貢納 – 世界史用語集

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定義・用語の射程――「貢」と「納」が意味するもの

貢納(こうのう)とは、本来は上位権力に対して物品や労役を差し出す行為一般を指し、広義には朝廷・王権・為政者へ献上する「貢」と、租税・役務を受納機関へ納める「納」を合わせた概念です。狭義では、国家・領主が住民や下位共同体から徴収する現物中心の負担(米・布・塩・金銀・地方特産物・労役など)を意味し、貨幣納税が普及する以前の社会における基本的な徴収様式でした。対外関係における「朝貢(外交儀礼としての貢)」と、国内財政の「貢納(課税としての貢納)」は区別されますが、いずれも権威・支配の可視化という共通の機能を持ちます。

貢納は、貨幣経済の発達度、運送・保管コスト、市場価格の変動、徴税機構の整備状況によって形を変えます。現物納は、課税と同時に国家・領主の物資調達手段であり、軍需・祭祀・宮廷消費・公共工事の資材供給を直接に支えました。他方、物納は「品質の恣意」「中間搾取」「輸送の非効率」という制度的弱点を抱え、近世以降は貨幣納や定額化(折納・折衝)への改革が進みます。

中国史における貢納――租庸調から一条鞭法・地丁銀へ

中国では、古代から中世にかけて、国家財政の柱は土地に付随した戸口・籍帳に基づく現物・労役の徴収でした。隋・唐の均田制と結びついた租庸調は、耕地面積に応じた穀物(租)、布帛(調)、労役(庸=本来は労役、のち多くは代替の布・銭)を課す典型的な貢納体系です。運河網の整備は、江南からの米・絹の漕運を可能にし、京畿の軍事・都市消費を支えました。

宋代は貨幣経済の進展により、徴収の銭納化が進み、物資調達は市場購入との併用へ移行します。とはいえ、軍需の塩・鉄・茶や地方特産の調達には現物貢納の性格が残りました。明代には、里甲制と連動した地域割当の貢輸・徭役が過重化し、労役・特産物の差役・派買(供出割当)が腐敗と中間搾取を生みます。そこで明末に実施された一条鞭法は、雑多な貢納・差役を銀納へ統合し、賦役を貨幣で一括納付させる大改革でした。清代にはさらに地丁銀(人丁銀の地銀への編入)が進み、身役要素の縮小と貨幣納税の一般化が確立します。

もっとも、完全な貨幣化は達成されず、軍糧や工部の材料供給などでは「官買」「官需」として現物調達が続きました。江南・四川などでは、郷紳・保正が水利・社倉・義倉を通じて貢納の実務(集荷・保管・運送)を担い、国家と地域社会の媒介を果たしました。近代財政の整備とともに、貢納は「税金(地税・厘金など)」へ概念的に置き換えられていきます。

朝鮮王朝の貢納(公納)と大同法――三政の一角から米納の統一へ

朝鮮王朝(李氏朝鮮)では、租税・軍役・貢納を合わせて三政と呼びました。このうち貢納(공납)は、地方の住民がその地域の特産物(布、紙、魚乾、蜂蜜、漆、金属器など)や工芸品を国家に納める制度で、中央機関の需要や宮廷・官庁の消費を直接充当する性格が強かったのが特徴です。しかし、たびたび過重な割当と中間層の不正が問題となりました。地方官や役所が仲介する過程で上納品の規格・数量・運賃を口実に住民負担が膨らみ、物品の買上げ(貢価)に関わる差益が横行したのです。

17世紀以降、これを是正するために各地で提唱・実施されたのが大同法(テドンボプ)です。大同法は、地域特産の雑多な貢納品目を廃し、米(のち銭)による定額納入へ一本化する改革で、まず慶尚道や京畿道から施行され、18世紀に全国へ拡大しました。これにより住民は市場で自由に売買して納税資金を確保でき、貢納物の品質検査や運搬に伴う恣意は大幅に減じられました。他方、米・銭納への移行は、地方市場の発達、農業商品化、商人資本(貢人・公人)の役割変化を促し、国家財政の透明性も一定程度向上しました。

