サイイド・アリー・ムハンマド(Sayyid ʿAlī Muḥammad, 1819–1850)は、通称「バーブ(باب=門)」として知られる19世紀イランの宗教指導者です。彼はシーア派イスラームの文脈で、終末に現れる導師(カイム/マフディー)へ通じる「門」であると自称し、のちに自らの啓示と法を持つ独自の啓示者として教えを展開しました。短い在世のあいだに、彼の書と書簡は多くの信奉者を生み、バービー運動として各地に広がりますが、既存の宗教権威と国家秩序を揺るがすものと受け止められ、蜂起・鎮圧・裁判を経て、1850年にタブリーズで銃殺されました。彼の死後、運動は分岐と継承を重ね、のちのバハーイー教の成立へとつながります。以下では、彼の生涯と時代背景、教えと著作、運動の展開と衝突、継承と評価という観点から、平易に整理して解説します。
生涯と時代背景—シーア派の期待とガージャール朝の危機
サイイド・アリー・ムハンマドは1819年に南部ペルシア湾岸の港町シーラーズで生まれました。「サイイド」は預言者ムハンマドの娘ファーティマと義子アリーを祖とする家系を意味し、シーア派の社会では敬意を伴う称号です。幼少期に父を亡くし、商家の親族に育てられながら商業に携わりましたが、早くから敬虔と霊的資質で注目されました。青年期にはカールバラーやナジャフで学ぶ巡礼者・学徒と交流し、とりわけシーア派内の神秘主義的学派であるシャイフ派(シャイフ・アフマド・アフサーイー、サイイド・カーズィム・ラシティーの系譜)の影響を受けました。彼の最初の弟子たちの多くは、このシャイフ派の聴講者・求道者層から現れています。
19世紀前半のイラン(ガージャール朝)は、ロシア帝国との戦争と講和による領土喪失、租税・軍制改革の遅れ、地方権力の離反などに直面し、宗教権威(ウラマー)と王権の均衡も不安定でした。シーア派には、終末に正統を回復する導師(カイム=マフディー)の出現を待望する思想が根強く、社会の動揺は救世主待望(メシアニズム)を刺激しました。こうした期待の地平において、アリー・ムハンマドが「バーブ」として自己理解を深めていく素地が形づくられます。
1844年、彼はシーラーズで最初の信奉者(しばしば「最初の十八人=生ける文字」と称されます)に対し、自らが「バーブ(門)」であると宣明しました。これは、隠れた導師(イマーム)と人々をつなぐ霊的媒介という意味を持ちます。のちに彼は自らの啓示の独自性を強め、単なる媒介者ではなく、新たな法(シャリーア)と啓典をもたらす主体として自己規定するようになります。この転換が、運動の宗教的重みと社会的緊張を一気に高めていきました。
教えと著作—『バヤーン』と新たな規範、言語と象徴の革新
バーブの教えは、クルアーンとシーア派伝承の語彙を踏まえつつ、新しい規範体系と象徴言語を提示しました。中心的著作は「アラビア語バヤーン」「ペルシア語バヤーン」と総称される啓示文書群で、祈り・断食・浄義・巡礼・婚姻・財産・刑罰など生活規範の詳細、共同体の構造、語と文字の神秘的意味づけが述べられています。彼は「新しい時代には新しい法がある」と告げ、従来の戒律の一部を緩和・改変し、儀礼の焦点や数の象徴を大胆に組み替えました。
特徴の一つは言語と記号体系の革新でした。バーブはアラビア語・ペルシア語を自在に用い、韻律と反復、数理的構造(19という数の重視など)を駆使して、啓示の語りを構成します。「生ける文字(ḥurūf al-ḥayy)」という概念に見られるように、文字そのものに霊的力を読み込み、書記と朗唱が信仰行為となる設計を示しました。書簡(タウキーアー)や問答形式の文も多く、王侯や高位ウラマーへの公開書簡は、社会へ向けられた挑戦状としての性格を帯びます。
神学的には、彼の自己理解は段階的に深化しました。初期には「十二イマームの末裔が再臨するまでの門」と自称しましたが、やがて自らを独立の啓示者と位置づけ、最終的には「神の顕現(ズフール)」という強い表現で自らの地位を語るようになります。これは同時代の多くの信徒に圧倒的な魅力を放つ一方、既存のシーア派神学と正面衝突する契機にもなりました。彼の法は共同体の内的規律を強く意識し、倫理においては暴力の自制、誠実と清潔、学びと労働の価値を説きましたが、現実には外在的な迫害と衝突が避けがたく、共同体の自己防衛や殉教観も形成されていきます。
著作のもう一つの柱は、クルアーン注解(タフスィール)と祈祷集です。彼はスーラ(章)ごとに新しい意味づけを与え、終末論的読解と象徴解釈を交えながら、現代の信徒に向けて「今ここで成就する啓示」を宣言しました。書記速度と分量は驚異的で、拘禁下でも次々と新しい章句が筆記されました。これらの文献は、のちの運動分岐においても権威を主張する根拠となり、解釈をめぐる論争の中心となります。
