黒旗軍 – 世界史用語集

黒旗軍(こっきぐん、漢語:黑旗軍/越語:Quân Cờ Đen)は、19世紀後半に中国南部(広西)で形成され、のちトンキン(ベトナム北部)に本拠を移して活動した漢人系の武装集団です。頭目は劉永福(リウ・ヨンフー)で、紅河(ホン川)上流域を拠点に在地社会・交易ルートを押さえ、阮朝廷(ベトナム)と関係を結びながら仏軍の進出に対抗しました。1873年と1883年、ハノイ近郊・紙橋でフランス軍の指揮官ガルニエ、リビエールをそれぞれ討ち取ったことで欧州でも名が知られ、清仏戦争(1884〜85)では清国の援兵・同盟勢力として各地で戦います。黒旗軍は、太平天国・天地会・広西の民兵・密貿易といった19世紀中国南辺の混沌から生まれ、辺境の国家権力(清・阮朝)の隙間に根を下ろした「越境的武装勢力」でした。勢力は最盛期に数千〜一万余とも言われますが、戦局と条約の推移で解体に向かい、頭目の劉永福はのちに台湾共和国(1895)の指導者としても再登場します。本稿では、成立背景、トンキン定着と仏越関係、清仏戦争期の戦役、組織・兵器・戦術と経済基盤、終焉とその後、という順番でわかりやすく概説します。

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成立背景――広西の乱世と「旗」軍の系譜

黒旗軍の淵源は、清末の広西・雲南一帯で頻発した反乱と土匪の武装化にあります。太平天国の波及、天地会系結社、捻軍・回民蜂起(雲南回民の騒擾)など複合的な動乱の中で、在地の武装頭目が「旗」を標識として兵を糾合しました。黒旗軍のほかに黄旗・白旗などの呼称があり、いずれも色の異なる旗印で部隊を区別したことに由来します。若き劉永福はこうした広西の匪・民兵の指揮者として頭角を現し、清軍との抗争・協商を繰り返しながら、国境を越えてトンキンの山間部へ活動領域を広げました。

国境地帯は、塩・鉱産・木材・鶏卵・鴉片(アヘン)・人夫などの交易が盛んで、関税・通行税の取り立てが「主権の実務」と重なり合う空間でした。黒旗軍は、道筋の安全供与と引き換えに通行課徴を行い、密貿易と合法貿易の中間に位置する「準公共」の秩序を形成します。19世紀の東南アジア・中国辺境に典型的な、国家と非国家の重なり合いが、黒旗軍の土台だったのです。

トンキン定着と仏越関係――阮朝との提携、ガルニエ・リビエールの戦死

阮朝(ベトナム)のトゥドゥック帝政権は、紅河デルタの支配力が弱く、地方官や山地勢力の自立が顕著でした。フランスのコーチシナ侵入(1860年代)から北部への進出が強まると、宮廷は黒旗軍を「外様の剛腕」として利用する選択をとります。劉永福は押収・課税の権益と官位(義勇軍の名目)を与えられ、ハノイ北西〜ソンタイ方面に勢力圏を確立しました。彼らはデルタ水路と堤防、関門を押さえ、紅河上流へ遡る通行と産物の流れを管理しました。

1873年、フランシス・ガルニエ率いる仏軍分遣隊がハノイを占領・周辺攻略を進めると、黒旗軍は阮朝側につき、ゲリラ・堤防線・竹柵で仏軍を攪乱し、ハノイ西方の紙橋(Cầu Giấy)付近でガルニエを討ち取ります(第一次紙橋の戦い)。この衝撃は大きく、交渉ののち一時的な停戦とフランスの北部支配の限定化が図られました。10年後の1883年、ハノイ周辺での作戦を指揮していたアンリ・リビエールも、同じく紙橋周辺の戦闘で戦死します(第二次紙橋)。二度にわたり仏軍指揮官を失わせたことで、黒旗軍は「トンキンの妖魅」として恐れられ、欧州の新聞にまで名が広まりました。

ただし、この時期の黒旗軍は「純粋なベトナム側の義勇兵」でも「単なる匪賊」でもなく、清国の辺境官と連絡しつつ、阮朝・在地豪族・華僑商人と利害を調整する越境ネットワークのハブでした。仏軍にとっては、正規戦力の外側から補給線を脅かす、厄介な「非対称の敵」だったのです。

清仏戦争(1884–85)期の戦役――ソンタイ・バックニン・ランソン

1884年、北部ベトナムの宗主権を巡って清仏の緊張が高まり、やがて清仏戦争に発展します。黒旗軍は清側に与し、広西・雲南の清軍(淮軍・湘軍系の鎮将)と連携して、仏軍のトンキン遠征軍と各地で交戦しました。仏軍はアンリ・ブリエール・ド・リスルやネルリー、ド・クールシーらの指揮で、デルタ諸都市と要衝を攻略し、1883年末〜84年にかけてソンタイ(山西)・バックニン(北寧)を陥落させます。黒旗軍は竹柵陣地・堤防線・沼沢地帯を利用した守勢で粘ったものの、近代的砲兵・機関銃・装甲砲艦を備えた仏軍の重火力と統合作戦に押され、次第に山間部へ退きました。

