カトー・カンブレジ条約(1559年)は、16世紀前半から続いたハプスブルク家とヴァロワ家の長期抗争――いわゆるイタリア戦争――を終結させた、フランス・スペイン(およびイングランドを含む関連協定)間の包括的和平です。場所はフランドル境界近くの村カトー=カンブレジで、フランス王アンリ2世とスペイン王フェリペ2世の代表が交渉を重ね、翌日にフランスとイングランドの間でも関連条約が結ばれました。最大の眼目は、フランスがイタリア半島に対する宿願の請求権を実質的に放棄し、スペインがミラノ公国やナポリ王国などを基礎に半島支配の優位を確立した点にあります。あわせて、サヴォイア公国の回復や、フランスによるカレー(カレー=カレー港)の保持問題、婚姻同盟などが取り決められ、ヨーロッパの勢力図は「スペイン覇権の時代」へと転じました。結果としてイタリア戦争は終わり、列強の力点は宗教対立(フランスのユグノー戦争、ネーデルラントの反乱など)へ移っていきます。以下では、戦争の背景と交渉の経緯、条約の具体的内容、国際秩序の再編とその余波について説明します。
背景――イタリア戦争の総決算としての和平
15世紀末に始まったイタリア戦争は、フランス王権がミラノやナポリに対する継承権を主張して半島へ進出したことに端を発し、ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・のちスペイン)との長期対立へ発展しました。16世紀前半には、カール5世とフランソワ1世の対立が頂点を迎え、パヴィアの戦い(1525年)やローマ劫掠(1527年)などが相次ぎました。アンリ2世の代に入ると、フランスはドイツ諸侯やオスマン帝国と連携しながら帝国圏に圧力をかけ、トロワ司教領(メス・トゥール・ヴェルダン=いわゆる「三司教領」)を実効支配し、イタリアとアルプスの両面で揺さぶりをかけました。他方、スペイン=ハプスブルクはミラノ・ナポリ・シチリア・サルデーニャを押さえ、ジェノヴァ金融資本の支援とフランドルの富を背景に長期戦を耐える体制を整えていました。
1550年代に入ると、フランスはピエモンテやコルシカで前進する局面もありましたが、サン=カンタンの戦い(1557年)で痛打を受け、国庫・人員ともに疲弊します。スペイン側もフランドルや地中海で多戦線を抱え、いずれの陣営も決定的勝利を望みにくい状況でした。こうして両陣営は、諸侯・都市・教皇庁の利害を調整しつつ、総合和平に向けて交渉の糸口を探り、北仏とフランドルの境に近いカトー=カンブレジで会談が開かれるに至りました。交渉を潤滑にするため、婚姻同盟と領土返還を組み合わせる「古典的な外交パッケージ」が採用され、王家同士の姻戚関係が将来の安定装置として見込まれました。
条約の内容――領土・婚姻・相互承認のセット
1559年4月2日にフランス=スペイン間で締結された本体条約は、要旨として次の点を含みます。第一に、フランスはイタリアでの広範な請求権を実質的に引き下げ、ミラノ・ナポリなどに対する権利主張を停める代償として、アルプス西麓の一部や三司教領の実効保持、いくつかの国境要地の占有継続を確保しました。第二に、サヴォイア公国が回復され、公国君主エマヌエレ・フィリベルトはフランス王妹マルグリット・ド・フランスと結婚し、割譲・返還の細目が取り決められました。サヴォイアは長らくフランスに占領されていましたが、この回復により、アルプスをまたぐ緩衝帯としての役割を取り戻します。第三に、スペイン王フェリペ2世はフランス王女エリザベート(エリザベス・ド・ヴァロワ)と結婚することになり、王家間の結びつきが強化されました。これらの婚姻は、領土復帰の履行を担保する政治的装置として意味を持ちました。
翌4月3日に結ばれたフランス=イングランド間の関連条約では、イングランドが失ったカレーの扱いが焦点となりました。原則としては、フランスが一定期間(通説では8年)を経て巨額の保証金支払いを行えばカレー返還の義務を免除される、という条件付きの規定が置かれ、実際にはカレーは以後、恒久的にフランス領として定着していきます。カレーの喪失はイングランドの大陸拠点喪失を意味し、国内政治にも波紋を投げましたが、同時にイングランドは宗教改革・内政に軸足を移していく契機ともなりました。
細目では、コルシカ島の処理(ジェノヴァへの返還)、フランス・スペイン双方による捕虜交換、要塞の撤去・返還、国境監視の調整などが取り決められました。いずれも長期戦で複雑化した係争点を整理するための実務的合意で、商人の通行や通商保護に関する取り決めも付属しました。総体として、ヴァロワとハプスブルクの世俗的対立に区切りをつけ、イタリア半島におけるスペイン優位を「国際承認」する性格の文書だったと言えます。
