丞相の廃止 – 世界史用語集

「丞相の廃止」とは、中国の明朝の初め、洪武帝(朱元璋)が中央政府の最高官職であった「丞相」を制度としてなくし、その職務を皇帝と他の官庁に分散させた出来事を指します。長い中国史の中で、皇帝を補佐する最高官として大きな権限をふるってきた丞相が公的に姿を消したことは、皇帝権力のあり方や官僚制度の構造を大きく変える転換点となりました。

古代から秦・漢、唐・宋・元に至るまで、丞相や相国と呼ばれる地位は、実質的に「首相」「宰相」にあたる役職でした。しかし明の洪武帝は、有力な丞相が皇帝の権威を脅かす危険を強く意識し、胡惟庸(こいよう/フー・ウェイヨン)らの案件をきっかけとして、中書省そのものを廃止し、丞相職を制度として消し去ります。これによって、中国の伝統的な「皇帝+丞相」という二重構造は終わりを迎え、「皇帝が直接六部を指揮する」体制が形づくられていきました。

その後の中国では、「丞相」という官名は基本的に復活せず、清代にいたるまで、実質的な宰相の役割は「内閣大学士」や「軍機大臣」など別の肩書を持つ官職が担いました。つまり、丞相の廃止は単なる一時的な制度変更ではなく、中国帝国の後半の政治構造を長く規定する重要な決定だったと言えます。

以下では、まず丞相という職の歴史的な位置づけを簡単に振り返り、その上で明朝における廃止の経緯とその背景、さらに廃止後の官僚機構の再編と、その長期的な影響について、もう少し詳しく説明していきます。

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長い伝統を持つ丞相制度とその「危うさ」

丞相の廃止を理解するには、まずそれまでの中国において丞相がどれほど重い役職だったかを押さえる必要があります。戦国時代から秦・漢にかけて、丞相や相国は、王・皇帝に次ぐ地位に置かれ、行政全般の最高責任者として政府を取り仕切る役割を担っていました。官僚の任免、財政の管理、法律の運用、地方統治の監督など、多くの権限が丞相のもとに集中していたのです。

秦の李斯や漢の蕭何・曹参、唐や宋の名宰相たちは、いずれもこのポジションに就いた人物です。彼らの中には、皇帝をよく補佐して国家の安定に貢献した人物もいれば、権勢を利用して政治を私物化したと批判される人物もいました。丞相は巨大な権限を握るがゆえに、善政の源にもなれば、腐敗や専横の温床にもなりうる存在だったのです。

皇帝にとって、丞相は頼りになる右腕であると同時に、潜在的なライバルでもありました。若い皇帝や政治に疎い皇帝のもとでは、丞相が実権を握り、「君弱臣強」と評される状況が生まれました。また、丞相の一族や派閥が宮廷内で力を持ちすぎると、他の官僚や皇族との対立を招くこともありました。

そのため、王朝が変わるたびに、「丞相にどこまで権限を与えるか」「丞相の地位をどう位置づけるか」は政治改革の重要テーマとなりました。唐・宋の時代には、形式上の丞相のほかに、中書省・門下省・尚書省など複数の官庁に権限を分散させ、複数の高官が合議で政務を行う「宰相団」的な体制が整えられます。これは、一人の丞相への権力集中を防ぐ工夫でもありました。

しかし、元朝のように遊牧系の支配者が中国全土を支配した王朝では、再び中書省丞相に大きな権限が集まり、丞相が皇帝に代わって政務を切り回す場面も多く見られました。明朝を開いた朱元璋は、まさにその元の支配から中国を奪い返した人物であり、「強すぎる丞相」が皇帝の地位を揺るがしかねないという恐れを強く抱いていたと考えられます。

こうした歴史的な経験が積み重なった上で、明初の「丞相の廃止」という決断が出てくることになります。そこには、長い伝統制度に対する警戒心と、皇帝自身が権力を集中しようとする強い意志が重なっていました。

