エリトリアは、紅海に面したアフリカの角に位置する国家で、港湾と高原の峠道を結ぶ地理を背景に、古代アクスム王国の海上交易、オスマン・エジプト・イタリアの支配、エチオピアとの併合と独立戦争、そして独立後の強い国家統制という複数の時代層が折り重なってきた地域です。首都アスマラは高原の冷涼な都市で、イタリア統治期に形成された近代都市景観を残し、紅海沿岸にはマッサワとアッサブという要衝港が並びます。住民はティグリニャ語・ティグレ語をはじめとする多言語から成り、キリスト教(テワヘド派)とイスラム教がほぼ拮抗する宗教構成を持ちます。20世紀後半には世界でも稀な長期の独立闘争(約30年)を戦い抜き、1993年に住民投票で独立を達成しました。独立後は一党体制的な統治と徴兵・国民奉仕の長期化、隣国との国境紛争や停戦・和解を経験し、外交・安全保障の選択が国内に直接反映されてきました。以下では、地理と社会、古代から植民地期、独立と国家形成、独立後の政治と外交、経済とインフラ、文化・言語・社会の順に整理して解説します。
地理と社会――高原・紅海・低地が交わる結節点
エリトリアは北をスーダン、西と南をエチオピア、南東をジブチに接し、東は紅海に長い海岸線を持ちます。地形は、標高2000m前後のエチオピア高原北端に連なるアスマラ高原、紅海沿いの狭い低地、内陸の半乾燥地帯に大別されます。高原部は気候が温和で穀物栽培と牧畜に適し、低地は遊牧と塩・魚介・港湾商業が中心です。紅海沖にはダフラク諸島などの島嶼が散在し、近海の航路・漁場・塩田と結びついてきました。
住民は多民族・多言語で、主な言語はティグリニャ語(エチオピア・エリトリア系セム語)、ティグレ語、アファル語、ベジャ語(ハディアレ)、サホ語などです。公用語は定めず、実務ではティグリニャ語とアラビア語、英語が広く使われます。宗教は、北部・沿岸のイスラム教徒と高原部のエチオピア正教(テワヘド派)信徒がともに多く、カトリックやプロテスタントも存在します。社会組織は、宗教共同体・氏族・村落単位の相互扶助が強く、ディアスポラ(海外移住者)の送金が家庭経済に重要な役割を果たしてきました。
古代から植民地期――アクスムの海、紅海帝国の狭間、イタリア統治
古代には、エリトリア沿岸はアクスム王国の外港として発展し、紅海の海上交易に結びついていました。『エリュトゥラー海案内記』やローマの文献は、ミュルラ・乳香・象牙・金・奴隷・穀物などの交易の存在を伝えます。中世以降、紅海沿岸はイスラム交易圏と結びつき、オスマン帝国やエジプトの勢力が港湾を掌握しましたが、高原の在地勢力は相対的な自立を保ちました。
19世紀末、アフリカ分割の波の中でイタリアが紅海沿岸に進出し、1880年代にアッサブ・マッサワを拠点として内陸へ拡張、1890年に「エリトレア植民地」を正式に成立させます。イタリアは道路・鉄道(アッサブ・マッサワと高原を結ぶ山岳鉄道)・港湾・行政機構を整備し、アスマラとマッサワを中心に近代都市計画と工業化を進めました。イタリア人入植者の存在は、建築・食文化・商慣行に痕跡を残し、アスマラのアールデコ建築群は現在も独特の都市景観を形成しています。
第二次世界大戦でイタリアが敗北すると、英軍がエリトリアを占領し、戦後処理で国際連合はエチオピアとの連邦案を採択しました。1952年、エリトリアはエチオピア帝国と連邦を組み、自治議会と公用語の権利を持つはずでしたが、エチオピア側の中央集権化政策の中で自治は徐々に侵食され、1962年には皇帝ハイレ・セラシエが一方的に併合を宣言しました。これが長期の独立闘争の出発点となります。
独立闘争と国家形成――EPLF(後のPFDJ)の台頭と1993年独立
エリトリアの武装闘争は、1960年代にエリトリア解放戦線(ELF)が発足して始まり、のちに分裂・内紛を経て、1970年代からはエリトリア人民解放戦線(EPLF)が主導権を握りました。EPLFは山岳地帯に拠点を築き、女性戦闘員の参加、識字教育・医療・自給生産の重視といった「統治の予行演習」を戦時下で展開し、民衆基盤を強化しました。1974年のエチオピア革命で皇帝政権が倒れ、軍事政権デールグ(メンギスツ体制)がソ連・キューバの支援で強硬な戦争を継続するなか、EPLFはゲリラ戦と補給線遮断で消耗戦に耐え、1991年に首都アスマラを制圧して事実上の勝利を収めます。
