交子 – 世界史用語集

交子(こうし/Jiaozi)は、宋代の四川地方で誕生した世界的にも最初期の本格的な紙幣です。大量で重い鉄銭の持ち運びや遠隔地送金の不便を解決するために、当初は地元の商人団体が預かり証・引換券として発行し、のちに宋政府が交子務(こうしむ)という官署を設けて公的に管理しました。一定の有効期限や兌換制度、発行限度、担保資産を備え、民間取引から税の納付にまで用いられました。便利さゆえに急速に普及した一方、過度の発行や財政赤字との結びつきが物価上昇を招き、改革や別種の紙幣(会子・銭引)への移行を促すことになります。交子は、貨幣の歴史における「信用を紙に移す」発想の実験であり、のちの世界の銀行券・為替・小切手の先駆けとして位置づけられます。

仕組みの要点は、(1)民間の預り・決済サービスから始まったこと、(2)政府がリスク管理と発行統制を制度化したこと、(3)期限・兌換・準備金という現代的な通貨管理の原型が見られることです。四川は鉄銭が主流で、同額の銅銭に比べて容積も重量も大きく、商人や納税者は輸送コストに苦しんでいました。交子はこの病を一気に解消し、都市経済と広域商業を加速しました。しかし、便利さが逆に「紙の増刷」への誘惑を生み、対外戦争や財政難と絡み合うと、発行規律の維持は難題になりました。以下では、交子の起源と背景、制度の仕組みと運用、経済・社会への影響、そして課題と終焉までを具体的に説明します。

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起源と登場の背景――鉄銭経済の制約と商人の工夫

交子のふるさとは、宋代前期の四川、特に成都を中心とした経済圏です。この地域では、国家の銅資源制約や地場の事情から鉄銭の鋳造が盛んでした。鉄銭は製造が容易で供給量を確保しやすい反面、比重が高くかさばるため、大口決済や遠距離輸送には致命的な不便が伴いました。商人は市場での大規模な取引や税納付のたびに、多量の鉄銭を駄獣や舟で運ぶ必要があり、盗難や輸送費、時間損失が深刻な負担になっていたのです。

こうした事情から、10世紀末ごろ、成都の有力商人や両替業者が、預かった現金(主に鉄銭)に対して「受取証」を発行し、同じ団体内の加盟店であれば証票の提示で決済や現金引き出しができる仕組みを作りました。これが民間交子の始まりとされます。発行体は互いに信用を担保し合い、加盟店の看板や印章が信頼の目印となりました。利用者は、現金を大量に運ばずに済み、遠隔地でも紙片一枚で支払いが可能になりました。今日でいう商人ギルド型の手形交換・決済ネットワークが、すでに芽生えていたのです。

人気の高まりとともに、民間発行は過熱し、質の低い発行体や偽造票の流通、引き出し不能といったトラブルも発生しました。国家もまた、税の納付・軍需調達・塩や茶の専売といった実務において、効率の高い決済手段を必要としていました。こうして、政府が関与して制度化する条件が整っていきます。

制度の仕組みと運用――交子務・発行限度・兌換と有効期限

宋政府は、天禧元年(1023年)ごろ、成都に「交子務」という官署を置き、交子の発行・兌換・監督を引き受けました。これは、民間の便利さを取り込みつつ、公的な規律を与える試みでした。交子は額面を刻んだ木版印刷の紙券で、複数の額面(例:一貫・五貫・十貫など)が設定され、券面には官印や防偽の模様が刷られました。発行時には手数料が課され、旧券の回収と新券の発行を定期的に行う「改交」という更新手続きが設けられました。

交子には有効期限があり、通常は数年単位(たとえば二~三年)で失効する設計でした。有効期限の設定は、旧券の滞留や偽造の蔓延を防ぎ、準備金とのバランスを取りやすくするためです。兌換は、指定の窓口で鉄銭(地域によっては銅銭)と交換できる仕組みで、発行額に対して一定の準備金(準備銭)を保有することが制度上の前提でした。さらに、塩・茶・酒などの専売収入や各種税収を担保とすることで、「紙の価値」を裏打ちしました。

発行限度は、地域の貨幣需要と準備金の量をもとに、官が定めました。これは、過度の紙幣流通による物価上昇を避けるためのブレーキです。地方財政の収入が増え、商業活動が活発なときは限度枠を広げる余地がありましたが、戦費や歳出が膨らむと、限度を超えた増刷の誘惑が高まりました。この点は、後述する交子の最大のリスクにつながっていきます。

技術面では、木版の多色刷りや複雑な文様、特殊紙の使用など、偽造防止の工夫が凝らされました。券面には発行期・額面・使用上の注意が記され、裏書や裁断による再使用の痕跡が残るものもあります。決済の現場では、商家同士の相殺や割引、遠隔地への送金のための「飛銭」的な手配も組み合わされ、交子は単なる現金代替を越えた、多目的の信用媒体として機能しました。

