「常勝軍(じょうしょうぐん)」とは、19世紀半ばの清王朝で太平天国の乱を鎮圧するために編成された洋式軍隊の呼び名で、欧米人将校と中国人兵士からなる混成部隊のことです。もともとは上海周辺を守るために組織された地方防衛軍が出発点で、その後、アメリカ人のフレデリック=タウンゼント=ウォードやイギリス人将校チャールズ=ゴードン(戈登)が指揮官として参加し、近代的な訓練と装備を備えた「常に勝利を収める軍隊」として名を上げました。
この「常勝軍」という名は、日本語の発想ではなく、当時の中国側がその戦果をたたえた呼称です。欧米式の銃・大砲を装備し、西洋式の戦術で統制されたこの部隊は、伝統的な八旗軍や緑営が太平軍に苦戦するなかで、次々と勝利を重ねたため、「常勝の軍」として注目を集めました。一方で、その編成や指揮に外国人が深く関わっていたことは、清王朝が外国勢力の力を借りなければ国内反乱を抑えられなくなっていた状況を象徴する出来事でもあります。
常勝軍は規模そのものは中国全土から見ればそれほど大きくありませんでしたが、その存在は象徴的でした。近代的な装備と訓練を備えた軍隊が、中国の伝統的な軍制の中に初めて本格的に組み込まれた事例の一つだったからです。常勝軍の経験は、その後の湘軍・淮軍の近代化や、洋務運動における新式軍の創設にも影響を与えました。
以下では、常勝軍がどのような背景の中で生まれ、誰がどのように率い、どのような戦いを経験し、そしてその後どのような意味を持つようになったのかを、少し詳しく見ていきます。
常勝軍の基本イメージと位置づけ
常勝軍は、中国語では「常勝軍」あるいは「常勝軍隊」と表記されます。漢字どおり「いつも勝つ軍隊」という意味で、公式な正規軍の名称というよりは、戦場での連勝ぶりをたたえるニックネーム的性格も持っていました。西洋の史料ではしばしば “Ever Victorious Army(エヴァー・ヴィクトリアス・アーミー)” と呼ばれ、この英語名がそのまま紹介されることもあります。
常勝軍の最も重要な特徴は、「西洋式の装備と訓練を採用した中国人部隊」である点です。兵士の大半は中国人であり、上海や周辺地域の住民・傭兵・元兵士などから募集されました。一方、上級の軍事顧問や一部の将校には欧米人が登用され、彼らの指導のもとで、西洋式の射撃訓練や隊列運動、砲兵運用が導入されました。
また、常勝軍は清王朝の中央政府が直接編成した正規軍というより、当初は上海周辺の地方行政・商人層・外国勢力の利害が交錯する中で生まれた「半ば私設的な防衛軍」としての性格を持っていました。太平天国の軍勢が長江下流域に迫ると、上海や蘇州など沿岸都市の治安が脅かされ、中国人の地主や商人だけでなく、租界を持つ外国勢力も大きな危機感を抱くようになります。こうしたなかで、「上海を守るための新式軍隊」が求められ、その要望にこたえる形で組織されたのが常勝軍だったのです。
したがって常勝軍は、単なる一地方軍であると同時に、「中国が外国の軍事技術と組織を取り入れ始めた初期の実験」の場でもありました。その活動は、伝統的軍制と近代的軍隊の中間に位置する存在として、中国近代軍事史の中でしばしば取り上げられます。
成立の背景:太平天国の乱と上海防衛
常勝軍が生まれた直接の背景は、太平天国の乱の拡大です。太平天国の乱(1851〜1864年)は、洪秀全を指導者とする巨大な反乱で、華中・華南の広い範囲を支配し、南京を占領して「天京」と改称するなど、清王朝の存立を直接脅かしました。太平軍は農民や貧困層を多く取り込んだ大規模な軍事勢力となり、同時期のアロー戦争や地方反乱と連動して、中国全土を不安定にしました。
この中で、経済と貿易の重要拠点である上海は特別な位置にありました。上海にはすでに英仏などの租界が置かれ、外国商人や宣教師が多数居住していました。太平軍が長江下流域に進出し、上海周辺に迫ると、清朝だけでなく、外国勢力にとっても重大な利害がからむ問題となります。もし太平軍が上海を制圧すれば、清王朝との条約にもとづく貿易や租界の権益が危うくなるからです。
