ジズヤ(jizya, الجزية)は、イスラーム政権下で契約上の保護民(ズィンミー)に課された人頭税を指す用語です。古代・中世の地中海世界に広く見られた住民課税の慣行を受け継ぎつつ、イスラーム法(フィクフ)の枠組みの中で「信仰共同体外に属する成員が、生命・財産・信仰の保護と一定の公共サービスの見返りとして国家に支払う負担」として位置づけられました。対象は主に啓典の民(キリスト教徒・ユダヤ教徒など)で、女性・未成年・奴隷・貧困者などは原則として免除、また軍務への奉仕や特別の契約を通じて免除・減免が行われることもありました。ジズヤは土地課税(ハラージュ)と並ぶ財政の柱でありながら、実務と規模は時代・地域・宗派の学説により大きく異なります。近世に入ると徴税体系の再編と市民的平等観の浸透により多くの地域で縮小・廃止され、今日では歴史的概念として扱われます。要するにジズヤは、宗教と国家の境界、保護と負担の交換、社会の包摂と区別をめぐる歴史的制度であり、その運用をたどることでイスラーム世界の統治・多宗教共存の現実を具体的に理解できる用語なのです。
起源と法的枠組み――ズィンマ契約、経典根拠、ハラージュとの関係
ジズヤの観念は、征服後に現地住民と結ぶ「ズィンマ(保護)契約」によって制度化されました。ズィンマは国家(支配者)と被保護民との相互契約で、被保護民は税を納め、一定の公序を守る代わりに、生命・財産・礼拝の自由、自治の一部(宗教法廷・教会運営等)の維持を認められるとされました。イスラーム法学の古典は、ジズヤの対象者、額、徴収方法、免除範囲を詳細に論じ、ハナフィー、シャーフィイー、マーリク、ハンバル各学派の見解に微妙な差異があります。
経典上は、クルアーン第9章29節がしばしば根拠として議論されますが、学説は当該句の歴史的状況や適用条件をめぐって多様です。預言者ムハンマド期のアラビア北部・オアシス都市との合意文書や、正統カリフ時代(特にウマル)の書簡に、初期の課税慣行がうかがえます。初期イスラーム国家は、サーサーン朝やビザンツの財政制度(人頭税・地租)を実務的に継承し、アラブ・ムスリムの納税や兵役の取り扱いを調整しながら、被征服民社会を大枠維持して統治しました。
ジズヤと並ぶ重要概念がハラージュ(kharāj, 土地課税)です。簡略にいえば、ジズヤは人にかかる定額的負担(能力に応じ階梯を設けることもある)で、ハラージュは土地・収穫にかかる負担です。両者の境界は時代により変動し、改宗・移住・土地の性質(土地の「ハラージュ地」指定)によって課税関係が組み替えられました。一般に、改宗(イスラームへの帰依)者はジズヤを免れるのが原則とされますが、土地のハラージュはそのまま維持されることが多く、これが財政安定の鍵となりました。
免除と減免の原則も制度の重要部分です。古典法は、女性、未成年、老人、重度の障害者、僧侶(労働収入を持たない在俗外の者)、極貧者、奴隷などをジズヤの対象外とする場合を想定し、また軍役・治安維持・行政補助などの公共奉仕に従事する被保護民は免除・軽減される余地がありました。現実には、地方財政の窮迫や徴税人の収奪的慣行により、理念から逸脱した過重負担が生じることもあり、統治の成否は規範と実務の距離に大きく左右されました。
実務と運用――ウマイヤ朝・アッバース朝からオスマン・ムガルへ
古代末期から中世にかけての西アジアでは、ビザンツのカピタティオ(人頭税)やサーサーン朝のジズヤ/ギザートに類似する制度が整っていました。ウマイヤ朝はこれを受け継ぎ、地方の徴税官(アーミル、サーヒブ・アル=ハラージュ)を通じて徴収を体系化しました。初期には、改宗者に対しても行政上の便宜から旧来のジズヤを継続徴収する混乱があり、ウマル2世(717–720)が「改宗者からはジズヤを免除すべし」との改革を試みたことが史料に見えます。これは国家収入の構成転換(人頭税→土地税・関税・商税)を促す契機となりました。
アッバース朝期には、帝都バグダードを中心に財務官僚制が成熟し、ジズヤは他の税目(商税、関税、ハラージュ)とともに帳簿管理の対象となります。都市のユダヤ教徒・キリスト教徒共同体は宗教法廷やコーポラティブな自治(ベイト・ディン、教会組織)を維持し、その引き換えとしてジズヤを集中的に納める形が一般化しました。学術・医療・翻訳など高度職能を担う被保護民は重用され、契約の交換的性格が強く意識されました。
オスマン帝国では、ジズヤは「ジズイェ(cizye)」として制度化され、近世財政の重要項目となります。17世紀末には課税単位を成人男子ごとから家計・富裕階層ごとに再編し、富裕・中位・貧困の三階梯(アラ、エウサト、エドナ等)で定額を割り付ける方式が整いました。徴収はミレット(宗教共同体)を通じた割当が基本で、共同体の指導者が内部で配分し、国家に納付する仕組みです。兵役義務は原則ムスリムに課され、被保護民はジズヤによって軍役免除の対価を支払うという建付けが整えられました。19世紀タンジマートでは、1856年の「改良勅令」により宗教平等が宣言され、ジズヤは事実上廃止され、軍役免除金(ベデリ・アスクリー)など、宗教を基準としない代替制度に置換されました。