なお、交子は当初、四川という限定された経済圏内での利用を前提にしていました。地域限定であったのは、準備金・兌換拠点・価格体系が四川の市場条件に合わせて設計されていたからです。したがって、全国通用の統一紙幣というより、特定地域に最適化された決済インフラだったと言えます。のちに南宋で発行された「会子」は、より広域の使用を志向し、制度設計もやや異なるものになりました。

経済と社会への影響――都市の商業加速、税制と国家財政、信頼の文化

交子の普及は、都市の商業活動を大きく加速させました。重い鉄銭の輸送が不要になり、商人は資金回転を速め、大口取引や長距離取引に伴うコストと危険を減らせました。市場の厚みが増すと、価格の裁定や季節間の在庫移動がスムーズになり、成都は周辺の農産物・塩・茶・織物・工芸品の集散地として繁栄します。宿駅や運送、保管、保険的な役割を担う業種も発達し、都市の職能分化が進みました。

税制上も、交子は新しい可能性を開きました。国家は、税や専売代金の一部を交子で受け取り、財の調達を迅速化できます。現金主義のもとでは起こりがちな滞納や輸送損失が減り、会計の平準化が進みます。さらに、交子の発行によって短期的に「財源」を得ることも可能でした。すなわち、交子を発行し、手数料収入や納税・購入に充てさせることで、財務の弾力性を得るのです。ただし、この「便利さ」は、規律の喪失に直結する危うさも孕んでいました。

交子はまた、「契約と信用」の文化を育てました。紙券の価値は、最終的には国家の兌換約束と、市場参加者の相互信頼に依拠しています。商人は券面の真偽を見極め、割引率(ディスカウント)を通じて信用リスクを価格に織り込みました。これにより、情報の流通や商取引の文書化が進み、帳簿・印判・保証といった実務の水準が高まりました。ある意味で、交子は「紙の約束が社会を動かす」という金融化の小さな原点でもあります。

社会的側面では、決済の効率化が市民生活にも及びました。賃金や仕入れ、地代や税の支払いが軽くなり、現金の保持量が減少します。盗難や強奪のリスクも下がりました。一方、紙幣価値の変動は、固定所得者や小商人にとって不安の種となり、割引率の上昇や兌換停止の噂は、瞬時に市場を冷やしました。信用の維持が「公共財」であることを、人々は経験を通じて学ぶことになります。

課題と終焉――増刷・インフレ・制度の置換

交子の最大の弱点は、政治・財政の事情が発行規律を揺るがした点にありました。対外戦争や治水・飢饉対策で歳出が膨らむと、政府は容易に追加発行へ傾きます。準備金や税収担保の裏付けを超えて紙券が市場に溢れると、割引率が上昇し、物価が上がり、兌換要求が殺到します。兌換が滞れば、信用は急速に失われます。これを食い止めるため、回収と新発を組み合わせる「改交」、発行限度の再設定、担保収入の増強などの対策が試みられましたが、根本的には財政健全化が伴わなければ効果は限定的でした。

制度上の是正として、交子に代わる別種の紙券が導入される局面もありました。北宋末から南宋期にかけて、四川では「銭引(せんいん)」が用いられ、江南ではより広域に通用する「会子(かいし)」が整備されます。これらは、発行母体・兌換の対象資産・有効期限・地域制限などを調整し、交子の経験で浮かび上がった脆弱性を補おうとした制度でした。とりわけ会子は、南宋の海上貿易や税収構造に合わせた決済手段として発展し、紙幣制度が地域ごとの事情に応じて多様化する契機となりました。

最終的に交子は、制度の置換と金融環境の変化の中で、その役割を終えていきます。しかし、その遺産は消えませんでした。民間の創意から出発し、国家が制度化し、信用と監督のバランスを探るという交子の経験は、のちの元代の交鈔、明清の票号・銀号、近代の銀行券へとさまざまな形で受け継がれていきます。紙片に価値を宿らせるという大胆な発想と、それを支える制度の難しさ――その両方を、交子は歴史の早い段階で体現していたのです。

ふり返ると、交子は技術(印刷・製紙)と制度(発行・兌換・監督)、経済(商業発展と税財政)の交点に生まれた、時代の要請への応答でした。地方の貨幣事情という具体的な課題から出発し、やがて国家レベルの金融政策に接続していくプロセスは、現代の地域通貨やデジタル決済の議論にも通じる示唆を与えます。便利さと規律、分権と統制、信用と担保――交子の物語は、貨幣が「社会の合意」であることを、千年前の中国がすでに見事に証明していたことを教えてくれます。