種痘法 – 世界史用語集

「種痘法(しゅとうほう)」とは、かつて「天然痘(てんねんとう)」と呼ばれた非常に恐ろしい感染症から人々を守るために考え出された予防法のことです。天然痘は、発熱と全身の発疹、あばたと呼ばれる跡を残す皮膚症状を特徴とし、多くの人の命を奪ってきた病気でした。種痘法は、この天然痘にあらかじめかかりにくくする、もしくは重症化を防ぐことを目的として行われた方法であり、後の「ワクチン」の発想へとつながる重要な一歩となりました。

世界史で「種痘法」と言うときには、主にイギリスの医師エドワード=ジェンナーが18世紀末に確立した、牛痘(ぎゅうとう)を利用した予防接種法を指すことが多いです。しかし、その前段階として、人間の天然痘の膿やかさぶたを利用して免疫をつけようとする「人痘接種(じんとうせっしゅ)」の試みも、中東や中国などで行われていました。つまり、種痘法は、一つの技術というよりも、「天然痘に対して人工的に免疫をつける」という連続した工夫の歴史として理解することができます。

この解説では、まず天然痘という病気と、その予防法としての種痘法の仕組みを、専門用語をできるだけ避けながら説明します。そのうえで、人痘接種からジェンナーの牛痘法へと至る歴史的な流れを追い、さらに世界各地、とくに日本において種痘法がどのように受け入れられたのかを見ていきます。全体を通して読むことで、種痘法が単なる医療技術にとどまらず、人口の増加や社会構造、さらには「科学的に病気を予防する」という近代的な発想の誕生と深く結びついていることが見えてきます。

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天然痘と種痘法の基本的な仕組み

まず、種痘法を理解するうえで前提となる天然痘という病気について確認しておきます。天然痘は、ウイルスを原因とする急性の感染症で、発熱、頭痛、全身の倦怠感の後、皮膚に水ぶくれや膿をもった発疹が現れます。死亡率は時期や地域によって差がありますが、おおむね10〜30%、時にはそれ以上とされ、生き残った人も顔や体にあばたが残ることが多く、外見や社会生活にも大きな影響を与えました。古代から近代に至るまで、天然痘は「人類史上もっとも恐れられた病気の一つ」と言われるほどでした。

天然痘の特徴として重要なのは、一度かかって回復すると、ふたたび同じ病気にかかることはほとんどない、という性質です。これは、体の中に特定の病原体に対する「免疫」ができるためであり、経験的には古くから知られていました。種痘法とは、この性質を利用し、「あえて軽いかたちで病気にかからせることで、その後の重い天然痘を予防しよう」という発想から生まれたものです。

初期の人痘接種では、実際に天然痘にかかった患者の膿やかさぶたを少量取り、それを健康な人の皮膚や鼻腔に接種しました。これによって、その人は通常より軽い症状の天然痘にかかり、その後は免疫を得ると考えられていました。実際、重症の天然痘に比べると死亡率は低かったとされますが、それでも0ではなく、人為的に病気をうつすという方法は大きな危険を伴っていました。また、接種を受けた人から周囲に感染が広がる可能性もありました。

これに対して、ジェンナーの確立した種痘法(牛痘法)は、天然痘そのものではなく、「牛痘」と呼ばれる、牛にみられる類似の病気を利用する点に大きな特徴があります。ジェンナーは、牛の乳しぼりをする農民の女性たちが、牛痘にかかった経験があると、その後天然痘にかかりにくいということに注目しました。そこで彼は、牛痘患者の膿を取り、それを人間に接種するという実験を行いました。

牛痘は人間にも感染しますが、症状は比較的軽く、致命的になることはまれです。それにもかかわらず、一度牛痘にかかると天然痘にも強い免疫がつくことがわかり、牛痘の接種は天然痘の予防法として非常に有効であることが明らかになりました。ジェンナーは1798年にこの方法についての論文を発表し、その後、牛痘を使った種痘法はヨーロッパ各地、さらには世界中へと広がっていきました。

現代のワクチンと比べれば、当時の種痘法はまだ衛生面や技術面で不十分な点も多くありましたが、「病原体に似たもの、あるいは弱めたものをあらかじめ体内に入れて免疫をつくる」という基本的な考え方は、今日のワクチン開発の基礎と共通しています。種痘法は、この意味で「予防接種」という概念を医療の中心に押し上げる転機となったといえます。

人痘接種からジェンナーの種痘法へ

種痘法の歴史をたどると、ジェンナーの牛痘法だけでなく、それ以前の人痘接種の伝統にも目を向ける必要があります。人痘接種は、中国やインド、中東などで早くから行われていたと考えられています。中国では明代ごろには、天然痘患者のかさぶたを粉にして鼻から吸い込ませる方法が知られていたとされ、これもまた天然痘に対する予防の一種でした。

18世紀のヨーロッパでは、オスマン帝国との交流を通じて人痘接種が知られるようになります。とくに有名なのが、イギリスの外交官夫人レディ・メアリー=ウォートリー=モンタギューの働きです。彼女はオスマン帝国の都イスタンブルに滞在中、現地の女性たちが子どもに人痘接種を行っている様子を目にし、その有効性を理解しました。イギリスへ帰国した後、彼女は自分の子どもたちに人痘接種を行わせ、その経験を上流社会に広めていきました。