そこで、上海周辺の治安維持と太平軍の撃退のため、地方の有力者や外国人顧問が中心となって新たな防衛部隊を編成する動きが生まれました。最初は地方の団練(自衛組織)や雇われ傭兵の集合体のような形でしたが、次第に欧米人将校が訓練・指揮に関わるようになり、組織だった洋式部隊へと発展していきます。この過程で頭角を現したのが、アメリカ人冒険家フレデリック=タウンゼント=ウォードです。
ウォードは、上海の中国人商人や地方官との協力のもと、地元の若者や傭兵を集めて洋式銃で武装させ、自らこれを指揮しました。当初は敗北も経験しましたが、徐々に戦術や訓練を整え、太平軍に対して一定の戦果を挙げるようになります。こうした連勝ぶりが「常に勝つ軍」として評判となり、「常勝軍」の名が広まっていきました。
その後、常勝軍は清朝の公式な承認と支援も受けるようになり、太平天国鎮圧のための重要な戦力として位置づけられます。しかし、その出発点はあくまで「上海防衛のための半私設軍隊」であり、この特異な成立事情が、後の軍隊組織や指揮系統のあり方にも影を落とすことになります。
ウォードとゴードン:常勝軍を率いた外国人指揮官
常勝軍の歴史を語るうえで欠かせないのが、フレデリック=タウンゼント=ウォードとチャールズ=ゴードンという二人の外国人将校です。彼らは中国人兵士からなる常勝軍を訓練・指揮し、その戦闘力を大きく引き上げた人物として知られます。
ウォードはアメリカ出身の冒険家で、東アジアで傭兵や軍事顧問として活動していました。上海で常勝軍の原型となる部隊を組織し、欧米式の銃器と戦術を導入します。彼は現場に立って兵士を指揮し、攻城戦や防衛戦で大胆な作戦をとることが多く、しばしば自ら先頭に立って戦いました。そのカリスマ性と実戦経験は、常勝軍の士気を高める大きな要因となりましたが、同時に危険を伴うものであり、最終的に彼自身も戦闘で負傷し、命を落とすことになります。
ウォードの死後、常勝軍の指揮を引き継いだのがイギリス陸軍将校チャールズ=ゴードンです。ゴードンは後に「中国のゴードン」「ゴードン将軍」と呼ばれ、イギリス本国でも英雄視される人物となりました。ウォードに比べるとゴードンはより規律重視・慎重な指揮官であり、兵士の訓練や秩序維持、軍紀の徹底を重んじました。
ゴードンのもとで、常勝軍は太平軍との戦闘で数々の勝利を収め、特に蘇州・常州など長江下流域の重要都市の奪回に貢献しました。彼はしばしば清朝側の地方指揮官(李鴻章など)と協力しながら作戦を立て、どの都市をいつ攻めるか、どのように包囲し砲撃するかを慎重に判断しました。ゴードンの指導のもとで、常勝軍は小規模ながらも高い機動力と火力を発揮し、太平天国の勢力を徐々に押し戻していきます。
ただし、ゴードンと清朝当局との関係は必ずしも平坦ではありませんでした。処遇や戦利品の扱い、ときには投降した太平軍指揮官の処刑をめぐって、彼は清側のやり方に強い不満を抱くこともありました。道義的な観点から処刑に反対し、李鴻章らと対立したというエピソードは、後にゴードンの人格を美化する物語として語られることもあります。
いずれにせよ、ウォードとゴードンという二人の指揮官のもとで、常勝軍は太平天国鎮圧の局面で大きな役割を果たしました。その指揮系統には常に外国勢力の思惑が絡んでいたため、純粋に「清朝の一部隊」とみなすことはできませんが、「外国人将校+中国人兵士」による混成軍の成功例として、後世に強い印象を残しました。
常勝軍の構成・訓練と戦い方
常勝軍の兵士は主に中国人ですが、その編成や訓練には西洋式の要素が多く取り入れられました。部隊は歩兵・砲兵・工兵などに分かれ、近代的な小銃・大砲・ロケット砲などを装備しました。当時の中国の正規軍である八旗軍や緑営は、旧式の銃や槍・刀に頼る部分が大きく、隊列訓練や射撃訓練も十分ではありませんでしたが、常勝軍では射撃精度や隊列運動の技術が重視されました。
