「三国同盟(独墺伊三国同盟)」は、19世紀末のヨーロッパでドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリア王国が結んだ防御的性格の軍事同盟を指します。初署名は1882年で、その後たびたび更新され、第一次世界大戦の勃発(1914年)時点でも形式上は有効でした。大枠としては、フランスやロシアといった周辺大国に対抗し、欧州の勢力均衡の中で自国の安全を確保するための取り決めです。ドイツとオーストリア=ハンガリーが土台となる「二重同盟(1879年)」に、地中海での利害を抱えるイタリアが加わったことで三国体制が成立しました。ただし、イタリアはフランスとの関係やアドリア海・バルカンでの利害調整に苦心し、同盟は一貫して「戦略的に有用だが内部に矛盾を抱える」構図を免れませんでした。第一次世界大戦では、イタリアが中立を宣言(1914年)したのち協商側(連合国)に転じ(1915年ロンドン秘密条約)、三国同盟は事実上崩壊します。以下では、成立の背景、条約の中身と更新、外交と地域利害、戦争への影響と終焉の流れを順に解説します。
成立の背景—ビスマルク体制と地中海の緊張
三国同盟の根をたどると、まず1871年のドイツ統一と、その後のビスマルク外交に行き着きます。ビスマルクはフランスの復讐(アルザス=ロレーヌ問題)を最大の脅威とみなし、フランスを外交的に孤立させるため、中央・東欧の多国間関係を組み替えました。1879年の独墺「二重同盟」は、ロシアとの関係が悪化したオーストリア=ハンガリーとドイツが、相互にロシアからの攻撃に備える防御条約として締結したものです。ここにイタリアを加え三国化する動機は、フランスの北アフリカ進出(特に1881年のチュニジア保護国化)によってイタリア世論が反仏・安全保障志向を強めたことにありました。
イタリアは統一を果たしたばかりで財政と軍備の整備に課題を抱えており、地中海での発言力確保には強力な後ろ盾が必要でした。チュニジアでの後れを取り戻すべく、イタリア外交はドイツ・オーストリア=ハンガリーとの連携に傾斜します。ドイツ側にとっても、イタリアの参加はフランス包囲網の一環として有益であり、オーストリア=ハンガリーにとってはアドリア海・バルカンでの影響力維持に資するものでした。こうして1882年、ベルリンで三国同盟が成立します。
同時期、英国は公式には三国同盟に参加しませんが、1887年に「地中海協定(Mediterranean Agreements)」をイタリア・オーストリア=ハンガリー等と結び、地中海における現状維持とオスマン領の保全をうたい、実質的にフランス・ロシアの南下をけん制しました。これは三国同盟の外縁に英国が接続する配置で、欧州の勢力均衡を複雑化させます。
条約の内容・更新と法的性格
三国同盟は、基本的に「防御的」である点が強調されました。主要条項は、(1)いずれか一国がフランスから攻撃された場合の相互援助、(2)オーストリア=ハンガリーがロシアから攻撃された場合のドイツ・イタリアの援助、(3)イタリアがフランスから攻撃された場合の独墺の援助、などを骨格としていました。他方で、オーストリア=ハンガリーがロシアに対し攻勢に出る場合、イタリアに自動参戦義務は課されないなど、想定する戦争の性格によって義務が分化していました。これは、アドリア海・バルカンで墺と利害が衝突しかねないイタリアの事情を織り込んだ妥協です。
条約は1887年、1891年、1902年、1912年など複数回更新され、細部の調整が進みました。更新のたびに、対仏抑止の明確化や、イタリアの地中海・北アフリカでの利害に配慮する付属協定が盛り込まれ、同盟の結束を維持しようと試みられます。しかしイタリアは1902年にフランスと秘密の中立協定を結び、対仏戦争が生起しても中立を保つ余地を確保しました。さらに、イタリアはオスマン帝国との伊土戦争(1911–12年)でトリポリタニア・キレナイカ(リビア)を獲得し地中海での利権を拡張しますが、これは英仏露との調整を必要とし、三国同盟の一体性を弱める要因にもなりました。
法的観点からいえば、三国同盟は相互援助義務を明記した軍事条約ではあるものの、参戦条件に「防御戦争であること」や「特定の相手国からの攻撃であること」などの限定を置き、政治判断の余地が残されていました。外交の現場では、この「限定付き義務」が各国の行動を柔らかく縛るにとどまり、危機のたびに条文解釈が争点となりました。
外交の実相—バルカン・アドリア海・北アフリカ
