ゴイセン(蘭語:Geuzen〈仏語由来で「乞食」〉)は、16世紀後半のネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)で、ハプスブルク家スペイン王権に対する抵抗運動に身を投じた貴族・都市民・私掠船団の連合的勢力を指す呼称です。1566年の貴族による高等政庁への嘆願に際し、宮廷側が彼らを侮蔑して「乞食」と呼んだのを、当人たちが逆手に取りスローガンとしたことに由来します。とくに海上で活動した「海のゴイセン(海上ゴイセン)」は、沿岸都市を奇襲し、スペインの軍事・補給・徴税ネットワークを撹乱しました。1572年のブリール(デン・ブリール)急襲・占拠は蜂起の連鎖を誘発し、八十年戦争(1568–1648)の分岐点となりました。宗教的にはカルヴァン派(改革派)信徒が多く、偶像破壊運動後の弾圧から逃れた亡命者や都市民、下層船員を抱えつつ、オラニエ公ウィレムの政治的指導と諸州の軍資金・私掠許可状(委任状)に支えられて戦いました。ゴイセンは、正規軍と民兵・私掠・都市自治の重層が絡む「海域ゲリラ」の典型であり、近世ヨーロッパにおける国家形成と宗教戦争、海上権力の再編を理解する鍵概念です。以下では、呼称の起源と社会的基盤、陸と海の作戦と転機、財政・法的枠組みと国際関係、そして長期的影響と評価の順に整理します。
呼称の起源と社会的基盤:侮蔑がスローガンへ変わるまで
1566年春、ネーデルラントの中・下級貴族を中心とする数百名が、ブリュッセルの総督マルガレーテ・ファン・パルマ(摂政)に対して、異端審問の停止や税制緩和を求める嘆願(通称「貴族同盟の誓約」)を提出しました。宮廷の一部が彼らを「gueux(乞食)」と嘲ったことが伝わると、同盟側は逆にその語を採用し、乞食袋や木盃を身につける象徴行為を広めます。ここから蘭語形 Geuzen が政治的自己呼称として定着しました。
構成員は一枚岩ではありません。上層には地域有力者や海商を背景に持つ貴族・都市指導層が参加し、下層には港湾労働者・沿岸の漁民・難民化したカルヴァン派信徒・冒険的な船員が集まりました。宗教的には、1566年夏の偶像破壊(ベールデンストルム)以後、カルヴァン派の集会(野外説教会)が弾圧され、逃亡者の受け皿としてゴイセンのネットワークが機能します。他方で、ルター派や温和なカトリック市民も地域事情に応じて協力し、反スペイン統治という大義が宗派横断の接着剤になりました。
政治的指導軸は、ハプスブルク体制の高官でありながら離反したオラニエ公ウィレム(ウィレム沈黙公)に収斂していきます。彼は一貫して「諸州の古来の権利・特権の防衛」を掲げ、宗教寛容(寛恕)を提唱しつつ、都市自治・州権・連合政治を組み合わせてスペインの集権化に対抗しました。ゴイセンは、その外縁で軍事的圧力と攪乱を担う準正規の兵力として位置づけられました。
陸と海の作戦:ブリール急襲、河口封鎖、ライデン救援
ゴイセンには、陸上で活動する徒党(陸上ゴイセン)と、船団を基盤とする海上ゴイセンが区別されます。前者は森や湿地帯を拠点に街道・徴税所・小要塞を襲い、後者は浅喫水の船で入江・干潟・運河網を縦横に動き、敵の大艦隊を回避しつつ補給線を断ちました。ネーデルラントの地理——多島海のような沿岸、干拓地、無数の運河と水門——は、正規軍に不利で奇襲・機動に適した海域戦を可能にしました。
転機は1572年4月1日、ルメイ伯(ラマルク伯)らが率いる海上ゴイセンがデン・ブリール(ブリール)を奇襲占拠した事件です。港湾管理権を奪われたスペイン側はゼーラント・ホラント沿岸の制海を喪い、周辺諸都市で反乱が連鎖しました。ホラント州・ゼーラント州はオラニエ公を総督に推戴し、以後、海上ゴイセンはこれら諸州の委任を受けた私掠船団として法的整備が進みます。1573年のハールレム包囲戦では、海上からの補給・撹乱が包囲戦の長期化に寄与し、翌1574年のライデン包囲戦では、水門を開いて土地を氾濫させ、ゴイセンの浅底船が町へ米と兵を運び込みました。この「水攻めの逆用」は、低地独特の治水・軍事の統合的知恵であり、都市防衛の象徴的勝利となります。
河口・運河の封鎖は、スペインの大陸軍(テルシオ)を脆弱化させました。オランダ海運に慣れたゴイセンは、潮汐・砂州・風の読みで優位に立ち、夜間奇襲や座礁誘導で敵艦を翻弄します。内海・干潟・浅瀬に強い彼らに対し、重装のガレオンや大型輸送船は不利でした。さらに、海上ゴイセンは英仏沿岸の港に寄港し、武具・穀物・塩・木材を補給しつつ、スペイン船・王党派の商船を拿捕して戦費を賄いました。この戦法は海賊との境界が曖昧になりやすく、各国の外交抗議の的にもなりましたが、諸州発行の私掠許可状(レター・オブ・マーク)が一定の法的正当化を与えました。
