「植民地不要論(しょくみんちふようろん)」とは、近代の国家が富や勢力を拡大するうえで、必ずしも領土としての植民地を持つ必要はない、むしろ経済や政治の面でマイナスが大きい場合もある、という考え方を指す言葉です。とくに19世紀のイギリスで、自由貿易を重んじる経済学者や政治家たちが唱えた議論が有名で、「港を開いてお互いに貿易しさえすれば、わざわざ軍隊を送って領土として支配する必要はない」という主張として理解されます。
当時、多くの列強は「植民地こそ国力の源泉だ」と考え、競って植民地獲得に乗り出していました。この立場を「植民地必要論」と呼ぶとすれば、植民地不要論はその正反対にある考え方です。植民地の維持・防衛には莫大な軍事費や行政費がかかり、その負担は本国の納税者や労働者に跳ね返ります。また、植民地支配はしばしば戦争や暴力をともない、道義的にも問題がある――こうした批判を含めて、「自由貿易と平和な通商関係のほうが、長い目で見れば国の利益になる」という論理が展開されました。
もっとも、植民地不要論といっても、「あらゆる海外活動をやめよ」という意味ではありませんでした。関税を低く抑え、民間の貿易や投資を自由に行わせることで、形式的な領土支配がなくても経済的な利益は確保できる、と考えたのです。その一方で、19世紀末から20世紀にかけて帝国主義が強まると、こうした議論はしだいに少数派となり、「やはり植民地が必要だ」という声が政治の表舞台を占めるようになりました。
以下では、まず植民地不要論が生まれた歴史的背景と、特に19世紀イギリスでの自由貿易思想との関係を整理します。つづいて、マンチェスター学派などによる具体的な主張と、その狙い・限界を見たうえで、帝国主義の時代における植民地不要論の位置づけ、その後の評価や現代とのつながりを考えていきます。
植民地不要論の歴史的背景――自由貿易主義と19世紀イギリス
植民地不要論が最もはっきりと唱えられたのは、19世紀のイギリスでした。当時のイギリスは、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの工業力を誇っていました。大量生産された綿製品や鉄鋼製品を世界中に売るためには、各国の市場が開かれていることが重要であり、関税や独占的な貿易特権は障害とみなされました。
このような状況のなかで、アダム・スミス以来の古典派経済学や「自由貿易主義」の考え方が力を持ちます。たとえばスミスは、植民地を維持するための軍事費や行政費が本国にとって大きな負担であり、貿易そのものは領土支配をしなくても実現できる、と批判しました。彼に続く経済学者や政治家たちも、「国家が武力で市場を囲い込むより、関税を下げて誰とでも貿易をしたほうが、全体として豊かになる」という考え方を強調しました。
19世紀前半のイギリスでは、トウモロコシ法(穀物法)廃止をめぐる論争が、大きな転換点となりました。トウモロコシ法は、国内の地主を保護するために穀物輸入に高い関税をかける法律でしたが、都市の工業資本家や労働者にとっては、食糧価格を押し上げる逆効果の制度でした。マンチェスター学派と呼ばれる自由貿易派の政治家・実業家たちは、この法律の廃止を求め、「安い食糧と自由な貿易こそ、国全体の繁栄につながる」と主張しました。
トウモロコシ法が1846年に廃止されると、イギリスは本格的に自由貿易政策へと転換していきます。この流れの中で、「植民地の経済的な価値」そのものが問い直されました。かつての重商主義の時代には、植民地を持つことが市場の独占や資源確保に直結すると考えられていましたが、自由貿易が進んだ世界では、植民地でなくとも相手国の港さえ開いていれば貿易は可能です。むしろ、植民地を守るための軍事費や外交的なトラブルのほうが、負担として重くのしかかるという認識が広がりました。
こうした背景から、「植民地を持たなくても、自由な通商で十分に国の利益は守れる」「植民地を維持することは、納税者の犠牲を強いるだけだ」という植民地不要論が、主として商工業者や自由主義政治家の間で支持を集めるようになったのです。
マンチェスター学派と植民地不要論の主張
植民地不要論を代表する存在としてよく言及されるのが、19世紀イギリスのマンチェスター学派です。マンチェスターは綿工業を中心に発展した工業都市であり、自由貿易を支持する実業家や中産階級の拠点となっていました。彼らは、政府による経済への介入や保護関税、植民地維持のための軍事支出に批判的で、「小さな政府」と「自由な市場」を理想としました。
この学派の代表的政治家リチャード・コブデンやジョン・ブライトらは、トウモロコシ法廃止運動で活躍したほか、外交・軍事政策にも積極的に意見を述べました。彼らは、植民地や海外領土を守るために高価な海軍や常備軍を維持することが、国内の納税者や労働者の負担になっていると指摘し、「侵略的な対外政策ではなく、平和な通商こそが国の利益にかなう」と訴えました。
マンチェスター学派の植民地不要論には、いくつかのポイントがあります。第一に、経済合理性の観点です。植民地と本国の貿易であっても、植民地以外の国との貿易であっても、品物が安く手に入り、高く売れるならばそれでよいのであり、そのために領土支配は必須ではない、という考え方です。関税を引き下げ、国境を越えた自由な貿易を認めれば、形式上の「領土」は小さくても、経済活動の範囲は広がります。