1993年、国連監視下の住民投票で圧倒的多数が独立に賛成し、エリトリア国が成立しました。EPLFは政治組織を再編して人民戦線民主正義党(PFDJ)となり、指導者イサイアス・アフェウェルキが国家元首に就任します。独立直後は、徴税・通貨・港湾・司法の整備、イタリア期インフラの再生、帰還民の定住など国家建設が急がれ、教育・保健サービスの基盤整備が進められました。他方、政党制度・議会選挙・憲法実施は繰り返し先送りされ、戦時動員の延長としての統治が固定化していきます。
独立後の政治と外交――国境戦争、停戦、地域秩序との緊張
独立後の最大の危機は、エチオピアとの国境紛争です。1998年、両国はバドメ周辺の境界線をめぐって大規模な武力衝突に入り、2000年までに十万人規模の死傷者を出す消耗戦となりました。2000年のアルジェ合意で停戦が成立し、国境委員会の裁定を受け入れることが取り決められましたが、実際の境界画定と撤収は長く停滞しました。国境地帯には緩衝地帯とPKO(UNMEE)が置かれ、国境の閉鎖は経済・社会交流を大きく制限しました。
この間、政府は安全保障上の理由から徴兵・国民奉仕制度を長期化させ、行政・建設・農地開拓など多方面に動員しました。国家統制の強化はメディア・市民社会・宗教団体にも及び、海外移住・亡命の増加と送金依存の高まりを招きます。外交では、イエメンとのハニシュ諸島領有権争い(1995年仲裁で調整)、ジブチとの国境小競り合い、スーダン情勢との関係変動など、紅海とアフリカの角の安保環境に敏感に反応してきました。近年にはエチオピアとの首脳和解が注目を集めましたが、地域秩序の動揺や内戦の波は依然として国境管理と社会統制に影を落とします。
経済とインフラ――港湾・鉱業・ディアスポラ送金、そして国民奉仕
エリトリアの経済は、港湾(マッサワ・アッサブ)、鉱業(特に金・銅・亜鉛の複合鉱床)、農牧業、漁業、建設、そしてディアスポラからの送金に支えられてきました。内陸国にとっての海への出口を握る地理は大きな潜在力ですが、国境封鎖や制裁・緊張の継続は、港湾のハブ機能を十分に発揮することを妨げてきました。鉱業は外資との合弁で進み、道路・送電・給水などの関連インフラ整備が派生的に進展しますが、世界市況と治安・規制環境に左右されやすい脆弱性があります。
農牧業では、高原のテフ・大麦・小麦、低地のゴマ・ソルガム、家畜の移動放牧などが主力で、降雨の変動と土地・水の管理が収量を大きく左右します。漁業は紅海沿岸の多様な漁場を活かす余地があり、冷凍・輸送・市場アクセスの整備が課題です。都市の雇用と公共事業は、国民奉仕制度の下での動員が占める比率が高く、若年層の技能形成、民間投資の誘因、規制の予見可能性が持続的成長の鍵になります。
文化・言語・社会――二つの信仰、九つの民族、ディアスポラの網
文化的には、テワヘド派(エチオピア正教)の典礼言語ゲエズと、イスラムの学識・スーフィズム、そしてイタリア植民地期に移植された都市文化が重層しています。アスマラのカフェ文化や門構え、映画館・駅舎・給油所などのモダニズム建築は、地域でも特異な景観を形作り、近年は文化遺産としての評価が高まっています。音楽・詩・舞踊は、ティグリニャ語・ティグレ語など各言語の伝統を継承し、ディアスポラのコミュニティでも重要なアイデンティティ源です。
社会は、九つの公認民族(ティグリニャ、ティグレ、サホ、アファル、ビレン、ベジャ(ハディアレ)、クナマ、ナラ、ラシャイダ)を含み、言語・生業・居住の多様性を持ちます。教育政策は初等段階で母語教育を重視しつつ、中等以降ではティグリニャ語・アラビア語・英語を通じて広域コミュニケーションを確保します。ディアスポラは欧米・中東・アフリカ各地に広がり、資金・知識・政治的影響を通じて本国と相互作用します。
まとめ――紅海の門をめぐる歴史層と現在
エリトリアの歴史は、紅海という「開口部」から世界に向き合い、高原という「避難所」で社会を維持してきた営みの往復として理解できます。古代の海上交易、近代の植民地統治、長期の独立闘争、独立後の国境戦争と国家統制――それぞれの層が現在の政治・経済・社会の選択に深く刻印されています。港湾・鉱業・人のネットワークという資源を、地域秩序と国内制度の安定の中でどう生かすかが、この国の未来を左右します。国名の由来(古代ギリシア語の「紅い海=エリュトゥラー海」)が示すように、エリトリアは地名と歴史が重なり合う場所です。地理の制約と機会を正確に見極め、社会の多様性と外の世界との橋を丁寧に繋ぐことが、この地域を理解する近道になります。

