第1次国共合作(1924〜1927年)は、中国国民党(孫文の国民党)と中国共産党が、軍閥打倒と反帝国主義を共通目標に一時的に協力した政治同盟を指します。ソ連の支援とコミンテルンの助言を受けて、国民党が組織を再編し、共産党員が個人資格で国民党に参加する「党内合作」という形式を採用しました。広州(広東)を根拠地に黄埔軍官学校を設立し、軍・政・党・群衆運動を一体化する体制を整えた結果、労働運動・農民運動・学生運動が全国で高揚し、1926年からの北伐で軍閥勢力は大きく後退しました。しかし、運動の急進化と利害の衝突、国民党内の右派・左派対立、さらに外国資本や列強租界をめぐる緊張が重なり、1927年の上海クーデタ(四・一二事件)と武漢分裂を契機に合作は崩壊します。その後、南昌起義・秋収起義・広州蜂起などの武装行動が相次ぎ、内戦の時代へ移行しました。本稿では、成立の背景と仕組み、運動の展開と黄埔の役割、北伐と破綻、そしてその後に残された制度と人材の連続という視点から、できるだけ平易に叙述します。
背景と成立――軍閥割拠・反帝国主義・ソ連の仲介
清朝崩壊後の中国は、袁世凱の死(1916)を境に軍閥が各地で割拠し、政権は北京政府と地方勢力の力学で動いていました。関税自主権の欠如、治外法権、租界と租借地、列強の財政・鉄道利権など、半植民地的な構造が都市と沿岸に深く根を下ろし、国内の政治的主導権を制約していました。これに対して、孫文は「民族・民権・民生」の三民主義を掲げ、広東に革命政権(広州国民政府)を樹立して統一の拠点化を図りますが、軍事力と組織力が不足していました。
第一次世界大戦後、ソ連は世界革命と民族解放の結合を重視し、中国に対しては帝政ロシアの不平等条約の放棄を打ち出すなど、友好の姿勢を示しました。コミンテルンはミハイル・ボロディンらの代表を広東に派遣し、国民党の近代政党化(支部網・党紀・宣伝・青年団の整備)と軍事建設(幹部学校と政治工作)を助言します。ここで採られた方式が「ブロック・ウィズイン(党内合作)」で、共産党員は国民党へ個人として加入しつつ、自党の組織も維持するという二重の枠組みでした。
1924年1月、国民党第1回全国代表大会が開かれ、「連ソ・容共・扶助工農」を掲げる新綱領が採択されます。これは、列強に対抗するための連携(連ソ)、共産党員・左派勢力との協力(容共)、都市労働者と農民運動の支援(扶助工農)を正面から肯定する宣言でした。孫文は、民族独立のために社会勢力の広範な動員が不可欠だと判断し、党の中央集権化と政治訓練の強化を進めます。
組織の再編と群衆運動――黄埔軍官学校・労農運動・反帝デモ
新体制の象徴が、1924年に広州・長洲島で開設された黄埔軍官学校(校長・蔣介石、政治部主任・廖仲愷→周恩来ら)でした。同校は軍事教練に加えて政治教育を重視し、軍と党の関係、軍紀・民衆工作、宣伝・組織の技法を教えました。教官と顧問にはソ連軍事団が参加し、武器も対外援助で整えられます。ここで育った「黄埔一期」以降の将校たちは、のちの国民党軍の骨格であり、同時に共産党側にも多くの政治工作の人材を供給しました。
都市では、労働組合の成立とストライキ運動が急速に広がりました。1925年の五・三〇運動(上海での労働者・学生への発砲事件を契機に全国へ拡大した反帝国主義運動)を経て、広東・香港では長期にわたる省港大罷工(香港・広州大スト、1925〜26)が実施され、港湾・交通・工場の操業が大きく停滞しました。これらの運動は、国民党左派と共産党の影響下で、反帝・反軍閥のスローガンを掲げ、群衆動員の新しい地平を開きます。
農村でも、農民協会の結成と減租・廟産興学・治安自衛の運動が広がりました。湖南・湖北・江西などでは、農民の夜学や講習会を通じて識字と政治教育が進み、郷紳・地主秩序に挑戦する動きが現れます。共産党の活動家は「土地問題」を前面に出し、国民党左派は秩序維持と動員拡大のバランスを模索しました。農村の政治化は、北伐の後方基盤を強化する一方、地主層を支持基盤とする右派の反発を強め、党内対立の火種となりました。
