ゴーギャン – 世界史用語集

ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848–1903)は、印象派の後を継いで近代絵画を大きく転換させたフランスの画家です。鮮烈な原色の対比、輪郭線で面を区切る構成、寓意や神話を織り込む象徴性を武器に、自然の見たままを写すのではなく、感情や観念の「真実」を画面に与えようとしました。ブルターニュのポン=タヴェンでの実験から、タヒチやマルキーズ諸島での制作まで、場所を移すたびに作風は変化しますが、常に「文明の重荷からの脱出」と「原初的な生の再発見」を目標に据えていました。ヴァン・ゴッホとの交流や決裂、『説教後の幻影』『われらはいずこより来たるか』などの代表作、版画・木彫・陶芸にまたがる多面的な仕事は、フォーヴィスムやキュビスム、表現主義に大きな影響を与えました。他方で、植民地支配下の島々での生活と制作には、今日の視点からは倫理的・ジェンダー的に重大な問題が伴い、批判的検討も不可欠です。要するに、ゴーギャンは「色とかたちで観念を語った画家」であり、その革新と影の両方を理解することが大切です。

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生涯と転機――株式仲買人から画家へ、ポン=タヴェン、アルル、そして南洋へ

パリに生まれ、幼時の数年を母方の縁でペルーのリマで過ごしたゴーギャンは、青年期は船乗り、のちに株式仲買人として成功しました。結婚し子ももうけ、安定した中産階級の生活を送りますが、1870年代にカミーユ・ピサロら印象派と交流し、休日の画業が次第に本業へと反転します。1882年の金融恐慌で職を失うと、彼は決然と画家に転じ、家族との別居・離散という痛ましい犠牲を払いながらも、制作の自由と純度を選び取りました。

1886年以降、彼はブルターニュのポン=タヴェンに拠点を移し、修道院的な質素さとケルト的伝統が残る風土に触発されて、色面と輪郭線を強調する画法を練ります。ここで台頭したのが、対象の外郭を黒や濃色の輪郭線(クロワゾニスム)で囲い、局面を平坦な色面として置く方法でした。日本の浮世絵、ステンドグラス、装飾写本の影響を取り込み、自然光の瞬間のきらめきを追う印象派から、心象や物語を構築する総合主義(サンティスム)へと舵を切ったのです。1888年の『説教後の幻影(ヤコブと天使の闘い)』はその宣言で、祈る農婦の赤い大地の向こうに、聖書の幻視が平面化された色面として立ち現れ、現実と宗教的観念が二重露光のように重ねられました。

同年秋、彼は南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を試みます。相互刺激の濃密な二か月でしたが、制作観と気質の違いはやがて破局を招き、ゴッホの精神的危機(耳切り事件)をきっかけに同居は解消されました。この破綻はゴーギャンに、集団の連帯より孤独な探求が自分には必要だという確信を深めさせ、次の飛躍――南太平洋への移住――を後押しします。

1891年、彼はタヒチへ渡航します。ヨーロッパ文明の束縛から離れ、神話と自然が共鳴する〈原始(プリミティフ)〉の世界を求める旅でした。現地での生活は飢貧と病、異文化の齟齬に満ち、彼が夢見たユートピアとは程遠いものでしたが、創作は爆発的に実り、象徴的図像と言語が融合した独自の画面が次々と生まれます。後半生は往還を挟みつつタヒチとマルキーズ諸島で過ごし、1903年、ヌクヒバ島で没しました。

作風と理論――色面と輪郭、象徴と物語、素材の越境

ゴーギャンの革新は、第一に色の独立にあります。彼は自然の固有色に縛られず、内的必然に従って色を配置しました。草が緑である必要はなく、感情が赤を要請すれば地面は深紅となります。第二に輪郭線の復権です。対象の量感や陰影を光学的に再現する代わりに、太く確信的な線で面を区切り、その面を音階のように響き合わせました。第三に寓意と神話の再導入です。『黄色いキリスト』『説教後の幻影』のように、宗教や伝承の主題を現代の風景に折り込み、場を詩的な「意味の舞台」に変えます。

この構想を言葉にしたのが、彼の総合主義(サンティスム)の主張でした。自然観察(与件)と、記憶・想像(内面)、装飾的構成(形式)を「総合」して画面を組み上げるという思想で、写実と抽象の二項対立を超えようとします。画面における遠近法は相対化され、複数視点と平面性が共存します。これは、フォーヴィスムの強烈な色彩、象徴主義の観念性、ナビ派の装飾性の出発点となりました。

絵画にとどまらず、彼は木版・木口木版・木彫・陶芸を積極的に試み、素材の荒々しい質感を図像に取り込みました。木版『ノアノア』連作では、黒の版木線が神話の饒舌を支え、陶器の塑像では素朴な歪みが宗教的・性的象徴と結びつきます。支持体(ジュートや粗いカンヴァス)も画面効果の一部として選択され、絵具のマチエールは平面でありながら触覚を誘うレリーフのように扱われました。