明朝洪武帝による丞相廃止の経緯

明朝の太祖・朱元璋(洪武帝)は、貧しい出自から紅巾軍に参加し、各地の勢力を打ち破って元朝を倒し、自ら皇帝となった人物です。彼の統治スタイルは、強い警戒心と集権志向に特徴づけられます。功臣たちが自立して勢力を蓄えることを恐れ、しばしば粛清を断行したことでも知られています。

明朝成立当初、朱元璋は元朝の制度を一定程度受け継ぎ、中書省を中央行政の中枢機関として位置づけ、その長にあたる丞相を置いていました。その代表的な人物が胡惟庸です。胡惟庸は有能な官僚として頭角を現し、やがて中書省丞相となって政務の多くを取り仕切るようになりました。

しかし、洪武帝は次第に胡惟庸の権勢を危険視するようになります。胡惟庸が人事や情報を独占し、皇帝への報告を歪めているのではないか、さらには各地の武将と秘密裏に連絡を取って反乱を企てているのではないか、という疑いが深まっていきました。やがて、胡惟庸が謀反を企てたという嫌疑のもと、「胡惟庸の獄」と呼ばれる大規模な粛清事件が起こります。

胡惟庸自身はもちろん処刑され、その一族や多くの関係者も連座して処罰されました。この事件は、単に一人の丞相を排除するだけでなく、彼を中心とする官僚ネットワーク全体を解体するものでした。洪武帝はこの機会を利用して、「丞相という役職そのものが、皇帝の支配を脅かす温床になりうる」と判断し、制度そのものを改める決意を固めます。

こうして洪武帝は、中書省を廃止し、その長官である丞相職も同時に廃止してしまいました。中書省が担っていた政務の統括機能は、直接皇帝のもとに吸収されるか、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)と呼ばれる各担当官庁に分散されることになります。六部尚書たちはそれぞれの分野の長官として重要な役割を果たしますが、その上に一人の「丞相」が立って全体を束ねるという仕組みは消えました。

表向きは「宰相の職を廃し、君主自らが天下を裁く」という理想が掲げられましたが、実際には、洪武帝が膨大な政務を一人で処理できるわけではありません。そこで彼は、書類審査や草案作成などの実務をこなす側近グループを必要とするようになり、のちに「内閣大学士」と呼ばれるポストが生まれていきます。とはいえ、彼らには形式上の「丞相」という肩書は与えられず、あくまで皇帝の「秘書官」的な性格にとどめられました。

このように、明初の丞相廃止は、個人である胡惟庸への不信と粛清をきっかけとしながらも、より大きく見れば「丞相という制度そのものへの不信」と「皇帝への権力集中」の表現でした。この決定によって、中国の伝統的な政治構造は大きく方向転換することになります。

丞相廃止後の政治構造:六部と内閣大学士

丞相と中書省が廃止されたあと、明朝の中央政治はどのように運営されたのでしょうか。基本的な枠組みとしては、六部と呼ばれる官庁がそれぞれの分野を担当し、それを皇帝が直接統括する、という建前がとられました。吏部は人事、戸部は戸籍と財政、礼部は儀礼と外交、兵部は軍事、刑部は司法、工部は土木・工事を担当し、それぞれのトップに「尚書」が置かれました。

本来ならば、これら六部尚書が合議して政策を練り上げ、皇帝に奏上するというスタイルも考えられますが、洪武帝は六部の上に宰相的な存在が再び現れることを警戒し、権限の集中を避けようとしました。その結果、六部は互いに横並びで、最終的な統括はすべて皇帝が担うという体制が強調されます。

しかし現実には、膨大な文書や案件を皇帝一人がさばくことは不可能であり、政策の立案や文書整理、意見の調整を行う「頭脳集団」が必要でした。そこで宮中に設けられたのが「内閣」です。当初、内閣はもともと皇帝の側近として詔勅の起草などを行っていた翰林院の学者たちから選ばれ、「大学士」という称号を与えられました。