また、常勝軍は給与制度の面でも特徴的でした。兵士たちは比較的高い給金を受け取り、戦功によって報奨を得る仕組みが導入されました。これは、慢性的な給与遅配や略奪に頼りがちな旧来の軍隊とは異なり、兵士の職業軍人化を促す要素でもありました。給与が支払われることによって兵士の離反を防ぐと同時に、規律を守らせる根拠にもなりました。
戦術面では、常勝軍は砲兵力と歩兵の連携を重視しました。太平軍の拠点となっている城や町を攻撃する際には、まず砲兵が城壁や防御陣地を砲撃して弱体化させ、続いて歩兵が突撃するという近代的な攻城戦術を用いました。また、河川や運河の多い長江下流域では、蒸気船や武装船を活用した水上戦も行われました。これにより、太平軍の補給線を断ったり、機動的に部隊を移動させたりすることができました。
一方で、常勝軍は兵力規模の点では決して圧倒的ではありませんでした。数万〜数十万規模の兵力を動かした湘軍や八旗軍に比べると、常勝軍の兵士数は数千〜せいぜい一万前後とされることが多く、大兵力の正面衝突よりも、要所要所での機動的な攻撃や防衛に力を発揮しました。いわば、「局地戦のスペシャリスト」として、太平天国鎮圧の中で特定の都市や戦線を担当する役割を果たしたといえます。
このように、装備・訓練・給与・戦術のいずれの面でも、常勝軍は清王朝の伝統的軍隊とは異なる近代的性格を備えていました。その存在は、後に洋務運動の中で各地に新式軍が設立されていく際のモデルの一つとなりました。
常勝軍のその後と中国近代史への連なり
太平天国の乱が1860年代半ばにかけて鎮圧されていく過程で、常勝軍の役割も徐々に終わりを迎えました。太平軍の拠点都市が次々と落とされ、最後に天京(南京)が陥落すると、常勝軍はその存在理由を失っていきます。ゴードンは清朝への協力を解き、イギリス軍の任務へと戻りました。常勝軍の兵士たちの一部は解散し、一部は他の部隊に編入されるなどして、組織としての常勝軍は解体されていきました。
しかし、常勝軍が残した影響は、その解体後も続きました。第一に、外国人将校と中国人兵士からなる洋式軍が一定の成果を挙げたことで、「西洋式の訓練と装備を取り入れれば、中国軍も近代的な戦闘力を持ちうる」という認識が清朝内部に広まりました。これは、曾国藩・李鴻章らが推進した洋務運動の中で、新式陸軍・海軍を創設する際の精神的な支えの一つとなります。
第二に、常勝軍の経験は、李鴻章が率いた淮軍など、地方軍の近代化にも影響を与えました。淮軍は湘軍のような郷勇的な性格を持ちながら、武器輸入や訓練の面で西洋式を取り入れていきますが、その際に常勝軍が用いた戦術や組織形態が参考にされたと考えられます。つまり、常勝軍は規模こそ小さいものの、中国の地方軍事力が近代化の方向へと舵を切る際の一つのモデルケースとなったのです。
第三に、常勝軍は「外国勢力と清朝の関係」を象徴する存在でもありました。清王朝は、国内反乱の鎮圧に外国の軍事力と技術を頼らざるを得ないほど弱体化していた一方で、外国側も自らの権益を守るために清朝を支援する必要がありました。常勝軍は、そのような相互依存関係の中で生まれた「共同の軍隊」として、半植民地化が進む中国の複雑な国際環境を体現していました。
その後、中国はアロー戦争、日清戦争、義和団事件など、さらなる対外戦争と国内動乱を経験していきます。そのたびに、新式軍の整備や軍制改革が試みられましたが、常勝軍はその初期段階における一つの試行錯誤として位置づけることができます。現代から振り返ると、常勝軍は「近代的軍隊とは何か」を、清朝と中国人エリートたちに体験を通じて教える役割を果たしたと言えるでしょう。
このように、常勝軍は太平天国の乱という一つの内戦に登場した特殊部隊であると同時に、中国が近代国家として軍隊を再編していく長い過程の中で、早い段階に現れた実験的な存在でした。洋式装備や訓練、外国人指揮官との協力といった要素を通じて、伝統的な軍制と近代的な軍隊との間に橋を架ける役割を担った点に、その歴史上の重要性を見ることができます。

