シナ・チベット語族 – 世界史用語集

シナ・チベット語族(Sino-Tibetan/日本語の伝統では「漢蔵語族」)は、東アジアからヒマラヤ・東南アジア内陸に広がる巨大な語族を指す名称です。中国語(漢語)・チベット語・ビルマ語(ミャンマー語)を三本柱に、ネパール・北東インド・チベット高原周縁・雲南・四川・ミャンマー・タイ北部などに分布する数百の言語を含むとされます。インド・ヨーロッパ語族、ニジェール・コンゴ語族に並ぶ規模と多様性をもち、母語話者総数では中国語の人口を背景に世界最大級です。語族としてのまとまりは、古い数詞・代名詞形・派生接頭辞・音節構造の歴史的対応、文法化の道筋の共有などから提案されてきましたが、内部分類や呼称(「シナ・チベット」か「トランス・ヒマラヤン」か)には現在も議論が続いています。以下では、定義と名称問題、地理と主要下位群、歴史比較言語学と再建の論点、音韻・文法の特徴と多様性、書記と言語接触、社会言語学的課題の順に、分かりやすく整理します。

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定義・呼称・研究史:なぜ「シナ・チベット」なのか

「シナ・チベット」は19世紀末から20世紀初頭にかけて、漢語とチベット=ビルマ語派(Tibeto-Burman)を同系とみなす提案に始まります。英語の Sino-Tibetan、ドイツ語の Sino-Tibetisch は、語族名として国際的に広く用いられてきました。他方、ヒマラヤとその東西にまたがる地理分布を重視し、漢語の中心性を名に冠さない立場から、「トランス・ヒマラヤン(Trans-Himalayan)」という呼称を唱える研究者もいます。日本語では長く「漢蔵語族」が用いられましたが、今日では「シナ・チベット語族」と併用されます。

研究史を簡単に言えば、20世紀中葉までに漢語—チベット=ビルマの比較研究が進み、数詞・代名詞・派生接頭辞(例えば *s- による使役・名詞化の痕跡)などの対応が積み上がりました。後期には、雲南—四川—チベット—北東インドにまたがる多数の小言語の記述研究が進み、データの爆発的増加とともに内部分類の再検討が始まります。20世紀末から21世紀には、音韻再建と形態対応に加え、文法化パターン・語用論的構文の比較、計算言語学的手法の導入も見られるようになりました。ただし、漢語とチベット=ビルマとの関係の深さ(時間深度)、語族内のサブグループの境界に関しては、いまも複数仮説が併存しています。

地理分布と主要下位群:巨大な連続体

シナ・チベット語族の分布は、北東は中国東北の漢語圏から、南西はミャンマー—インド北東—ネパール—ブータン—シッキム—アッサム—アルナーチャル—ナガ丘陵—雲南—四川の山地に広がる「言語のモザイク」です。平野部は漢語の諸方言(官話・呉・閩・粵・湘・贛・客家など)が優勢で、山地・渓谷・高原には多様な中小言語がパッチワーク状に分布します。主要な下位群を粗く挙げると、(1)漢語群、(2)チベット—ビルマ語派(広義)で、その内部に(a)ボド語群(チベット語・ゾンカ等)、(b)キランティ/タマン系(ネパール東部)、(c)カレン語群(タイ—ミャンマー国境山地)、(d)ロロ=ビルマ(彝〈イ〉語・ラフ語・リス語・ハニ語・ビルマ語など)、(e)チャン語群(羌・チャン/チベット高原東縁の諸語)、(f)ナガ・クキ・チン(インド北東部—ミゾ)、(g)ボド=ガロ(アッサム平野周辺)、(h)ニューアール(カトマンズ盆地)、(i)レプチャ、(j)イ語・ナシ(雲南北西部)、などがしばしば区分されます。境界は流動的で、移行帯や混合の事例も多い点に注意が必要です。

個別言語の規模も様々です。漢語(普通話を含む諸方言)は十億超の話者を持つ一大グループである一方、山地の少数言語には数万人—数千人規模のものが少なくありません。ビルマ語は国家規模の公用語でありながら、同国の山地にはラフ語・カレン諸語・カチン(ジンポー)など多様な小言語が併存します。チベット語も一枚岩ではなく、ウ・ツァン(ラサ系)、アムド、カムなど大きく異なる方言群があり、相互理解度は低いことが多いです。

