・軍政権限をめぐって摩擦が絶えませんでした。

共産党は〈敵後方〉に抗日根拠地(抗日根拠地政権)を造成し、陝甘寧辺区(延安)を中枢に、晋察冀・晋冀魯豫・山東・華中など各地に根拠地を広げました。ここでは「三三制」(共産党員・非党の左派・中間層をそれぞれ3割程度で配する)と呼ばれる連合政権の原則が掲げられ、減租減息、簡素な司法、識字教育、民兵組織の整備が進められました。軍政一体の運営は、住民動員と治安維持、兵站確保の基盤となり、敵中に島状に広がる〈抗日社会〉を成立させます。

国民政府側でも、全国的抗戦体制が敷かれ、戦区制度・徴兵・税制・通貨政策・後方工作が総動員で進められました。政治面では、国民参政会(人民代表会議に相当する諮問機関)を設け、諸党派・専門家・華僑の代表を招いて戦時政治の正統性を演出します。蔣介石は三民主義の再解釈を進め、民族・民権・民生を抗戦と建設に結びつける〈新生活運動〉などの道徳政治と並走させました。こうした〈公式の国家体制〉と、〈敵後方の統一戦線政権〉が同時に進んだ点が、第2次合作の制度的二重性です。

宣伝・外交では、両党ともに国際的同情を得るために協調・競争を織り交ぜました。ソ連援助や国際義勇航空隊(飛虎隊は米支援の別線)との連携、報道記者・作家の取材招待、写真や映画による抗戦の可視化は、連合国に対する対外イメージ向上に寄与しました。延安には「ディキシー・ミッション」と呼ばれる米軍連絡団(1944)も訪れ、共産党の統治と戦力に対する一定の評価を伝えることになります。

協力と対立の実相――百団大戦、封鎖・政争、皖南事変

戦闘面での象徴的な協力(あるいは存在感の誇示)が、1940年の「百団大戦」です。第八路軍が華北で多数の縦隊を動員し、鉄道・橋梁・鉱山・倉庫など日本軍の戦線維持施設に対して大規模破壊を行った一連の作戦は、華北の抗日運動に士気を与える一方、日本側の報復(「三光」的掃蕩)を誘発し、民生被害と兵站困難を深刻化させました。国民政府は無断の大規模作戦が政治的に不利だと批判し、以後、八路軍への資金・軍需の配分や人員移動に制約を強めます。

戦局が長期化するほど、両党の「戦後」をめぐる競争は露骨になります。国民政府は共産党根拠地を「囲堵」し、交通封鎖・糧秣遮断・武装衝突の管理強化で圧力をかけます。共産党は宣伝と統一戦線工作で中間勢力の取り込みを進め、整風運動(1942〜)で党内の思想統一と組織規律を強化しました。延安の整風は、軍政・宣伝・幹部教育の制度化を進め、のちの内戦と建国期の統治能力を下支えします。

最も深刻な破断点が、1941年1月の皖南事変(新四軍事件)です。長江下流域での新四軍の移動をめぐり、停戦協定・命令解釈の齟齬と相互不信が爆発し、国民政府軍は新四軍主力を包囲・攻撃しました。軍長葉挺は捕縛(のち死亡)、副軍長項英は混乱のなかで戦死し、新四軍は大打撃を受けます。共産党は強く抗議し、全国に弾劾運動を展開、以後、名目上の連帯は保たれつつも、実質的な軍事協同は極端に限定されました。皖南事変は、〈抗戦の大義〉と〈政権間の権力闘争〉が両立できない地点に達したことを刻印する事件でした。

それでも、前線の局地では便宜的な協同や停戦も繰り返されました。日本軍の攻勢・治安強化策が強まる局面では、地方官・游撃隊・保安隊と八路・新四軍の間で、村落保全や住民避難をめぐる現実的な連携が見られます。合作は一枚岩ではなく、中央の政争と地方の実務が常に必ずしも一致しない「多層の現実」を伴っていました。

遺産と限界――抗日勝利と内戦再燃のはざまで

1945年、日本の降伏により抗日戦争は終結します。第2次国共合作の遺産として、第一に挙げられるのは〈抗日戦の正統性〉です。両党はそれぞれに貢献を誇りましたが、少なくとも国内外に対して「中国は抵抗を継続し、連合国の一員として勝利した」という物語を共有できました。第二に、〈組織と統治の進化〉です。国民政府は全国規模の動員・外交・財政の手続きを経験し、共産党は根拠地統治と群衆動員・軍政一体運営の技術を飛躍的に高めました。延安の学校・幹部訓練、新聞・ラジオ・演劇を通じた宣伝技法、兵站の自給化、民兵・政法機構の整備は、戦後の勢力拡大に直結します。

一方、限界も明白でした。合作は〈目的限定の便宜的協力〉であり、国家建設をめぐる根本的合意には到達しませんでした。国民政府側の官僚主義・腐敗・徴発の苛烈さ、共産党側の独自拠点拡大と宣伝戦、双方の相互不信が、戦時の犠牲を共有する連帯を侵食しました。終戦直後、接収と治安・鉄道・都市の掌握をめぐって双方は競争を早々に再開し、米英ソの仲介は実質的な停戦・政治協商に結びつきませんでした。結果として、1946年には全面内戦へと転落し、合作の記憶はすぐに内戦の記憶に上書きされていきます。

歴史的に見れば、第2次国共合作は、対外侵略に対抗するために宿敵同士が〈最小限の信頼〉で肩を並べた希有な瞬間でした。戦後の帰趨がどうであれ、この時期に形成された抗日根拠地の社会経験、統一戦線の運営、軍政・宣伝・外交の総合的技法は、中国の国家と社会が20世紀後半に歩む軌道に深い影を投げかけています。合作は長続きしませんでしたが、そのあいだに蓄えられた制度・人材・記憶の層は、のちの対立の形と結果を決める「見えない素地」になりました。すなわち、〈一致抗日の物語〉と〈政権競争の現実〉を同時に抱え込んだ体験そのものが、第2次国共合作の最も重要な遺産だったのです。