代表作としては、ブルターニュ期の『説教後の幻影』『黄色いキリスト』『ブルターニュの田舎、牛のいる風景』、第1次タヒチ期の『タヒチの女(浜辺にて)』『マナオ・トゥパパウ(霊の視る)』『ネヴァレ・マタイ(あるいは「あなたは嫉妬しているのか?」)』、晩年の集大成『われらはいずこより来たるか、われらは何者か、われらはいずこへ行くか』(1897–98)などが挙げられます。後者は青・黄・紫が交錯する巨大な画面に、誕生・成熟・死の三場面を配し、人間存在の根源を問う遺言のような作品です。

影響と受容――フォーヴィスムへの橋、ナビ派・象徴主義・キュビスムへ

ゴーギャンの色面と輪郭線は、マティスやドランらフォーヴィスムの爆発的色彩へ直結します。彼の「色は感情の言語」という確信は、色彩の自律と平面性の容認を若い世代に与えました。ブルターニュで彼の周囲に集まったナビ派(セリュジエ、ボナール、ヴュイヤールら)は、『護符(タリスマン)』と呼ばれる小画片に象徴主義的色面の原理を読み取り、室内や都市の親密さを装飾的に実現しました。ピカソや初期キュビスムも、遠近法を相対化する彼の構図と、アフリカ彫刻・オセアニア美術の受容を通じて感化されています。

版画・木彫の粗い線と面の対比は、ドイツ表現主義(ブリュッケ)にも強い示唆を与え、宗教や神話の再解釈という態度は20世紀の象徴性の復権へつながりました。美術館展示や画集の普及が進んだ20世紀後半、ゴーギャンは「近代の起点の一つ」として確固たる位置を占め、回顧展は常に大規模な観客を惹きつけます。

ただし、この「影響の物語」は同時に批判の対象でもあります。彼のプリミティヴィズムは、ヨーロッパ中心的な「未開/純粋」の観念を前提としており、植民地支配の力学から自由ではありませんでした。現地の女性との関係、年少者を含む性的関係、生活費のための無理な借財やトラブル――これらは今日の倫理基準から看過できず、近年の研究と展覧会は、その複合性と暴力性を可視化しようとしています。作品の強度を認めつつ、制作環境がもたらした不均衡と搾取を批判的に読み解くことが求められます。

読む・観るための手がかり――作品の構図と言語、神話と日常、批判的視点

ゴーギャンを理解する近道は、まず図像の辞書を自分の中につくることです。画面に現れる鳥・犬・果実・像(ティキ)・布(パレオ)・花(タヒチハイビスカスなど)・文字(題字やタヒチ語の断片)が、どのような感情や物語の鍵を担っているかを、複数の作品を横断して観察します。色と形の配置はしばしば対位法的で、暖色と寒色、水平と垂直、曲線と直線が「意味のペア」をつくります。人物の視線は鑑賞者を外へ誘導するより、画面内部の三角形や円環へ視線を回帰させ、物語は時間よりも関係性の構造として示されます。

次に、彼が用いた言語――題名や画中の文字、テクスト『ノアノア』の語り――を、事実としてではなくフィクションを含む演出として読むことです。彼はしばしば現地語・誤記・造語を混ぜ、外部者の目線をロマン化する言説をつくりました。これは自己神話化の技法でもあり、同時に権力関係の隠蔽でもあります。観る側は、その言説の機能を意識化し、現地社会の史実や口承神話との相違に気づくことで、作品をより多層的に受け止められます。

最後に、素材と手つきに注目します。絵具の塗り残しや筆致の荒さ、版木の欠け、陶土の歪みは、未完成ではなく「野性の表現」の計画的な導入であることが多いのです。平面でありながら触覚を喚起する仕掛け、装飾的でありながら寓意を湛える構成――この二重性こそがゴーギャンの体温であり、後代の多くの前衛に引き継がれました。

まとめると、ゴーギャンは、近代絵画に「色と言語による観念の舞台」をもたらした画家でした。彼の革新は、フォルムと色を音楽のように扱い、宗教と民俗を現代の感情に翻訳し、絵画の地平を拡張しました。他方で、植民地という前提の下で築かれた「自由」は、他者の身体と生活に負担を転嫁した現実を伴います。だからこそ、私たちは作品の眩しさとともに、その眩しさを可能にした構造を冷静に見つめる必要があります。美術館で彼の作品の前に立つとき、色の歌と線の祈りを聴き取ると同時に、歴史のざらつきに指で触れる――それがゴーギャンを深く学ぶための、等身大の入り口です。