比較言語学と再建の論点:数詞・代名詞・派生接頭辞

語族の同系性を示す伝統的な根拠は、規則的な音対応を伴う基礎語彙・機能語の対応です。シナ・チベットでは、とりわけ数詞と人称代名詞の比較が古くから重視されてきました。例えば「3」に対応する語根は、チベット語 gsum、ネワール語 sum、レプチャ語 sum、多くのロロ=ビルマ語でも sum 系列が分布し、同一祖形(仮に *g-sum)が推定されます。「2」はチベット語 gnyis、ビルマ語系では hni に相当し、語頭の子音連接と摩擦音化という対応が想定されます。「5」はチベット語 lnga、ビルマ語・ラフ語などに ŋa 系列が広く見られ、鼻音要素が特徴です。漢語の数詞は音声的に大きく変化していますが、上古音(上古漢語の再建形)を経由して比較すると、一部に対応の痕跡が議論されます。

代名詞でも、一・二人称の鼻音・軟口蓋音の関与(例:*ŋa 系の一人称)、二人称 *na 系の広がり、指示詞・近称/遠称の対立パターンなど、広域に共通する特徴が抽出されます。派生形態では、語頭接辞 *s- による使役・名詞化・結果状態化、*m- による関連派生、*r- の連用・反復関連などが、漢語・チベット・ロロ=ビルマの広い範囲に痕跡として観察されます。漢語ではこれら接辞の多くが消失し、音調(声調)や語順・機能語に置換されたと解釈する見方があります。

音節構造の歴史的推移も重要です。多くのチベット=ビルマ諸語に見られる「1.5音節(セスキシラブル)」、すなわち軽い前音節+重い主音節からなる語形は、祖語段階の接頭辞・語頭子音連接の反映と考えられます。語末子音の脱落が声調化を誘発し、漢語やタイ=カダイ語族との接触も相まって、東アジアのトーン言語地帯が形成されていきました。これに対し、チベット高原やヒマラヤ山地の多くの諸語では、語末子音や接辞の痕跡が比較的よく保存され、格語尾や動詞語尾の発達が見られます。

時間深度と故郷(原郷)については、雲南—四川—チベット高原東縁—長江上流域のいずれか(あるいは広い意味での「東ヒマラヤ周縁」)に求める仮説が有力です。農耕(特に粟・キビや稲の初期栽培)と語族拡散の関係も議論されますが、考古・遺伝・言語の整合には慎重が必要です。少なくとも、河谷に沿った縦方向の移動と、高原—盆地—平野の階層的移住が、語族の拡散に寄与したと考えられます。

音韻・文法の特徴:共通性と多様性

音韻面では、(1)声調の有無・複雑さの多様性、(2)語頭子音連接・接頭辞痕跡の保存度の差、(3)有声・無声対立と破裂音/摩擦音の系列、(4)前鼻音化・帯気音(有気音)などの対立が広く見られます。漢語やロロ=ビルマの一部は声調言語化が進み、チベットの一部方言やヒマラヤ諸語では声調を持たないか、弱い対立を持つ程度です。

形態・統語では、祖語がどの程度「膠着的」だったかをめぐる議論があります。多くのチベット=ビルマ語では、(a)後置詞/格接尾辞、(b)SOV語順(動詞文末)、(c)連体名詞化による節の標示(「名詞化が従属節を作る」パターン)、(d)エビデンシャリティ(証拠性)・アスペクト標示の充実、(e)方向接辞(上り・下り・こちらへ・あちらへ)や移動動詞の複合、(f)作格性(能格構文)の痕跡、などが広く観察されます。ロロ=ビルマ諸語には動詞系列(連動構文)や結果補語の豊富さが見られ、漢語では語順と機能語(了・過・着・把・被など)による文法化が進みました。

名詞句では、分類詞(量詞)の使用が漢語・ロロ=ビルマ諸語で広く共有され、指示詞(この/その/あの)の三項対立、場所・方向・処所の後接要素の体系が似通っています。語彙では、身体部位・親族名称・自然要素(山・川・火・水)に共通語根が指摘される一方、広域の接触(漢語—モン=クメール—タイ=カダイ—ミャオ=ヤオとの借用)が層を成して重なっており、個別言語の歴史を読むには借用層の剥離が不可欠です。

書記・文献と言語接触:漢字・チベット文字・ビルマ文字ほか

書記体系は多様です。漢語は言うまでもなく漢字という形態素中心のロゴグラフィーを発達させ、膨大な文献史を残しました。チベット語は7世紀にインドのブラーフミー系から受けた表音文字(チベット文字)をもち、仏教文献・歴史・行政文書の伝統があります。ビルマ語も同系統のビルマ文字を発展させ、碑文・年代記・仏典が豊富です。雲南—四川—チベット東縁には、イ文字(彝文)、トンパ(ナシ族の象形—音節混合体系)、東巴経の絵文字的記録など、多彩なローカル書記が存在してきました。ニューアール語(ネワール語)にはランジャナ文字などの伝統があり、文化圏ごとに書記の系譜が異なります。