1885年初頭のランソン作戦では、仏遠征軍が清軍主力を押し返しつつも補給線の伸長に苦しみ、前線の混乱と撤退(ランソン撤退事件)に至ります。この混乱に黒旗軍は乗じて各地で攪乱を試みましたが、戦争全体の帰趨は外交の場で決し、同年の天津条約(清仏和約)で清はベトナム宗主権の放棄と仏の保護権を承認、黒旗軍の行動余地は急速に縮小しました。

清仏戦争は、黒旗軍にとって「越境武装が列強と正規戦の前に押し込まれていく」転機でした。補給・火力・統制の差は埋め難く、彼らの強みである地の利・機動戦・住民ネットワークも、砲艦と要塞攻略の前には限界を露わにしました。

組織・兵器・戦術と経済基盤――辺境を生かす「軽さ」と「網」

黒旗軍の組織は、頭目―隊長―什長という緩やかな階層で、家族・地縁・同郷の紐帯が強く、戦利品・課税・保護料の分配が結束の実利でした。制服や編制は一定せず、黒い旗印と一部の衣装・鉢巻が象徴性を持つにとどまります。兵器は、伝統的な火縄銃・燧石銃に加え、清の武器庫や密貿易経由の前装・後装銃、長大な壁銃(ジンジャール)や竹製発射台、炸薬壺、地雷(簡易爆雷)、竹槍・刀などが混在しました。砲兵は乏しく、仏軍のクルップ砲・機関銃に比べ火力で劣勢でした。

戦術は、堤防・水路・竹林・沼沢を利用した遮断と待ち伏せ、夜襲と散兵、関門の多重防衛、偽装・土塁構築による膠着化が中心です。紙橋の戦闘は、狭隘地形への誘導と局地的火力集中、指揮官急襲の成功例でした。河川では、筏や小舟による奇襲・焼討ちが用いられ、仏軍の蒸気砲艦に対しては流木・障害物で航路を妨害しました。

経済基盤は、通行課徴・市場税・鉱産物や塩の流通の関与、アヘン課税・売買関与、保護料(「保正」の名目)など多様でした。劉永福は、交易の安全供与と引き換えに課税権を主張し、在地の村落・商人・華僑ネットワークと折衝を重ねて「秩序と負担」のパッケージを供給しました。こうした〈準公共財〉の供給者としての顔が、黒旗軍を単なる匪賊ではなく、辺境統治の一アクターとして特異にした点です。

終焉とその後――解体、帰郷、そして台湾へ

天津条約後、フランスはトンキン保護国体制の下で軍政・民政を整え、黒旗軍の武装解除・追放を進めます。劉永福は清側の庇護のもとに広西へ帰還し、一部の兵は現地解散・帰農・他勢力への合流を余儀なくされました。黒旗軍の名は、在地の抵抗や山地の小規模武装にしばらく残響を残したものの、主要な軍事アクターとしての役割は消えます。

しかし劉永福の名は、1895年の台湾で再び現れます。日清戦争の結果、清が台湾を日本に割譲すると、台湾では地方士紳・官僚の一部が台湾民主国(台湾共和国)を樹立し抗日を企図しました。劉永福はその軍事指導者として招かれ、台南を中心に日本軍に抵抗します。短期で崩壊したとはいえ、黒旗軍で培ったゲリラ的機動と防衛の技術、在地ネットワークへの働きかけは、この最後の舞台にも生きました。のち劉は大陸に戻り、商業・鉱山経営にも関わりつつ生涯を終えます。

評価と史料――「匪」と「義」のあいだで

黒旗軍は、国家形成と帝国主義が交錯する時代の「周縁アクター」として評価されます。フランス側の史料では、彼らは狡猾で残酷な匪徒として描かれがちですが、ベトナム側の伝承や碑文には、外来勢力に抗した義軍の像も刻まれています。清の文書では、辺境安撫のための方便としての利用と、統制困難な存在としての警戒が併存します。いずれの視点も、部分的には真実であり、黒旗軍の二面性は〈国家秩序の裂け目〉に棲む越境勢力の常態でした。

史料面では、仏軍の戦役記録・新聞、阮朝の勅令・地方文書、清の奏摺・地方官報告、在地の碑刻・口承、欧米宣教師の書簡などが互いに食い違いを見せます。紙橋の戦死状況から兵力規模、課税・掠奪の実態まで、数値や評価には幅があります。ゆえに、黒旗軍の歴史像は単線ではなく、辺境統治の比較史、密貿易・通行税・アヘンの経済史、ゲリラと正規軍の関係史、メディアによる敵像形成史など、多方面からの照明が求められます。

総じて黒旗軍は、19世紀後半の東アジア・東南アジア境界における「国家と非国家の間(はざま)」が生んだ現象でした。彼らの栄枯は、帝国・保護国・在地社会がせめぎ合う中で、武力・経済・政治がいかに絡み合い、境界がどのように統治されていたかを浮かび上がらせます。黒い旗の下で戦った人びとの軌跡は、国民国家の枠に収まりきらない近代のもう一つの顔を、今も私たちに示しています。