五・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に海軍の青年将校と陸軍士官候補生、民間右翼の一部が連携して決行したクーデタ未遂であり、犬養毅首相が官邸で射殺された暗殺事件を中核とします。世界恐慌後の不況と農村疲弊、満州事変後の国際的孤立、海軍軍縮(ロンドン海軍軍縮条約)をめぐる内紛や政党政治への不信が背景にありました。犯行は首相官邸襲撃と同時に、政党本部や金融・通信インフラなどへの発砲・破壊の試みを伴う多発行動として実行され、即日鎮圧されます。直接の持続的占領や政権奪取には至らなかったものの、事件後に成立した軍人出身の挙国一致内閣を境に、選挙で多数を得た政党が首班と閣僚を組織する「政党内閣」は実質的に終わりを迎え、軍部・官僚主導の体制とテロルの連鎖(二・二六事件)へと道が開かれました。司法過程で示された世論の同情と量刑の軽さは、法の支配よりも「目的の正しさ」への共感が優越しうる危うさを可視化し、日本の立憲政治の脆さを露呈させた出来事でもあります。以下では、前史と背景、当日の経過、裁判・社会反応、政治構造への影響という観点から整理します。
背景と前史:恐慌・軍縮・満州事変、そしてテロルの連鎖
1929年の世界恐慌は外需に依存した日本経済を直撃し、輸出不振と価格暴落が農村の生活を追い込みました。娘の身売りや欠食児童といった悲痛な報道が社会の不満を増幅し、既成政党の腐敗と結びつけて批判されました。政党内閣は金解禁の失敗や企業・財閥との結びつきから「私利の政治」と攻撃され、政治不信が高まります。こうした中で、軍は国家改造を掲げる若手の急進派と、統制志向の上層部に亀裂を抱えました。
軍事面では、1930年のロンドン海軍軍縮条約が火種でした。主力艦の保有比率や補助艦枠の制限は、海軍内部の「条約派」と「艦隊派」の対立を激化させ、政治が国防を売り渡したという言説が青年将校の怒りを煽りました。さらに1931年の満州事変で関東軍が独断専行し、民衆の喝采と国際社会の非難が交錯する中、政府の統制力の弱さが印象づけられます。満州国の樹立は対外強硬路線への支持を強め、武力行動を政治刷新の手段とみなす空気が広がりました。
直前の前史として、1932年2月には右派結社の一部が要人暗殺を連続実行した「血盟団事件」が起こり、前蔵相の井上準之助、三井財閥の団琢磨が殺害されました。個人テロはすでに現実の政治手段として機能しており、「一人一殺」の言葉が流布する環境で五・一五事件は準備されました。思想的には国家主義・農本主義・親軍的な民間運動の交錯があり、民意の一部がテロに道徳的正当化を与える危険な基盤が形成されていました。
当日の経過:首相官邸襲撃と同時多発の行動
1932年5月15日夜、海軍の青年将校らは首相官邸に突入し、犬養毅首相を射殺しました。面会に応じた犬養が説得の言葉をかけたと伝えられますが、襲撃側は応じず、短時間で致命傷を与えました。当日は、首相官邸襲撃と時間を合わせるように、政党本部や銀行・電信電話施設・変電設備などに対する発砲・破壊や占拠未遂が散発的に実行され、警察と軍により速やかに制圧されました。首相暗殺という一点で目的を達したのち、首謀者たちは「蹶起の趣旨を天下に明らかにする」として自首に踏み切ります。
犯行グループは、海軍の将校・下士官、陸軍の士官候補生、民間右翼団体の活動家が混成した小隊単位で構成され、議会政治や財閥支配、条約外交を「国体の危機」と断じていました。彼らは国家改造・統制経済・天皇親政・軍部権限の強化などを掲げ、政治の刷新を「昭和維新」と称しました。とはいえ、明確な政権掌握プランや長期の行政運営構想を欠き、象徴的破壊と見せしめによって政治の舵を切らせる「衝撃療法」を狙った行動だった点に、限界と危険性がありました。
当時、映画俳優チャールズ・チャップリンが来日し、犬養の子と相撲観戦をしていたため、標的に巻き込まれかねなかったことも知られています。結果として同席は避けられましたが、世界的な文化人に危害が及べば国際問題に発展していた可能性が高く、事件の無謀さと偶然性を象徴する逸話として語られます。
裁判と社会反応:同情・嘆願と量刑、法の支配の後退
