イラン革命 – 世界史用語集

イラン革命とは、1978年から1979年にかけて王制(パフラヴィー朝)を打倒し、「イラン・イスラーム共和国」という新体制を誕生させた一連の大変動を指します。近代化の加速と政治的抑圧、経済のゆがみ、宗教と社会規範をめぐる不満が重なり、宗教者、商人(バザール)、知識人、学生、労働者、都市下層、民族・宗派集団など多様な層が抗議運動に合流しました。1979年2月に王が退位・出国し、亡命から帰国したホメイニー師の指導の下で共和制への移行が進みます。革命後は憲法に「法学者の統治(ウィラーヤト・アル=ファキーフ)」が明記され、選挙と宗教的監督を組み合わせた独特の制度が整えられました。革命は国内の政治秩序を根底から組み替えただけでなく、地域秩序や国際関係、社会文化にも大きな影響を与えました。

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背景と前史――近代化の加速、政治統制、社会のひずみ

パフラヴィー朝は1925年に成立し、レザ・シャーとその後継者モハンマド・レザ・シャーの下で中央集権化と近代化を推進しました。鉄道・学校・軍の整備、民法の導入、服制や都市景観の改変などは国家の近代化を加速させましたが、同時に地方社会の自律や宗教勢力の権威を圧迫しました。情報と治安の領域では、秘密警察(サーヴァーク)による監視と弾圧が強まり、反体制の空気が地下に蓄積しました。

1951年にはモサッデク首相が石油国有化を断行しましたが、1953年の政変で失脚し、王権は再強化されました。1960年代の「白色革命」は、土地改革、女性参政権の付与、教育拡充、産業化の促進などを含み、都市の中産層と農村の構造を大きく変えました。他方で、農村から都市への急速な人口流入と住居・雇用の不足、物価高と格差の拡大、宗教的価値観と国家の文化政策の齟齬が、社会の不満を増幅しました。宗教者とバザールのネットワークは、道徳の言葉と互助の実践を通じて不満を言語化し、都市の抗議行動の受け皿になっていきます。

1970年代半ばのオイルブームは一時的に繁栄をもたらしましたが、国家主導の巨大プロジェクトと軍備拡張は経済の過熱と偏りを生み、1976年以降の景気減速で失業と物価高が深刻化しました。検閲や政党活動の制限、王の個人崇拝的演出は、知識人や学生の反発を招き、宗教都市や大学都市は政権批判の震源地になりました。こうして、近代化の速度と政治的包摂の不足が乖離し、抗議連鎖を引き起こす条件が整っていきます。

革命の展開(1977〜1979)――抗議の連鎖、ストとデモ、王の退位と帰国

1977年頃から、知識人の公開書簡や宗教者の説教、学生の集会など、点在する抗議が徐々に広がりました。決定的な転機は1978年です。1月、宗教者を中傷する記事をめぐってコムで抗議が起こり、治安部隊との衝突で死傷者が出ました。イスラームの四十日目の追悼に合わせて全国各地で再びデモが行われ、四十日周期の抗議が連鎖する独特のリズムが生まれます。夏には宣伝映画館の火災事件が政治化し、秋にはテヘランでの大規模デモに軍が実弾を使用する「黒い金曜日」と呼ばれる惨事が起き、政権への信頼は決定的に揺らぎました。

秋以降、石油労働者や銀行・交通・行政のストライキが波状的に発生し、国家機構は日常運転に支障を来します。バザールは店を閉め、宗教行事は政治的意味を帯び、アーシューラーの大行列は体制批判の巨大な可視化の場となりました。亡命中のホメイニー師は説教と声明で抗議を鼓舞し、録音テープや印刷物が密かに全国へ流通しました。王は内閣改造や戒厳令で事態の収拾を図り、改革派のバフティヤールを首相に任命して「改革による立て直し」を試みましたが、もはや潮流を反転させることはできませんでした。

1979年1月、王は国外へ出国し、2月1日、ホメイニー師が帰国しました。空港と街路は群衆で埋まり、革命は新段階に入ります。ホメイニー師は宗教者と世俗の各勢力からなる革命評議会を設け、メフディー・バーザルガーンを首班とする暫定政府の樹立を支持しました。2月10〜11日、軍の一部部隊が民衆側に回り、軍指導部は「中立」を宣言、王政は事実上崩壊しました。省庁・企業・治安機関では委員会(コミテ)や労働者評議会が現れ、旧制度と新しい権力のせめぎ合いが始まります。