言語接触は、シナ・チベット語族の歴史を理解する鍵です。漢語は長期にわたり、アルタイ系(古代トルコ語・満洲語等)、モン=クメール、タイ=カダイなどと相互に語彙を授受し、官僚制度・軍事・農耕・宗教語彙を共有・交換してきました。チベットと隣接するブータン・シッキム・ネパール・ラダック—ザンスカールでは、インド=アーリア語(ネパール語・ヒンディー等)との二言語使用が日常的で、語順・語彙・語法の相互影響が見られます。ミャンマー—タイ—ラオスの山地では、モン=クメール・タイ=カダイ・シナ・チベットの三語族がモザイク状に共存し、婚姻圏・交易圏を通じた借用が普遍的です。

内部分類の諸仮説:一本幹か、複数幹か

「漢語はチベット=ビルマ語派の一枝か、それと並列の姉妹群か」という点は、分類学上の核心的論点です。伝統的には、語族の二大枝として(A)漢語群(Sinitic)、(B)チベット=ビルマ(Tibeto-Burman)を並列させる見取り図が用いられてきました。他方、漢語を(ロロ=ビルマ・チャン・チベットなどを含む)より大きな節の内部に置く、あるいは逆に「チベット=ビルマ」を便宜上の集合とみなし、より小さな地域クレードに分解する見方もあります。計算系統樹の結果はデータ選択とモデルに敏感で、一定の傾向(例えばロロ=ビルマのまとまり、キランティやナガ=クキ=チンの近縁性)は示しつつも、決定版はまだありません。祖語再建(上古漢語・原チベット=ビルマ・原ロロ=ビルマ等)の層を区別して議論するのが実践的です。

社会言語学と現在:標準語・少数言語・危機と継承

国家と言語政策の影響は大きく、漢語(普通話/標準中国語)、チベット語(書記語・ラサ方言系)、ビルマ語(標準ビルマ語)といった「標準」が教育・行政・メディアで支配的地位を持ちます。これに対し、山地の多くの小言語は教育・放送・出版の資源が乏しく、若年層の移住・二言語化により急速に話者を失っているものが少なくありません。中国南西部・インド北東部・ネパール・ブータン・ミャンマーでは、記述言語学とコミュニティ主体の保存・継承プロジェクトが進み、正書法の整備、語彙集・物語の採録、デジタル・アーカイブ化が広がっています。観光化や少数民族ブランディングが、言語復興と緊張関係を生むケースもあり、文化政策の慎重な設計が求められます。

都市化・教育・ICTの浸透は、方言スペクトラムの再編を促します。漢語内部でも、官話方言への収斂、若年層の共通語志向、ネット文化語彙の流入が進む一方、広東語・閩南語など大方言のメディア圏は強固です。チベット語やビルマ語でも、都市型の口語標準と地域方言の距離が教育・就労機会に影響し、言語権・教育権の問題と結びついて議論されます。

誤解の整理と学習のヒント:地図・系統・文法の三点セットで掴む

よくある誤解を三点だけ整理します。第一に、「漢語とチベット語・ビルマ語は文法が全然違うので同系ではない」という見方は、共時態の差から通時態の同系性を否定する混同です。漢語の孤立的構造とチベット=ビルマの膠着的構造の差は、歴史的な形態の脱落・語順の文法化・声調化などによって説明可能で、祖語対応は基礎語彙と派生痕跡に残ります。第二に、「声調がある/ない」で語族を隔てるのも誤りです。声調は二次的な発達であり、語族内部での収斂と発散が併存しています。第三に、「シナ・チベット=中国とチベットだけ」という狭い理解。実際は、北東インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、雲南—四川の山地など、きわめて広範な地域の言語が含まれます。

学習の入り口としては、(1)地図:ヒマラヤ—雲南—四川の渓谷地形と民族分布図を手元に置く。(2)系統:漢語/ロロ=ビルマ/チベット/ナガ=クキ=チン/ボド=ガロ/キランティ/カレンなどの主要ラベルを覚え、相互の位置関係を概観する。(3)文法:SOVと名詞化、方向接辞、分類詞、動詞系列、格語尾・後置詞、証拠性とアスペクト――この「道具箱」を意識してテキスト例を読む。こうした三点セットで取り組むと、新聞の国際記事や民族誌・歴史書に現れる言語名が単なる固有名詞でなく、背後の体系と歴史に結びついて理解できるようになります。