ムガル帝国では、アクバル(位1556–1605)が寛容政策の一環としてジズヤの撤廃に踏み切り、王府への参入を宗教で隔てない路線を打ち出しました。その後シャー・ジャハーン期を経て、オーラングゼーブ(位1658–1707)が1679年にジズヤを復活させ、非ムスリムの反発と地方勢力の自立を招いたと評されます。ただし帝国の財政構造の中でジズヤ収入は全体の一部で、最大の税源は土地収入(ザブト)でした。復活の象徴性は大きかったものの、徴税実務は地域差が強く、免除・逃避も広く見られました。ムガル末期の混乱と植民地支配の進展で制度は消退し、英領インドでは宗教差別的税体系は正式には採用されませんでした。
マムルーク朝エジプトやアンダルスでも、ジズヤは都市財政の要素でしたが、海上通商・関税・農地地代が相対的に重要で、ジズヤは都市のギルド・宗教共同体による集金と連動しました。徴税実務は「請負(イリティザーム、ティマール)」や短期の税農制と絡み、過重負担と収奪の温床にもなり得ました。
社会的機能と論点――共存の制度、境界線、倫理的評価
ジズヤは、イスラーム国家における多宗教社会の運営コストを分担する仕組みとして機能しました。被保護民は宗教施設の維持、信仰実践、コミュニティ内の私法(婚姻・相続)の自律を確保し、国家は治安・インフラ・司法の枠組みを提供し、その代価としてジズヤが支払われるという図式です。軍役免除との交換という要素は、前近代的な職分秩序(ムスリム=戦士共同体の中核、被保護民=納税・技能提供)を正当化しました。
同時に、この制度は宗教的区別を法的・財政的に固定化する作用を持ちました。身分表示(衣服・騎乗・建築高さなどの規制)の強弱は地域・時代で差がありましたが、税負担の差異は社会的境界を可視化し、差別的実務や恣意的増税の口実になる危険が常にありました。史料には、徴税官の横暴や、徴収の場での屈辱的慣行を批判する同時代人の声も残ります。他方、行政が規範に従い免除規定や共同体割当を遵守した時期・地域では、制度が安定した共存の基盤として働いた例も多く、評価は単純ではありません。
改宗との関係も論点です。初期には、改宗者からなおジズヤを取る実務が一部で見られ、これが改宗インセンティブを歪め、また不正の温床となりました。ウマル2世の改革以降、原則として改宗者のジズヤ免除が徹底される方向に動きましたが、地方の実態は揺れました。国家財政はハラージュ・関税・商税・農産物課税などに重心を移し、ジズヤの相対的比重は縮小していきます。
倫理的評価に関しては、近代以降、宗教的平等・市民権の観念の広がりとともに、宗教で税負担を区別する制度は批判の対象となりました。19世紀の改革(オスマンのタンジマートなど)は、ジズヤ廃止を象徴的措置として掲げ、宗教横断の単一国籍の創出を目指しました。現代の歴史研究は、ジズヤを一律に差別税と断じるのではなく、当時の比較制度(キリスト教王国のユダヤ税・身分税、近世ヨーロッパの宗派差別)と対照しながら、具体の運用・免除・代替制度の詳細に目を向けます。
近代以降と記憶――廃止、代替制度、歴史意識の中のジズヤ
19世紀の世界的な国家再編の中で、ジズヤは急速に廃止または形骸化しました。オスマン帝国は1856年に宗教平等を宣言し、ジズヤに代えて兵役免除金(ベデリ・アスクリー)を導入、徴税単位も宗教共同体ではなく個人・家計へと移行しました。エジプト、チュニジア、イランなどでも、財政・軍制改革の一環として宗教差別的税目は整理され、国籍と納税義務の関係が再定義されます。南アジアでは、ムガル末期に制度的根拠が弱まり、植民地期には宗教で税を区別しない租税体系が導入されました。
20世紀以降のイスラーム法学・思想史では、ジズヤは歴史的制度として再位置づけられ、近代国家の平等原則と両立するか否かをめぐって議論が続きました。多くの国で宗教に基づく課税差別は禁止され、ジズヤは実務的には存在しません。他方、文学・歴史叙述・コミュニティの記憶の中では、保護と差別、安定と屈辱という二面性をめぐる語りが残り、ユダヤ・キリスト教共同体の歴史意識、またナショナリズムや宗派対立の語彙に影響を与えています。
現在の研究は、ジズヤを国家財政史・都市史・宗教間関係史の交点として捉え、課税台帳・共同体記録・裁判文書・説教集・旅行記などの多様な史料を突き合わせることで、地域差と時代差を精密に描き出しています。これにより、制度の理念と現実の乖離、行政の能力と腐敗、共同体の交渉力、国際商業ネットワークの影響といった要因が、徴税の実相を左右したことが明らかになりつつあります。
総じてジズヤは、イスラーム世界の統治と共存の現実を映す鏡でした。宗教共同体ごとの自治と負担の配分、軍役・納税と市民権の関係、国家の財政需要と宗教倫理の調停——これらの課題は、時代を超えて社会の統治構造に現れます。ジズヤの歴史を学ぶことは、宗教と国家、少数者の権利と公共財政、制度設計と運用の間に横たわる緊張を、具体的な事例から理解することにつながるのです。