党組織面では、国民党は支部・区分部・県党部・省党部という階層的ネットワークを整え、宣伝部・組織部・青年部・婦女部などの機構を整備します。共産党員はこれらの機構で実務を担い、工農運動と軍事をつなぐ橋渡しを行いました。ボロディンの助言により、党大会・中央執行委員会・政治局に相当する意思決定体制も整えられ、党紀違反には処分を科す規律が導入されます。
北伐と協力の破綻――中山艦事件、四・一二、武漢政府の誕生と分裂
1925年に孫文が逝去すると、後継をめぐる国民党内の均衡は難しさを増します。広東政府は軍備を整え、1926年夏、蔣介石が総司令として北伐を開始しました。国民革命軍は湖南・湖北・江西へ進出し、呉佩孚・孫伝芳らの軍閥を圧迫します。沿道の労働者・農民は「打倒軍閥・除列強」の旗の下で蜂起し、鉄道・港湾のストや農民自衛軍が軍事行動を支援しました。黄埔出身将校は前線で指揮を執り、政治工作隊は占領地で治安と宣伝を担います。
しかし、協力関係の内部には亀裂が広がっていました。1926年3月の「中山艦事件」では、広州で蔣介石が共産党とソ連顧問の陰謀を理由に軍事的措置を断行し、左派の影響力を削ぐ動きを見せます。これは、軍の指揮権と党の統制、群衆運動の度合いをめぐる権力闘争の表面化でした。北伐が長江流域に達すると、上海・武漢・南京の労働者蜂起と外国租界の存在が絡み、外交的緊張が一気に高まります。
1927年4月、蔣介石は上海で労働運動の武装部隊や左派勢力を武力で弾圧し、多数の逮捕・処刑が行われました(四・一二事件、上海クーデタ)。これにより、国民党右派(南京国民政府)と、汪兆銘らが主導する左派(武漢国民政府)が分裂し、国共合作は実質的に崩壊します。武漢政府も、群衆運動の過激化と軍紀の弛緩、ソ連との関係調整に苦しみ、同年夏には共産党員の排除へと傾斜していきました。
合作崩壊後、共産党は南昌起義(8月1日)、秋収起義(9月)、広州蜂起(12月)などの武装蜂起を試みますが、多くは鎮圧され、都市中心の革命路線は後退します。毛沢東・朱徳らは山地へ退き、井岡山根拠地などの農村拠点を築く方向へ舵を切り始めました。都市の労働運動・学生運動は、弾圧と内部分裂で勢いを失い、国民党は南京に統一政府を樹立する道を進みます(1928年北伐完了)。
残されたもの――制度・人材・語彙の連続
第1次国共合作は短命でしたが、いくつかの重要な遺産を残しました。第一に、政党の中央集権化と大衆動員を結び付ける組織技術です。支部網・宣伝・政治訓練・政治工作・軍の政治部という仕組みは、国民党の後年の統治にも、共産党の農村革命・抗日動員にも応用されます。黄埔軍官学校の人脈と文化は、国共双方の幹部層に深く浸透し、同窓将校はのちの国共内戦・抗日戦における要となりました。
第二に、反帝国主義運動の語彙と方法です。五・三〇運動、省港大罷工で培われたスト・ボイコット・デモンストレーションの技法、労組・学生会・商会・街坊組織の連絡網は、その後の都市政治文化の基盤となりました。農民協会の経験は、土地問題の中心性と、農村政治の組織化がもつ可能性と難しさの両方を明らかにしました。
第三に、外交と軍事の絡み合いです。ソ連の顧問団・軍事援助、列強の租界・租借地、租界をめぐる国際衝突は、国内政治の決定を外圧と連動させ、革命と外交の同時操縦という難題を突き付けました。上海・武漢・南京の局面は、都市の国際性が国内対立をどのように拡張するかを示す典型例でした。
最後に、人材の移動と思想の交錯が挙げられます。周恩来・恵工・葉挺・林彪・粟裕といった共産党・紅軍系、蔣介石・何応欽・陳誠・白崇禧・張治中ら国民党系の多くが、この時期に訓練と実戦を経験しました。国共の分裂後も、人脈の交錯は現場の交渉や戦線の柔軟性に影響を与え、しばしば対立と協力が同じ人物群の中で繰り返されます。
総じて、第1次国共合作は、軍閥割拠と半植民地体制のもとで、異なる理念を掲げる二つの勢力が「国家統一」という当面目標の下に手を結んだ試みでした。成功は部分的で、一挙に内的矛盾へ崩れましたが、そこで編み出された組織・動員・軍事の手法、人材の層、政治語彙は、その後の中国近現代史を貫いて作用し続けます。短い同盟のあいだに起きた高密度の学習と衝突が、以後の激動の前提を形づくったことは、確かな事実です。