しかし、人痘接種は先ほど述べたように、依然として危険性を伴う方法でした。接種を受けた人が重症化したり、周囲に天然痘を拡散させてしまう可能性があったため、「危険だが、何もしないよりはまし」という微妙な位置づけだったのです。この危険性を回避しつつ、同等の予防効果を得る方法として登場したのが、ジェンナーの牛痘法でした。

ジェンナーはイングランド西部の田園地帯で医師として働き、その中で農民たちの生活や病気に関する経験則を注意深く観察していました。彼は、牛痘にかかったことのある乳しぼりの女性は天然痘にかからない、という民間の言い伝えに興味を持ち、それを科学的に検証しようと考えました。1796年、彼は牛痘にかかった乳しぼり女の手の水疱から膿を取り、それを少年の腕に接種するという実験を行います。少年は軽い症状で回復し、その後、天然痘の膿を接種されても発病しなかったと報告されています。

この実験結果にもとづき、ジェンナーは牛痘法の有効性を主張する論文を発表しました。当時の医学界には懐疑的な反応もありましたが、実際に種痘を受けた人々が天然痘から守られているという事例が積み重なり、しだいに牛痘法の信頼性が認められていきます。ジェンナーの方法は「ワクチン接種」とも呼ばれますが、「ワクチン(vaccine)」という言葉自体が、ラテン語の「牛(vacca)」に由来していることはよく知られています。

19世紀に入ると、多くのヨーロッパ諸国で種痘法が普及し、やがて義務化される動きも出てきました。国によっては、出生後一定期間内に種痘を受けることが法律で定められ、種痘証明書が学校入学や就職の条件となる場合もありました。こうした政策は、国家が国民の健康管理に積極的に介入していく近代的な公共政策の一例としても理解できます。

同時に、種痘法は宗教的・文化的な抵抗にも直面しました。体に病原に関連する物質を入れることへの不安や、神の摂理に反するのではないかという懸念から、種痘を否定的に見る人々も少なくありませんでした。それでも長期的には、天然痘による被害の大きさと、種痘の効果が広く認識されるにつれ、種痘法は世界各地で受け入れられていくことになります。

世界史の中の種痘法と日本への受容

種痘法は、単に一つの医療技術にとどまらず、人口動態や国家の政策、植民地支配など、世界史全体の流れにも大きな影響を与えました。天然痘は、戦争や飢饉と並んで人口を大きく減少させる要因であり、とくに新大陸の先住民社会に壊滅的な打撃を与えたことが知られています。ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出した際、現地の人々は天然痘に対する免疫を持っていなかったため、大流行によって人口が激減し、征服と支配が進む一因となりました。

逆に、種痘法の普及は、こうした伝染病による大量死亡を減少させ、人口増加をうながす方向に働きました。ヨーロッパでは18〜19世紀にかけて、農業生産の向上や衛生状態の改善とともに、天然痘をはじめとする感染症の影響が相対的に弱まり、「人口革命」と呼ばれる人口急増の時期を迎えます。種痘法は、この人口革命を支えた要因の一つと評価されています。

また、植民地支配や軍隊の運営においても、感染症対策は重要な課題でした。植民地の住民や兵士に種痘を施すことは、支配を安定させるための実務的な手段でもありました。これは一面では人命を救う行為でありながら、同時に帝国支配を維持するための技術でもあったという、二重の性格を持っていました。近代国家が医療技術をどのように利用したのかを考えるうえで、種痘法は象徴的な事例といえます。

日本においては、江戸時代後期にオランダ語医学書を通じてジェンナーの種痘法が知られるようになりました。鎖国体制の下でも長崎出島を通じてオランダとの交易が続いていたため、ヨーロッパの最新医学の一部は「蘭学」として学ばれていました。その中で、天然痘の予防法としての種痘法が紹介され、徐々に理解と実践が進んでいきます。

19世紀半ばには、緒方洪庵らの蘭方医が牛痘を用いた種痘を広める活動に尽力しました。彼は大阪に適塾を開き、多くの門弟を育てるとともに、実際に種痘を行うことで天然痘予防に取り組みました。やがて幕府も種痘の有効性を認め、各地で種痘所が設けられるなど、制度的な整備が進められました。明治維新後も、近代的な衛生行政の一環として種痘が推進され、日本社会における近代医学の受容を象徴する事例となりました。

20世紀に入ると、ワクチンの製造技術や保存・輸送の方法が改善され、より多くの人々が安全に予防接種を受けられるようになりました。第二次世界大戦後には、世界保健機関(WHO)が中心となって天然痘根絶計画を進め、各国で大規模なワクチン接種キャンペーンが実施されました。その結果、1980年には天然痘の根絶が公式に宣言され、人類は歴史上初めて、一つの感染症を地球上から完全に消し去ることに成功しました。

このように、種痘法は、天然痘という病気との長い闘いの中で生まれた技術であり、最初は危険を伴う人痘接種から始まり、ジェンナーの牛痘法、近代的なワクチン技術へと段階的に発展してきました。その過程には、医師や研究者の観察力と工夫だけでなく、人々の恐怖や不安、宗教的な葛藤、国家の政策判断など、さまざまな要素が絡み合っています。世界史の中で種痘法を学ぶことは、病気の歴史や医学の進歩を見るだけでなく、人間社会が「病とどう向き合ってきたのか」を立体的に理解することにもつながるのです。