運動の展開と衝突—シーラーズからタブリーズへ、蜂起・裁判・処刑
1844年の宣明後、最初の弟子たちはイラン各地を巡り、説教と討論、書の頒布を行いました。中でもタブリーズ、イスファハーン、ブーシェフル、マザンダラーンなどの都市・聖地で教えは急速に広がり、商人・職人・学生・一部の聖職者が参加しました。信徒の中には、のちに著名になる女性指導者カーッル・アッラー(ターヒラ)がおり、彼女は公の場でヴェールを外す象徴的行為と、詩と演説による急進的メッセージで知られます。
しかし、急拡大は当局とウラマーの警戒を招きました。1845年以降、バーブ本人はシーラーズでの尋問や監視、さらにマフ・クーやチフリー近傍の城堡への拘禁を繰り返し受けます。彼の書は禁圧と押収の対象となり、しばしば焼却されました。1848年にはフーセイニーヤーン(バーダシュト)で一群の信徒が会合を持ち、旧律からの決別を象徴的に宣言したと伝えられます。この出来事は、運動内部での自己理解が「改良主義」から「新しい啓示」へと明確化した転回点と見なされます。
各地で衝突が起き、マザンダラーンのシャイフ・タバーラシーの聖域防衛戦(1848–49)、ザンジャーンの攻囲戦(1850)、ネイリズの戦闘など、信徒が籠城や交戦に追い込まれる事態になりました。多くの場合、発端は地元での挑発と衝突、当局の武力動員でしたが、信徒側も共同体防衛を正当化して武装し、包囲と飢餓ののちに鎮圧されました。これらの事件は、バーブ不在の地方で指導者たちが独自に動いた面もあり、運動の多様性と緊張を示します。
1848年、タブリーズでの宗教裁判では、バーブ本人の神学的主張が糾弾され、奇跡の有無や自称の根拠が追及されました。彼はしばらく再拘禁の後、1850年に改めてタブリーズで死刑判決を受け、軍隊による銃殺刑が執行されました。伝承では、最初の銃撃が失敗し繋縛が解けたため再拘束のうえ二度目で絶命したと語られますが、詳細は史料ごとに異なります。いずれにせよ、彼の処刑は広範な波紋を呼び、信徒に殉教観を刻印しました。遺体はのちに信徒によって秘匿され、長い潜匿の末に聖地へ安置されたと伝えられます。
継承・分岐と評価—アザリー派とバハーイー、近代史に残した影響
バーブの死後、運動の継承をめぐって見解が分かれました。バーブは生前、一定の指導権限を持つ人物としてミールザー・ヤフヤー(スブフ・イ・アザル)を指名したとする伝承があり、これに従う人々はアザリー派として後続期に活動しました。他方で、バハーウッラー(ミールザー・フセイン・アリー)は、のちに自らの顕示と教えを公にし、より普遍的な啓示の継承者として共同体を導きます。これが19世紀後半にバハーイー教として結実し、世界宗教として拡大していきました。バハーイー教では、バーブは「神の顕現の連続」の一段階として位置づけられ、彼の啓示はバハーウッラーの普遍啓示への準備として理解されます。
イランの近代史において、バーブとその信徒は、宗教改革と社会改革の想像力を刺激しました。女性の教育や社会参加をめぐる言説、啓蒙と翻訳、印刷と出版の活性化、近代法の感覚など、多くの領域でバービー/バハーイーの影響が観察されます。同時に、迫害と差別の歴史は現代に至るまで続き、宗教的少数者の権利と市民的自由をめぐる課題として国際的に注目されてきました。
評価は分極的です。信奉者にとってバーブは、神の言葉を新たに語り、宗教の刷新と人倫の浄化を促した偉大な啓示者です。他方、当時のウラマーと国家にとって彼は、教義や権威の根幹を揺るがし、秩序に挑戦する危険な運動の首魁でした。歴史学的には、メシアニズムが社会危機とどのように相互作用するか、啓示の言語が共同体形成にいかに寄与するか、国家と宗教権威が新興運動にどう反応するか、という比較史の観点から検討されています。彼の著作の文献学的研究は進んでおり、写本や版の比較、語彙と構文の分析、法条文の体系化、受容史の解明が進展しています。
史料面では、信徒側の年代記・書簡・詩、対立側の裁判記録・法学者の意見書、欧州宣教師や外交官の報告など、異なる立場の資料が相互に照らし合わされています。これらを丁寧に読み解くことで、単純な聖者伝や弾圧史を超えた、複雑な社会過程としての宗教運動史が見えてきます。短命に終わった人物でありながら、サイイド・アリー・ムハンマドの語った言葉と生き様は、イランと世界の宗教史に長い影を投げ続けているのです。