内閣大学士たちは、形式上は六部より官位が低いことも多かったものの、実務の面では六部から上がってくる案件を総合的に整理し、皇帝への奏上文を作成する役割を担いました。皇帝は彼らの意見に基づいて最終決定を下すことが多く、やがて内閣大学士は実質的に「宰相的な役割」を果たすようになります。

とはいえ、明朝では最後まで「内閣大学士=丞相」とは明言されませんでした。制度上はあくまで「皇帝の補佐役」であり、皇帝の意志に従う存在であることが強調され続けます。洪武帝の定めた「丞相廃止」という原則は、名目の上では守られ続けたのです。

清朝に入ると、初期には明の内閣制度が引き継がれましたが、やがて軍機処という新たな機関が設立され、軍機大臣が皇帝の最も重要な政策決定のパートナーとなります。彼らもまた「丞相」とは呼ばれなかったものの、事実上は宰相的役割を担いました。こうして中国の後期帝国では、「名目上は丞相を置かないが、実際には宰相にあたる側近グループが存在する」という二重構造が続いていきます。

丞相廃止の意義とその後の評価

丞相の廃止は、中国の政治文化にどのような影響を与えたのでしょうか。一つには、「皇帝の権力集中」の傾向を一段と強める効果がありました。従来は、皇帝と丞相が政治を分担し、ときには意見の対立や牽制が生まれることで、権力が一箇所に集中しすぎるのを防ぐ働きもありました。丞相廃止後は、そのバランスが崩れ、理屈の上では「すべての最終決定は皇帝一人の責任」というかたちになります。

もちろん、現実には皇帝が常に全てを把握できるわけではなく、内閣大学士や軍機大臣といった側近が大きな影響力を持ちました。しかし、それらの役職はあくまで「皇帝の私的補佐」と位置づけられたため、皇帝が気に入らなくなれば簡単に罷免できる性格のものでもありました。その意味で、制度的な安定よりも皇帝個人の資質に政治が左右されやすくなった側面があります。

もう一つの影響は、「首相」という概念のあり方に関わります。東アジアの政治文化において、長らく「君主の下に宰相がいて政治を取り仕切る」というイメージが共有されてきましたが、明以降の中国では、「名目上の宰相職を置かない」「皇帝が直接六部を統轄する」という建前が強く意識されました。これは後世、「強い君主」と「補佐役に過ぎない官僚」という構図を正当化する根拠ともなりました。

一方で、実務はやはり専門的な官僚集団が担わざるを得なかったため、内閣大学士や軍機大臣が半ば「隠れ丞相」のような役割を果たすことになりました。制度上は廃止されたはずの「丞相のような存在」が、名称を変えながら実態としては復活していたとも言えます。このギャップは、中国政治の特徴を考えるうえで興味深いポイントです。

近代になって、西洋型の立憲君主制や共和国制度が導入されると、「首相」や「総理大臣」という新しい役職名が登場しました。中国でも清末に「内閣総理大臣」が設置され、のちに中華民国の「行政院長」などが誕生します。これらの制度を理解する際にも、人びとはしばしば過去の「丞相像」や「宰相像」をイメージの基盤として用いました。つまり、丞相の廃止から数百年たっても、「君主の下で政治を取り仕切る最高責任者」という観念自体は完全には消えなかったのです。

このように、明初の「丞相の廃止」は、単に一つの官職名がなくなったというだけではなく、皇帝と官僚の関係、権力の分担のあり方、そして「首相」像の形成にまで長く影響を及ぼした出来事でした。名目上は皇帝への権力集中を実現しながらも、現実には「丞相的な役割」を担う新たなポジションが生み出されるという、制度と実態のずれもまた、この廃止のもたらした一つの特徴だったと言えるでしょう。