とはいえ、大同法後も輸送・倉入れ・保管に伴う費用や、米価変動のリスクがあり、納税者と国家の間で負担転嫁をめぐる交渉が継続します。朝鮮史における貢納は、物納から米納・銭納への連続的移行、すなわち制度の簡素化と市場依存の高まりとして理解されます。

日本史における貢納――律令の租庸調から年貢・運上・貢物へ

日本でも、奈良・平安期の律令制下で租庸調が課され、租(稲の物納)、庸(労役・布での代納)、調(絹・布・地方特産の物納)が行われました。これらは典型的な国家的貢納であり、中央の正倉院・国衙倉へ集積され、宮廷・官衙・軍事・寺社の需要に充てられます。中世以降、荘園・公領の支配が進むと、年貢(米中心)・公事(銭・物)・夫役が領主への負担として制度化し、名主・惣村が徴収・運送の実務を担いました。「貢納」という語は文書上、「貢物」「貢進」としてもしばしば現れ、寺社・権門への献納品を指すこともあります。

近世(江戸時代)には、石高に基づく年貢米が幕藩財政の基軸となりました。流通の発展により、年貢のうち一部は銭納・蔵米売払が併用され、蔵屋敷・市場を通じて現金化されます。輸送・集荷を担う商人(回船・問屋)は、年貢の市場化に不可欠となり、米相場の形成・金融の発達を促しました。明治国家は統一的な地租改正によって金納の地租へと転換し、古い意味での貢納は近代税制へ吸収されます。

機能・問題・改革――なぜ物納は嫌われ、どう乗り越えられたか

貢納の機能は、(1)国家・領主の物資調達、(2)支配の可視化(献上儀礼・上納の所作)、(3)地域分業の動員にありました。特産物の貢納は、地域の技術・資源を国家需要に組み込む一方、統治秩序への参加儀礼でもありました。しかし、物納はしばしば過大な輸送・検査コストを生み、品質査定の恣意や中間業者の介在(小役人・商人の差益)で納税者の負担が不透明化します。加えて、価格変動により、同じ品目でも年ごとに実質負担が大きく変わりました。

これらの問題に対する歴史的な解法が、貨幣化・定額化・一元化です。中国の一条鞭法・地丁銀、朝鮮の大同法、日本の地租改正はいずれも、雑多な貢納を金(銀・米)に換算して定額化し、徴収・会計・保管のコストを削減しました。その帰結として、国家は必要物資を市場から購買する仕組みに転じ、徴税と官需調達の分離が進みます。同時に、倉庫・市場・運送網・金融(為替・手形)などの制度インフラが整備され、租税の透明性・予見可能性が高まりました。

ただし、貨幣化は市場への依存を高め、凶作時の米価高騰や銀価の変動が歳入を直撃するという脆弱性も伴います。そのため、各時代の政府は、価格安定策(備荒倉・社倉・義倉、買い上げ・放出、専売制)、納税猶予や減免の仕組みを併用して、貢納の負担を平準化しようと努めました。

比較と今日的意義――「税と物資」の原点としての貢納

貢納は、財政制度が成熟する以前の社会における「税と物資」の原点でした。現物納は非効率である一方、貨幣流通が未発達な地域でも徴収可能で、物資供給を即時に確保できる利点がありました。近代以降、貢納は制度としては縮小しましたが、軍需・災害時の物資供出、現物補助(フードスタンプに類する仕組み)などにその痕跡を留めます。歴史的経験は、徴税の簡素性・透明性、物資調達と財政の分離、価格変動への備えという、今日の公共財政にも通じる教訓を提供します。

総じて、貢納は、支配と市場の交差点に位置する制度でした。国家は貢納を通じて統治の手を社会の隅々まで伸ばし、社会は貢納を通じて国家に資源と労力を提供しつつ、交渉・抵抗・適応を重ねました。物納から金納へ、分散から一元へという長い転換の背後には、輸送・保管・会計という実務課題と、正統性・公平性という政治課題が常に横たわっていたのです。貢納を学ぶことは、税と公共調達の歴史を理解する近道であり、今日の制度設計にも示唆を与えてくれます。