再編された国際秩序――スペイン覇権とフランスの内向化
条約の最大の帰結は、イタリア半島におけるスペインの優位が制度化されたことです。ミラノ公国はスペイン王権の強固な橋頭堡となり、ナポリ王国・シチリア・サルデーニャと連動する「地中海の鎖」が完成しました。ジェノヴァの金融資本(とくにアスント諸家)はスペイン国債の主要引受けとして機能し、フランドルの財と地中海の艦隊が連動する「大西洋—地中海—アルプス」回廊が戦略的背骨となります。これにより、フェリペ2世はポルトガル併合以前から事実上の「世界帝国」の中枢を握り、のちのネーデルラント反乱やレパント海戦などの多戦線に対応する基盤を得ました。
一方のフランスは、対外戦争の終息によって財政の立て直しを図るはずでしたが、条約の直後にアンリ2世が祝宴の馬上槍試合で事故死(1559年)し、王権は未成年の国王たち(フランソワ2世、ついでシャルル9世)と摂政体制に委ねられます。ヴァロワ宮廷ではギーズ家・ブルボン家・モンモランシー家などの諸家が角逐し、宗教対立が政治の亀裂を拡大させ、1562年のヴァシー事件を契機にユグノー戦争へと雪崩れ込みました。つまり、カトー・カンブレジ条約はフランスの外征志向を終わらせた一方で、国内の宗教と貴族政治の問題を前景化させる転回点でもあったのです。
イングランドにとっては、カレー喪失の痛手が大きい反面、エリザベス1世期には海洋政策と国内統治に資源を集中させ、ネーデルラント支援や私拿捕船の活動、大西洋世界への進出など、新たな路線を整えていきます。サヴォイア公国は領土回復と王家婚姻を梃子に、のちに都をトリノへ移しながらアルプスの地域覇権を拡大し、17世紀以降のイタリア政治で存在感を強めました。
宗教面では、トリエント公会議(1545–63年)がちょうどこの時期に大詰めを迎えており、条約のもとで戦場が沈静化したことは、公会議の決定と対抗宗教改革の実施を促進しました。各地の主権者は、戦争終結で得た余力を国内の信仰統制・司教区改革・教育(イエズス会の学校網など)に向け、宗教と国家の再編を加速させます。結果として、対外戦から内政・宗教秩序の整備へという16世紀後半の潮流が、条約を機に一段と明確になりました。
その後の余波と記憶――「イタリアの時代の終わり」の象徴
カトー・カンブレジ条約は、イタリア戦争という「イタリア中心の国際政治の時代」の終わりを象徴する史実として記憶されます。フィレンツェやヴェネツィア、ローマ諸勢力が欧州大国の主戦場を提供していた15~16世紀前半に比べ、条約後の半世紀は、ネーデルラント・イングランド海域・中央ヨーロッパ(ボヘミアからドイツ諸邦へ)といった別の戦域が主舞台へと移りました。戦争の技術と財政も、この頃から「常備軍の維持」「官僚制と課税国家の発達」「傭兵市場の再編」という近世国家の基本へ比重が移り、スペイン・フランス・イングランドの国家形成に長期の影響を与えます。
条約はまた、婚姻外交の典型例として教科書的に引用されます。フェリペ2世とエリザベート・ド・ヴァロワの結婚は、当初スペイン‐フランス間の和平を確実にする政治装置として構想されましたが、若くして王妃が世を去るまでのあいだ、スペイン宮廷文化とフランス文化の交流の場ともなりました。エマヌエレ・フィリベルトとマルグリットの結婚は、サヴォイアの自立回復とアルプス外交の再活性化を意味しました。こうした婚姻は、近世ヨーロッパにおいて国境画定と同じくらい重要な「秩序形成の技術」だったのです。
とはいえ、この和平がすべての火種を消し去ったわけではありません。ネーデルラントでは1560年代後半から反乱が激化し、スペインは北方に新戦線を抱えます。フランスでは宗教内戦が断続的に続き、ナントの勅令(1598年)まで安定は訪れませんでした。イタリア半島でも、形式的な平和の陰で、諸侯の勢力均衡とスペイン駐屯軍の存在は政治の自由度を制約し、自治都市や公国はしばしばマドリードとウィーンの意向を窺いながら舵を切ることを余儀なくされました。
総じてカトー・カンブレジ条約は、フランスとスペインの長期抗争に区切りを付け、イタリアにおける覇権をスペインに確定させ、ヨーロッパ政治の重心を宗教と国家建設へとシフトさせた和平でした。戦場の地図を塗り替えただけでなく、婚姻・財政・宗教政策が絡み合う「近世的統治」のテンプレートを可視化した点にこそ、この条約の重みがあると言えます。