逮捕後の手続きは軍法会議や特別裁判で進みました。被告側は国家改造の志と農村救済の必要を強調し、弁護側も政治的動機と貧困の現実を訴えました。裁判の過程で、青年将校らに対する減刑嘆願の署名や募金、激励の手紙が多数寄せられ、世論の一部が彼らを「真情の義士」と見る傾向が可視化されます。報道はセンセーショナルに事件を取り上げ、政治腐敗と軍部の不満、農村の窮乏を背景として読み解く記事が多く、法と暴力の関係に微妙な正当化の空気が混じりました。
量刑は相対的に軽く、死刑を回避した者が少なくありませんでした。重罰が抑制された理由には、(1)動機の「愛国性」を汲むべきだとする情緒的世論、(2)軍の体面と統制への配慮、(3)政権側が事件の政治的収束を優先した判断、が絡んでいました。結果として、政治テロに対する抑止シグナルは弱くなり、将来の模倣とエスカレーション(のちの二・二六事件)を誘発する副作用を生みました。法の支配にとって、犯罪の動機に共感して量刑を左右することがいかに危険かを示す事例です。
事件後、政党の責任論も高まりました。与党・野党の相互非難は信頼を回復できず、議会の機能不全が深刻化します。世論の一部は「政党を外した挙国一致」を支持し、政治の主導権は軍・官僚・重臣会議へと移動していきました。議会と内閣の距離が開き、選挙での授権が政策決定の中心でなくなる「立憲の空洞化」が進行します。
政治的影響と歴史的意義:政党内閣の終焉からテロルの連鎖へ
五・一五事件の直後、海軍大将の斎藤実を首班とする挙国一致内閣が成立しました。これは、政党から距離を置いた軍人・官僚・元老による調整内閣であり、以後の岡田啓介・広田弘毅らの内閣にも共通する「非政党化」の流れを決定づけました。内閣は国際連盟脱退後の対外政策を強硬に運び、国内では統制経済と国家総動員への道筋が整えられていきます。政党は入閣の外に置かれ、政策決定は軍部・官僚・枢密院・重臣会議に集約される傾向が強まりました。
制度面では、軍部の政治的発言力が増大し、軍事・外交の重大案件で議会・内閣の統制が効きにくくなります。陸軍・海軍省の大臣を現役武官に限る慣行は、のちに法制上も復活・強化され、軍が内閣の存立を左右できる構造的欠陥が固定化しました。軍需産業・財政・地方行政にまで軍の影響が浸透し、国民生活は統制と動員の枠組みに組み込まれていきます。
事件はまた、政治暴力の「有効性」を誤って証明する効果を持ちました。首班暗殺が政策方向を変え、政党政治を退場させたという事実は、青年将校や急進派に強い誘因を与えます。1936年の二・二六事件は、まさに五・一五で示された「衝撃による政治転換」の発想を拡大適用したものと位置づけられ、国政の麻痺と大規模な軍事反乱へとエスカレートしました。
外交的には、事件そのものが直接の国際危機を招いたわけではないものの、政党内閣の崩壊と軍主導の対外路線は、満州をめぐる国際社会との対立を深めました。条約協調からブロック経済と勢力圏の確保へ、海軍軍備の再拡張へと方針が傾斜し、太平洋戦争への長期的な道筋に布石が打たれます。もしチャップリンが巻き込まれていたならば、外交危機はさらに早く顕在化していた可能性があり、偶然が歴史の経路を左右し得ることも示唆しました。
歴史的意義として重要なのは、五・一五事件が「日本の立憲政治の薄氷性」を露呈させた点です。選挙と議会を通じた政権交代のルールが、暴力と非常時の言説の前にいかに脆弱であったか、そして司法・世論・メディアがテロを相対化することでどれほど抑止が損なわれるかが明らかになりました。事件を理解することは、民主主義の制度を支える社会的規範(暴力否定、少数派の保護、法の平等適用)を検証する作業でもあります。
同時に、事件の加害側だけでなく、農村・都市の生活苦、失業と貧困、政治の閉塞がどのように暴力への共感を生んだのかを読み解くことも欠かせません。経済政策の失敗や格差の拡大が社会の寛容性を削り、極端な解決策を誘惑的に見せる条件を作るという教訓は、時代と地域を超えて普遍的です。五・一五事件は、テロルと政治・経済・メディア・世論の相互作用を考えるための重要な手がかりを与えます。
総じて、五・一五事件は、単なる要人暗殺ではなく、選挙で選ばれた政権を暴力で転覆しうると示した象徴的転回点でした。事件後の「非政党化」と軍部の台頭、統制と動員の制度化、テロの連鎖という帰結は、日本が戦時体制へ歩む足取りを決定的に速めました。背景・経過・裁判・影響の四層を往復して理解することで、なぜ立憲政治が守れなかったのか、どの結節点で別の選択があり得たのかが見えてきます。その検討自体が、現代の私たちが民主主義を具体的に維持する方法を考える助けになるのです。