三国同盟の強みと弱みは、バルカン半島とアドリア海、北アフリカをめぐる利害の重なり方に凝縮されます。オーストリア=ハンガリーは多民族帝国で、バルカンの民族運動やロシアの汎スラヴ主義に神経をとがらせていました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908年)は、列強間の緊張を一気に高め、セルビアを後ろ盾とするロシアと対立を深めます。ドイツは盟友墺の背後支援(いわゆる「背後の保障」)を表明し、墺独ブロックの結束は強まりました。
一方、イタリアはアドリア海の対岸(ダルマチア沿岸、アルバニア)や地中海の要地に関心を持ち、バルカンでの墺の伸長と自国の利権が衝突する可能性を常に抱えました。イタリア国内の世論も「未回収のイタリア(イリリア地方やトリエステなどのイタリア系住民地域)」をめぐってオーストリア=ハンガリーと対立感情を持ち、同盟の政治的基盤は脆弱でした。北アフリカでは、トリポリ・キレナイカ獲得を通じて地中海での発言力を確保したものの、英仏との妥協を優先する現実主義が強まり、独墺との戦略一体性は低下していきます。
さらに、ルーマニアは1883年にドイツ・オーストリア=ハンガリーと秘密同盟を結んで三国同盟圏に接近しましたが、民族問題とロシア・バルカン情勢の変化を背景に、1914年には中立、1916年に協商側へ参戦します。ブルガリア・ギリシャ・セルビアといったバルカン諸国も列強の思惑に翻弄され、同盟と協商の間で立場を揺らしました。こうした「周辺国の流動性」が、三国同盟の抑止力を一定程度減殺しました。
第一次世界大戦と同盟の終焉
1914年6月のサラエヴォ事件(オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺)を受け、7月には墺がセルビアに最後通牒を発し、連鎖的に動員と宣戦が拡大して第一次世界大戦が始まります。条約上、イタリアは「防御的同盟」を根拠に、墺の対セルビア攻撃は防御に当たらないと主張して中立を宣言しました。これは、三国同盟が形式は維持しつつも、肝心の有事に統一行動をとれないことを露呈する出来事でした。
翌1915年、協商側はイタリアに大幅な領土譲与(南チロル、トリエステ、イストリア半島の一部、ダルマチア沿岸など)を約束するロンドン秘密条約を提示します。イタリア政府はこれを受け入れ、同年5月にオーストリア=ハンガリーに宣戦、8月にはドイツにも宣戦して協商側に加わりました。以降、イタリア戦線(イゾンツォ川・ピアーヴェ川・カポレットなど)で激戦が繰り広げられ、同盟は実質的に崩壊します。
ドイツとオーストリア=ハンガリーは、その後も同盟関係を維持しつつ戦争を継続しますが、経済力・兵站・人的資源で優位な協商側に押され、1918年に墺は崩壊、ドイツも休戦を受け入れます。戦後のパリ講和会議とヴェルサイユ体制のもとで、三国同盟は完全に過去のものとなりました。イタリアは約束された領土の一部しか獲得できず「勝利なき勝者」という不満を募らせ、これが戦間期の国内政治不安の一因となります。
評価と歴史的意義—抑止か、火薬庫の増幅か
三国同盟をどう評価するかは、視点によって異なります。短期的には、フランスの孤立を狙うビスマルク外交の一環として抑止効果を持ち、欧州の大戦を回避するための「均衡の一要素」として機能した側面があります。実際、1880~90年代の欧州は、大戦級の衝突を避けつつ局地的な危機(モロッコ、ボスニア、バルカン)を綱渡りで管理しました。
しかし長期的には、同盟・対抗同盟(英仏露の三国協商)という二極構図が硬直化し、危機が発火した際の「自動化した参戦連鎖」を招いたとも論じられます。条文上は限定付きの防御同盟であっても、国内世論や軍の計画、外交の面子が絡むと、柔軟な危機管理が難しくなります。イタリアが中立を選べたのは条文の余地のおかげですが、同盟の抑止効果が破綻したことも示していました。
総じて、三国同盟は「ビスマルク後」の欧州国際秩序が抱える緊張と脆さ、そして地中海・バルカン・北アフリカという多層の利害が絡み合う現実を映し出す鏡でした。ドイツとオーストリア=ハンガリーの結束に、イタリアという地中海国家の計算が重なり合い、多方面での妥協と取引を通じて辛うじて維持された構造は、危機の衝撃には耐えられませんでした。条約文の条件、更新の経緯、各国の国内政治と地域利害を合わせて眺めると、三国同盟の強みと限界、そして第一次世界大戦への道筋が立体的に見えてきます。