第二に、財政・軍事負担への批判です。植民地を維持するには、港や要塞の建設、駐留軍の派遣、行政官僚の配置など、多大なコストがかかります。これらはすべて本国の財政支出であり、最終的には国内の税負担として市民にのしかかります。マンチェスター学派の人びとは、「植民地の利益」を理由にして国内の貧困層に負担を強いることに強い疑問を抱きました。
第三に、道義的な問題への意識です。必ずしもすべての自由貿易論者が植民地支配の道徳性を深く追及したわけではありませんが、少なくとも一部の論者は、戦争や武力を用いて他民族を支配することへの批判を口にしました。「文明」「自由」を掲げるイギリスが、海外では暴力的な支配や搾取を行っている――その矛盾に対して、良心の痛みを覚えた人びともいたのです。
とはいえ、マンチェスター学派の植民地不要論にも限界がありました。彼らの多くは、イギリス社会の中産階級の立場から発言しており、植民地支配が現地の人びとにもたらす苦しみよりも、本国の負担や経済合理性を重視する傾向がありました。また、「形式的な植民地支配が不要」と言いつつ、現実にはイギリスの経済力や海軍力が世界に及ぶ状況を前提にしており、力の不均衡そのものを改めようとするわけではありませんでした。
帝国主義の時代と植民地不要論の後退
19世紀後半に入り、ドイツやアメリカ、日本など新興の工業国が台頭してくると、国際競争は一段と激しくなります。この時期を「帝国主義の時代」と呼びますが、多くの国で「植民地こそ原料供給地と市場の確保に不可欠だ」「植民地を持たない国は二流国に落ちぶれる」といった論調が強まりました。イギリスでも、保守党のディズレーリなどが積極的な帝国拡張を唱え、女王を「インド皇帝」と称するなど、帝国意識を高めていきます。
このような流れのなかで、植民地不要論は政治的には少数派へと追いやられました。自由貿易を支持する自由党の内部でさえ、対外政策をめぐって意見が割れ、必ずしも一枚岩ではなくなります。植民地や海外市場をめぐる国際競争が激しくなるにつれて、「きれいごとだけでは国益を守れない」「他国に先を越されるくらいなら、先に植民地を確保したほうがいい」という現実主義的な声が増えていきました。
それでも、植民地不要論に近い考え方は完全には消えませんでした。19世紀末から20世紀初頭にかけては、イギリスの経済学者ジョン・A・ホブソンが、帝国主義を批判的に分析し、「資本家の過剰利潤を吐き出す場として植民地が利用されている」と指摘しました。ホブソンは、帝国主義は少数の投資家や軍需産業には利益をもたらすが、国全体として見れば、戦争や軍備拡大の負担のほうが大きい、と論じました。ここにも、「植民地は本当に必要なのか」という問い直しが見られます。
また、社会主義者や一部のキリスト教主義者の中には、植民地支配を道徳的・人道的な観点から批判し、「他民族を従属させる帝国主義は、自由や平等の理念と両立しない」と主張する人びとも現れました。ただし、こうした議論は当時の主流派ではなく、多くの政府は第一次世界大戦の直前まで、植民地帝国の維持・拡大を当然視していました。
第一次世界大戦と第二次世界大戦を経て、植民地帝国は大きく揺らぎます。膨大な戦費と犠牲、植民地兵士・労働者の動員、民族自決の理念の広がりなどを背景に、アジア・アフリカで独立運動が高まり、「そもそも植民地という存在は正当化できるのか」という問いかけが強まります。この段階になると、植民地不要論は単なる経済論ではなく、「植民地という制度そのものの否定」「民族自決の要求」と結びついていきました。
植民地不要論をどうとらえるか
植民地不要論は、表面だけを見ると「コストがかかるから植民地はいらない」という冷たい計算に聞こえるかもしれません。しかし、その背景には、「貿易は本来、武力や征服に頼らなくても成り立つ」「国境を越えた経済関係は、契約と合意にもとづくべきだ」という発想もありました。これは、力による略奪や独占を前提としていた旧来の重商主義とは、明らかに異なる考え方でした。
一方で、植民地不要論の多くは、「すでに強い立場にある国」が、自国の競争力や海軍力を前提として語った議論でもありました。イギリスの自由貿易論者は、「植民地がなくても貿易で食べていける」と主張しましたが、それはイギリスが工業力と金融力で他国を圧倒していたからこそ言えたことでもあります。形式上の植民地支配を手放しても、経済的・金融的な影響力を通じて他地域を事実上従属させることは可能だったのです。
また、植民地不要論は、しばしば本国の負担や利益に焦点を当て、植民地側の人びとの視点が十分に取り入れられていない、という限界も持っていました。「植民地を持つか・持たないか」を論じる際に、その議論の場に植民地住民がほとんど参加できなかったこと自体が、当時の国際社会の不平等を象徴しています。
それでも、「植民地がなくても経済は成り立つ」「武力による領土支配が国富の絶対条件ではない」という発想は、その後の国際経済秩序や国際政治のあり方を考えるうえで重要な視点を提供しました。20世紀後半、多くの植民地が独立を達成し、形式的な植民地帝国は姿を消しましたが、経済的な不均衡や政治的影響力の格差をめぐって、「新植民地主義」「経済的従属」などの議論が続いています。
世界史で「植民地不要論」という用語に出会ったときには、19世紀イギリスの自由貿易論者たちの議論を出発点にしつつ、「植民地はなぜ必要と考えられ、なぜ不要だと批判されたのか」「本国の利益と植民地の現実のあいだに、どのようなずれがあったのか」といった点を合わせて思い浮かべておくと、当時の時代状況と議論の幅が見えやすくなると思います。

