クーデンホーフ・カレルギーは、20世紀前半に「パン・ヨーロッパ(汎ヨーロッパ)」構想を掲げ、欧州統合の思想的出発点を示した政治運動家です。オーストリア=ハンガリー帝国の外交官を父に、日本人の母を持ち、東京で生まれた多文化的背景は、国境を越えて人びとを結ぶという生涯の仕事に自然とつながりました。彼が1920年代に提唱したのは、軍事対立と保護主義で疲弊した大陸ヨーロッパを、自由貿易と共同安全保障で結ぶ連合体のビジョンでした。個々の国家は主権を保ちつつも、外交・安全保障・通商の要で協力し、戦争の誘因を取り除こうという発想です。のちに現れるヨーロッパ連合(EU)の制度や言葉は時代とともに変化しましたが、仏独和解、関税の壁を下げる共通市場、越境する議会交流といった骨格は、カレルギーの活動が社会に広げた「想像の土台」の上に築かれました。第二次世界大戦後、彼はアデナウアー、ド・ガスペリ、シューマンらと交流し、国会議員レベルの横断ネットワークや欧州会議(後の欧州評議会)に働きかけ、統合の世論を育てました。現代では陰謀論めいた誤解の的になることもありますが、実像は、戦争の連鎖を断つために言葉と組織で粘り強く公共圏を耕した「運動の仕掛け人」でした。
生涯と出自:東京生まれのヨーロッパ人
本名はリヒャルト・ニコラウス・フォン・クーデンホーフ=カレルギー(しばしばミドルネームのエイジロウが添えられます)です。1894年、父はオーストリア=ハンガリー帝国の駐日外交官ハインリヒ、母は日本の青山みつで、東京で生まれました。幼少期に一家はボヘミア(当時は帝国内、のちのチェコ領)へ移り、貴族的教養と多言語環境のなかで育ちます。ウィーン大学などで学んだ彼は、第一次世界大戦で大陸が荒廃するさまを身近に見た世代であり、戦後のオーストリア共和国で知識人のネットワークを広げました。1915年には女優のイーダ・ローラントと結婚し、ウィーン社交界とも接点を持ちます。
知的な形成過程では、音楽や文学への関心に加えて、哲学・国際政治・経済にまたがる広い読書が特徴でした。帝国の崩壊と民族自決の激流は、少数民族・国境・通商の問題を複雑にし、ドナウ経済圏は細分化されます。彼は、この細分化が保護主義を強化し、貧困とナショナリズムを刺激して再戦の火種を生むと直感しました。若き日のカレルギーにとって、ヨーロッパ統合とは抽象的な理想ではなく、経済と安全保障の「現実的な処方箋」だったのです。
1920年代初頭、彼は出版と演説を武器に活動を本格化させ、『パン・ヨーロッパ』(1923年)を皮切りに、運動の機関誌やパンフレットを次々に世に出します。名士の支援を受けつつも、資金不足や政治的反発に苦しむ日々が続きましたが、彼の粘り強さと組織力はやがて国際会議を動かすだけの影響力に育っていきました。
パン・ヨーロッパ運動:戦争の循環を断ち切る設計図
カレルギーの提唱したパン・ヨーロッパは、今日の連邦国家というより「連合(ユニオン)」に近い構想でした。基本は三つです。第一に、関税障壁を下げて大陸規模の単一市場に近づき、資源と技術、人材を循環させること。第二に、集団安全保障の枠組みを整え、二国間の軍事同盟に依存しない危機管理を行うこと。第三に、議会人・学者・ジャーナリスト・企業人などを横断的に結び、統合の利点を市民に届かせる公共圏をつくることでした。
この設計図は、ヴェルサイユ体制が抱えた欠陥—敗戦国の孤立、賠償問題、国境線の不安定、経済ブロック化—を乗り越える試みでもありました。カレルギーは仏独の和解を運動の中心に据え、両国を「ヨーロッパの双発エンジン」と呼んで共同歩調を促します。彼の著作と演説は、政治家だけでなく、アルベルト・アインシュタインやトーマス・マンといった知識人の支持も集め、1926年にはウィーンで第一回パン・ヨーロッパ大会が開催されました。そこでは、交通・郵便・電力など基幹インフラの国際化、パスポート・ビザ制度の簡素化、教育交流の拡充など具体的な協力案が俎上にのぼります。
外交上の波及効果もありました。フランスのアリスティッド・ブリアン外相(のち首相)は、1929年の国際連盟演説でヨーロッパ連合の構想を提起し、翌年に協力覚書を各国へ回付します。ブリアン案の背景には、パン・ヨーロッパ運動が醸成した言説空間があり、カレルギーは名指しで設計者として招かれることは少ないものの、影響力のある触媒として働きました。もっとも、世界恐慌と独伊のファシズム台頭が流れを断ち、その後の戦争が運動をほぼ壊滅に追い込みます。ナチ政権はカレルギーを危険人物とみなし、運動は弾圧の対象となりました。
亡命期の彼は、まず中欧からスイスへ、さらに1940年代には米国へ渡り、大学講演や出版を通じて連邦主義や西側協力の必要を訴え続けました。戦時下の経験は、戦後復興では「国民の安全と繁栄は国境の内側だけでは守れない」という確信を一層強め、欧州議会人の横断組織づくりへと結実します。
戦後ヨーロッパ統合への影響:制度を支える見えない基盤