陸上では、都市内の宗派対立と結びつく形で、ゴイセンがカトリック聖職者・修道士を襲撃する過激化も見られました(例:ゴルクムの殉教者事件, 1572)。これらは国際世論の反発を招き、オラニエ公は規律の回復と宗教寛容の原則を再度強調する必要に迫られます。軍事的成功と政治的正当性維持の両立は、分権的な蜂起運動にとって常なる課題でした。
財政・法と国際関係:私掠、連合諸州、そして海域の外交
ゴイセンの活動を持続させたのは、(1)諸州の財政支援、(2)都市・行会の献金・物資、(3)私掠の戦利金という三位一体の資金源でした。諸州は委任状の発給と拿捕品の裁判(賞金裁判)制度を整え、戦利金の分配ルールを明確化しました。これにより、船長・船員のインセンティブが設計され、同時に無差別な掠奪への歯止めも(理論上は)機能しました。都市は倉庫・船渠・治安といった後方を担い、行会は帆・索具・火薬などの供給契約で戦時経済に組み込まれました。
法的には、私掠は当時の国際慣行であり、戦時における国家(もしくは諸州連合)からの委任によって私船が敵国商船を拿捕する制度でした。拿捕品は賞金裁判所で敵性の確認と合法性の審査を受け、正当とされれば売却されて船員・出資者・国庫に分配されます。スペインはこれを「海賊行為」と非難し、英仏は自国商圏保護の観点から、港湾受け入れや拿捕品の売買に条件を付けました。エリザベス朝イングランドは対スペイン戦略の一環として、しばしば黙認・便宜供与に傾き、ネーデルラント反乱の生命線を支えます。
外交的には、ゴイセンの存在自体が交渉材料でした。スペイン側の総督たちは、港湾経済の窒息を恐れ、停戦や交易再開の条件として海上ゴイセンの活動制限を求めました。オラニエ公は、海上封鎖・拿捕の圧力をテーブルに載せ、諸州の自治・宗教寛容の承認を譲歩として引き出す戦術を取ります。また、フランスのユグノー、ドイツの諸侯、北欧の諸王国など、宗派と地政学のネットワークが補助線として機能しました。ゴイセンの船団は、軍事ユニットであると同時に、連合外交の「可動的な発言権」でもあったのです。
軍事・財政・外交の三面は、しばしば緊張関係に立ちました。拿捕の拡大は戦費になり、敵の補給を断ちますが、中立国の反発と市場の混乱を招きます。宗教的急進は士気を高めますが、都市同盟の緩やかな包摂を難しくします。こうした相克を、オラニエ公は「寛容・連合・分権」の政治術で調整し、諸州は次第に恒常軍と課税制度(一般賦課)を整え、ゴイセンの〈準正規〉性を制度化していきました。
影響と評価:国家形成・海上権力・宗教政治の交差点
ゴイセンの活動は、八十年戦争の勝敗だけでなく、近世オランダ国家の形成に深く関わりました。第一に、海上ゴイセンが支えた制海権と河口支配は、ホラント・ゼーラントの都市共和国的自立を現実のものにし、港湾・金融・造船・魚業を核にした「水の共和国」の経済基盤を守りました。これが17世紀のオランダ黄金時代の前提条件となります。
第二に、私掠と委任状の制度化は、近世ヨーロッパの「戦争と商業の結合」という特徴を際立たせました。公権力は民間の航海技能と資本を戦争に組み込み、民間は国家の旗の下でリスクと利益を共有しました。のちに私掠は19世紀のパリ宣言(1856)で国際的に禁止されますが、その以前においては、国家形成と海上覇権の歴史を推進するエンジンでした。
第三に、宗教政治の次元で、ゴイセンはカルヴァン派の自律的共同体形成と、都市の自治権・寛容政策の拡大に影響しました。偶像破壊や聖職者迫害の過激さは厳しい批判の対象であり、実際、連合諸州は安定期に入ると規律化・法治化に力を注ぎます。それでも、宗派的少数派が政治的連合を組み、分権と寛容を統治の原理として掲げる契機を作った点は評価されます。
比較史的に見ると、ゴイセンはイングランドの私掠船(ドレイクら)やヒュゲノー私掠、ハンザ都市の海上同盟と同系列に位置づきますが、分水嶺は〈湿地・運河・干拓〉という地理条件を生かした「水攻め・氾濫の逆用」という戦術の制度化にあります。堤防と水門を公共事業として運営してきた低地の共同体経験が、戦時においても組織的意思決定と連動したことは、近世オランダの特異性を物語ります。
一方、ゴイセンの名声の陰には、宗派対立の暴力と難民化、拿捕経済の不安定、沿岸社会の荒廃など、負の遺産も確かに存在します。スペイン側の「血の審判所(アルバ公の特別法廷)」や軍の報復と相互に激化し、文民に犠牲を強いた側面は看過できません。ゆえに今日の歴史叙述では、英雄譚に回収せず、暴力の連鎖と統治の学習過程の双方を併せて検討する姿勢が一般的です。
総じて、ゴイセンとは「蔑称を自らの旗に変えた」人々の総称であり、都市・海・宗教が重なり合う近世ヨーロッパの縮図でした。彼らの船が干潟を滑るたびに、国家と市場、信仰と自治の境界線は引き直され、低地の水際に、近代の輪郭が少しずつ立ち現れていったのです。

