カタコンベ(catacomb/仏: catacombes/伊: catacombe)とは、主に古代末期のローマ世界で発達した地下埋葬施設の総称で、長い坑道状の通路に遺体を納める壁龕(ロクリ、loculi)や壁龕墓(アルコソリウム、arcosolium)、小部屋状の家族墓(クビクラ、cubicula)などが連なる複合的な地下墓地を指します。今日もっともよく知られるのはローマ市周辺のキリスト教徒のカタコンベですが、ユダヤ教徒の地下墓地も存在し、さらにシチリアのシラクサ、ナポリ、北アフリカ各地など地中海世界に広く類例が見られます。のちの時代に「カタコンベ」と呼ばれるものの中には、パリのように中世以降の採石場跡を転用した骨蔵所(オッスアリウム)も含まれ、起源と機能が異なる場合があります。以下では、語の由来、構造と埋葬慣行、宗教・美術・社会機能、地域差と時代差、発見と研究史、近代以降の継承と保存を、誤解を避ける観点から整理して解説します。
語源と成立背景:地形の呼称から一般名詞へ、都市と葬制の事情
「カタコンベ」という語は、ローマ郊外のアッピア街道沿いにある聖セバスティアヌスの墓地の別名「アド・カタクンバス(窪地のそば)」に由来するとされ、もとは特定地点の地形的呼称でした。中世以降、ローマに広がる地下墓地一般の呼称へと転化し、さらに欧州各地の地下埋葬施設の一般名詞として定着します。ローマのカタコンベが発達した背景には、①市壁内の埋葬制限(死者は市外へ)という古来の原則、②地中海性の火葬→土葬への緩やかな移行、③都市人口の増加と墓地用地の確保、④軟らかく掘りやすい凝灰岩質の土壌(トゥーフォ)の存在、⑤共同体(コレギウム)による埋葬互助の広がり、が挙げられます。とりわけ3世紀から4世紀にかけ、信徒数の増加と著名殉教者の墓を核とした巡礼・記念儀礼が重なり、地下墓地網が急速に拡大しました。
なお、カタコンベは「迫害からの隠れ場所」というイメージで語られることが多いですが、実際には儀礼と埋葬の場であり、日常的に地下で礼拝が行われ、集団が長期潜伏したという証拠は限定的です。迫害期にも、殉教者崇敬や埋葬のために地下空間が使われたことは事実ですが、主機能はあくまで墓地でした。
構造と埋葬:通路、壁龕、家族墓—地下都市のようなレイアウト
基本構造は、地上に入口(エントランス)や記念堂(メモリア)を設け、螺旋や斜路で地下へ降りると、迷路状に延びる廊下(ギャラリー)が多層に重なり、壁の両側に横長の壁龕(ロクリ)が規則的に穿たれます。ロクリはミイラ化ではなく布で包んだ遺体(屍衣/シュロード)を横たえて封じ、石板(タブラ)や煉瓦で閉塞した上に漆喰を塗り、名前や年齢、イコン、簡短な銘文を刻しました。半円アーチ状の壁龕墓アルコソリウムは、上部が祭壇的に利用されることもあり、遺体の上で記念の食事(レフリジェリウム)や追悼儀礼が行われました。複数のロクリとアルコソリウムで構成された小部屋クビクラは、家族墓や同業・同信者の共同墓として用いられ、天井・壁面には漆喰下地のフレスコ画が施されました。
設備面では、通風孔(ルカナリウム)、油灯のニッチ、階段、採光用の天窓が要所にあり、迷路化を防ぐための道標や記号が刻まれます。通路幅は人が棺を担いで通れる程度で、層が深くなるほど簡素化する傾向があります。埋葬は市民権や身分によって豪華さが異なるものの、地下化によって比較的低コストで多人数の安置が可能となり、都市的スケールの共同墓地が実現しました。
銘文(碑文)はラテン語・ギリシア語が中心で、平和を願う挨拶(”in pace”)や信仰告白、職業、親族関係、日付が記されます。象徴図像としては、善き羊飼い(クリストフォルムの若者が羊を担ぐ)、魚(イクテュスの頭字語)、錨、鳩、パンと葡萄酒、ユナギとバスケット(奇跡の象徴)、オランス(祈る女性像)など、旧約・新約の主題と初期キリスト教のシンボルが控えめな写実で描かれます。ユダヤ人の地下墓地では、メノーラ(七枝燭台)、ショーファル(角笛)、エトログ(柑橘)など祭儀具の図像が見られ、共同体のアイデンティティが示されました。
宗教・社会機能:殉教者崇敬、巡礼、互助—地下が結ぶ共同体
カタコンベは、単なる埋葬空間を超えて、宗教的記憶と共同体の結束を育む場でした。殉教者の墓(コンフェッシオ)を中心に記念礼拝が行われ、命日には巡礼者が集い、レフリジェリウム(記念供宴)で死者との連帯を象徴しました。4世紀以降、キリスト教が公認・国教化されると、地上にバシリカが建てられ、地下の墓と地上聖堂が階段・開口部で連結される複合宗教建築が生まれます。これにより、地下は〈過去の聖性の貯蔵庫〉、地上は〈現在の礼拝と都市の動脈〉という機能分担が成立しました。
社会的には、埋葬互助のコレギウム(同業者団体や信徒団)の活動が重要で、費用の共同負担、墓穴の割当、儀礼運営、記念日の管理など、半ば自治的に運営されました。貧者の埋葬支援、孤児や寡婦への配慮といった慈善も含まれ、都市社会のセーフティネットとして機能しました。女性や解放奴隷の名が銘文に見えることは、共同体の包摂性と都市的多様性を物語ります。