第二次世界大戦後、カレルギーはヨーロッパ議会連合(European Parliamentary Union)を組織し、各国議員を結ぶネットワークを拡大しました。これは、政府間交渉とは別の「議会外交」を可視化する場であり、国境を越えた政策討議と信頼醸成の回路として機能しました。1948年のハーグ会議(通称「欧州会議」)—ウィンストン・チャーチルが名誉議長を務めた—では、統合を支持する政党や市民団体が集まり、欧州評議会(1949年設立)につながる具体的な流れが形成されます。チャーチルの「ヨーロッパ合衆国」という言葉は有名ですが、その背後でカレルギーは、演説台の照明を浴びるというより、準備会合や議員交流の実務を動かす潤滑油として存在していました。
統合の三人の父と称されるコンラート・アデナウアー(西ドイツ首相)、アルチーデ・デ・ガスペリ(イタリア首相)、ロベール・シューマン(フランス外相)らとも接点をもち、石炭鉄鋼共同体(1951年)からローマ条約(1957年)へ向かう「小さく始め、深く進める」方式を支持しました。彼の名は条約本文に刻まれませんが、議員・学者・市民を結ぶ底流のネットワークは、各国政府が妥協点を探るうえで重要な安全網となりました。1950年、彼は欧州統合へ顕著な貢献をした人物に贈られるカール大帝賞(アーヘン)を初めて受賞し、運動の象徴的存在として広く認知されます。
戦後の彼は、オーストリアやスイスを拠点に講演と執筆を続け、欧州議会の直接選挙や、文化・教育の統合政策にも関心を広げました。強固な軍事同盟だけでは平和は長続きしない、というのが彼の信念であり、教科書の共同編集、学生交換、メディアの越境連携といった「軟らかい統合」の価値を早くから説いていました。これらは今日、エラスムス計画や欧州評議会の文化協定、国境を越えた公共放送プロジェクトなどに継承されています。
思想の輪郭と評価:理想主義の功績、誤解と限界
カレルギーの思想は、三つの層から成り立っています。第一は現実主義的な国際政治観です。彼は大陸国家の分断が安全保障上の脆弱性を生み、列強の思惑に翻弄されることを恐れました。したがって、統合は「弱者の連帯」ではなく「相互依存の合理化」という色彩が濃いのが特徴です。第二は、自由主義的経済観です。関税障壁や通貨の混乱が企業と労働者双方に損失をもたらし、景気後退が極端な政治を呼び込むという連鎖を断つため、域内市場の整備を重視しました。第三は、人文主義に根差す文化観です。彼は教育・学術・芸術の交流を通じて共通の公共文化をつくり、相手を「他者」ではなく「隣人」として感覚できる経験の蓄積を重んじました。
一方で、彼のテキストには貴族主義的な響きや、当時の人種観・文明観に由来する価値判断が見られるのも事実です。指導的人材の役割を強調する筆致は、後世の眼からは民主主義の大衆的基盤を軽視しているように読める箇所があります。また、のちの極右陰謀論が彼の名を冠して捏造する「置換」や「混血優生」といった主張は、文脈を無視した誇張・曲解であり、彼の主眼である平和と協力の制度設計からは外れています。原典を精読すると、彼は紛争抑止のための制度と公共圏の整備に力点を置き、民族迫害や全体主義を鋭く批判しています。
活動家としての強みは、理念を文章と組織運営に落とし込む実務力でした。出版、会議運営、資金調達、各国議員や知識人との連絡網づくりを同時並行で回し、世論の注目を巧みに惹きつけました。弱点は、国家権力と交渉し条約を締結する「決定権」から一歩離れた立場ゆえに、成果が他者の手柄として記憶されやすい点です。実際、欧州統合の物語はしばしば政府間交渉の成功譚として語られますが、その背景で言葉を磨き、人を結び、議題を準備した市民ネットワークのうねりは、カレルギーのような「触媒型の指導者」なしには生まれにくかったといえます。
私生活では、最初の妻イーダ・ローラントが1951年に亡くなった後、1950年代に再婚し、晩年まで欧州各地で活動を続けました。1970年代に入ってからも講演旅行を行い、1972年に世を去ります。生地から見れば「日本にも縁ある欧州統合の祖」であり、ウィーンから見れば「帝国崩壊の廃墟から新しい共同体を構想した思想家」であり、ブリュッセルから見れば「制度を支える世論の造り手」と要約できます。いずれの像も彼の全体像の一部にすぎませんが、複数の文化と時代の断層を跨いで行動した希有な存在だったことは確かです。
総じて、クーデンホーフ・カレルギーは、戦争と経済危機が交互に襲う時代に、ヨーロッパを「争いの地」から「共同の家」へと作り変える構想を社会に流通させた人物です。彼が手にしたのは軍隊でも官僚機構でもなく、雑誌・本・演説・会議という非暴力の道具でした。目に見える条約や機関の背後には、目に見えにくい議論と信頼の蓄積があり、その土台を耕す作業を長年にわたり担った—それがカレルギーの実像です。今日の欧州統合が賛否を含む複雑な現実であるのと同じように、彼の思想もまた単純化には耐えません。しかし、暴力の連鎖を言葉と制度で断とうとした努力は、世紀をまたぐ公共財として今も読み直す価値があるのです。