制度化と権力再編(1979〜1981)――憲法、監督機関、IRGC、権力闘争

王政崩壊後の最初の焦点は、国家の基本設計でした。1979年3月の国民投票で「イスラーム共和国」への移行が圧倒的多数で承認され、続いて選挙で選ばれた専門家議会が憲法草案を審議しました。新憲法は、人民主権とイスラームの原則を併記し、最高指導者を頂点とする宗教的監督と、選挙で選ばれる大統領・議会・地方議会の制度を組み合わせました。護憲評議会は法律の適合性審査と選挙候補の資格審査を担い、公益判別評議会は機関間の調停役となります。司法はイスラーム法に基づいて再編され、革命裁判所は旧体制の要人や治安機関の関係者を裁きました。

秩序の空白を埋めるため、革命防衛隊(IRGC)が創設され、志願の民兵組織バスィージとともに治安・防衛・行政支援に動員されました。国営・準国営の財団(ボニヤード)が旧王室財産や大資本の一部を引き継ぎ、福祉・復興・企業運営に関与します。大学は「文化革命」の名の下に一時閉鎖・再編され、カリキュラムと教員の見直しが進みました。服装や公共空間の規範、メディアの運用も新しい価値に合わせて調整され、女性の装いに関する法的基準や酒類・娯楽の扱いなどが再定義されました。

この過程は摩擦に満ちていました。穏健派の暫定政府は行政の専門性と国際関係の安定を重視しましたが、草の根の革命委員会や急進的勢力は旧体制の一掃と急進改革を求めました。1979年11月の米大使館占拠(人質事件)は、暫定政府の辞任と対米関係の決定的断絶を招き、国内政治は急速に対立軸を強めました。1980年の大統領選挙と議会選挙で新体制は民主的手続きを経験しますが、1981年には大統領の罷免や与党幹部の爆殺事件など深刻な権力闘争が続き、治安と政治の緊張は極限に達しました。こうした混乱は、体制の枠組みを固める一方で、反体制組織の弾圧と政治スペクトラムの狭まりにつながりました。

社会・経済・国際環境の変化――国有化と再分配、動員社会、戦争と外交

経済面では、石油・銀行・大企業の国有化や国有化に準じる管理強化が進み、福祉と再分配を掲げる政策が取られました。ボニヤードは戦没者・貧困層への支援や住宅・医療の供給を担い、建設・インフラ・食料配給に関与しました。ただし、急激な所有権の移動と制裁、熟練人材の流出、投資の停滞は生産性の課題を残し、インフレと失業への対処は容易ではありませんでした。バザールと中小企業は国家との新しい関係を模索し、地方では自治と中央の指示のバランスが試されました。

社会面では、宗教儀礼と公共空間が新しい政治文化の舞台になりました。モハッラム月の哀悼行事や宗教説教は殉教の記憶と公共善の倫理を強調し、ボランティアと寄進が広がりました。女性は教育・医療・行政・文化において存在感を増しつつ、法と実務の間で役割と権利のあり方が調整されました。学校教育と大学は拡大し、識字と専門教育が進みましたが、カリキュラムの再編と思想検証は長期に及びました。メディアと芸術は一定の規制のもとで多様な表現を模索し、映画や詩、グラフィックは新しい美学を切り拓きました。

国際環境では、革命による路線転換が近隣諸国や大国との関係に波紋を広げました。対米関係は凍結され、資産凍結と経済制裁、外交関係の断絶が続きました。1980年9月にはイラクが侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発します。戦争は国家の生存を賭ける動員を加速させ、革命防衛隊とバスィージの役割を拡大しました。戦時下で配給と産業の維持、避難民の受け入れ、医療・教育の継続が求められ、宗教と国家、軍と市民社会の協働が定着しました。外交では、非同盟・自立を掲げつつ、地域との関係調整と国連を通じた停戦・復興の枠組みづくりに取り組みました。

こうしてイラン革命は、王制の崩壊にとどまらず、国家の制度・社会の価値・国際的立ち位置を同時に組み替える営みとなりました。制度は選挙と宗教的監督という二つの正統性を並置し、社会は動員と互助の文化を強め、経済は再分配と公共投資を軸に再構成されました。これらの変化は、現在に至るまでイラン社会と政治の前提を形づくっています。