殉教者の遺骨(聖遺物)の移動(翻遷)は、中世以降の巡礼文化・聖遺物崇敬の形成に大きく影響しました。ローマでは、カタコンベの遺骨が地上の教会へ、さらにはアルプス以北の修道院へと「移送」され、各地の聖性の源泉となります。一方で、この過程は詐称・盗骨・市場化の問題も生み、教会は真正性の証明(オーセンティカ)や封印の制度を整えて対応しました。
地域と時代の広がり:ローマ、南イタリア、北アフリカ、そして「パリのカタコンブ」
ローマ市内外には数十のカタコンベが存在し、プリシラ、カリストゥス、ドミティラ、セバスティアヌス、アグネスなどが著名です。これらは多層構造と広い延長距離(総延長数百キロとも)で知られ、各々に固有の図像傾向と殉教伝承を持ちます。シチリアのシラクサやナポリのサン・ジェンナーロ、北アフリカのヒッポ・カルタゴ周辺にも地下墓地があり、地域材と地質に応じた構法の違いが見られます。ユダヤ人カタコンベはローマ北部のヴィア・ノメンターナ沿いなどに点在し、図像と銘文が一体となった貴重な資料群です。
一方、しばしば観光で知られる「パリのカタコンブ」は、18世紀末に衛生対策で市内墓地の遺骨を郊外の旧採石場に移送・収蔵した近世由来のオッスアリウムで、古代ローマのカタコンベとは起源も形態も異なります。とはいえ、地下空間を死者の記憶の場として再編成する発想は共通し、近代都市の衛生・記憶・観光が交差する装置として比較の価値があります。さらに、パレルモのカプチン会納骨堂(防腐処置した遺体の展示)、チェコ・クトナー・ホラのセドレツ納骨堂、オデッサの採石場地下網など、地域ごとの「地下と死」の文化は多彩です。ただし、これらをすべて「カタコンベ」と一括せず、成立と機能の差を意識するのが学習のコツです。
美術と図像:初期キリスト教美術の母胎—象徴から物語へ
カタコンベのフレスコ画は、初期キリスト教美術の貴重なコーパスです。最初期は抽象的・象徴的なモチーフ(魚、錨、鳩、善き羊飼い、オランス)が中心で、迫害や慎みの文化に合わせて表現は控えめでした。4世紀の公認以後は、旧約物語(ヨナの物語、ダニエル、ノア、アブラハムの犠牲)や新約の奇跡・最後の晩餐的モチーフが増え、人物のプロポーション、衣文、建築背景の表現が洗練されます。描法は石灰漆喰に顔料を溶いて塗るフレスコで、輪郭線の単純化と色面の対比で暗所でも視認できる工夫が凝らされています。彫刻は限定的ですが、封板(タブラ)に浅浮彫でシンボルや花文、葡萄唐草を刻む例があり、石棺(サルコファガス)には豊かなレリーフ叙事が展開します。
ユダヤ人カタコンベの図像は、律法と祭儀具を中心に、アブラハムやモーセの象徴的表現を交えつつも、人物像の回避や抽象化が目立ちます。これは、共同体内の禁忌や慎ましさの美学を反映しており、同時代の異文化比較に好個の素材です。
発見と研究史:地下ローマの再発見—ボージオからデ・ロッシへ
ルネサンス以後、古代遺物への関心が高まる中で、17世紀のアントニオ・ボージオ(別称「地下ローマのコロンブス」)がカタコンベの組織的調査を開始し、『ローマ・ソッテラネア』を著して図版・記録を残しました。19世紀にはジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ロッシが考古学的方法で層位と銘文を整理し、キリスト教考古学の基礎を築きます。以来、銘文学(エピグラフィ)、古文書学、地質学、保存科学が連携し、近年は三次元計測や斜光撮影、微生物制御による保存管理が進展しました。観光公開と保存のバランス、湿度とカビ、落書き・盗掘の防止は、今日なお続く課題です。
用語整理と学習のポイント:似て非なる地下の世界を区別する
学習上の注意として、①古代のローマ型カタコンベ(地下埋葬回廊)と、②中世・近世・近代の納骨堂や採石場転用の「カタコンブ(フランス語的用法)」、③修道院や教会付属の地下納骨所(クリプト/オッスアリウム)を区別しましょう。さらに、地下墓地=迫害の隠れ家という図式は単純化であり、葬制・巡礼・都市環境の複合的要因が背景にあると理解することが重要です。主要部位のラテン語(loculus/arcosolium/cubicula/lucernarium/memoria)を押さえると、図録や遺跡案内の読解がスムーズになります。
ローマ帝政から古代末期にかけての宗教変容(多神教→キリスト教公認)、都市の成長と衛生、記憶の政治(殉教者の記念と聖遺物の移動)といった大きな流れの中で、カタコンベを位置づけると、〈地下〉という空間の意味が立体的に見えてきます。地下は単に暗く湿った場所ではなく、都市と死者、過去と現在、個人の追悼と共同体の連帯を結ぶ「社会的装置」だったのです。
総括:死者の都市、記憶の回路—カタコンベが語る古代の生と死
カタコンベは、都市の地表に重なるもう一つの〈地図〉でした。迷路のような廊下、壁に並ぶロクリ、家族のクビクラ、殉教者の記念所、暗闇に灯る油灯、簡素な魚と羊飼いの絵—それらは、古代の人々が死をどう受け止め、共同体とどのように結びつけ、信仰と記憶をどのように組織したかを物語ります。ローマの地下に広がる静かな都市は、地上の喧騒と対をなしながら、今日まで続く宗教実践と都市文化の基屎を形づくりました。用語と構造、宗教・美術・社会の諸相を区別して学ぶことで、カタコンベという言葉は単なる観光名所の名を超え、古代の生と死の体系を解く鍵として輝きます。

